いざ鎌倉プロジェクト-鎌倉四兄弟-最後の晩餐-

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鎌倉四兄弟についての解説ページです。

次回は9月16日(日)に第30回歴史演劇『鎌倉四兄弟-最後の晩餐-』を上演いたします。
場所は湘南モノレール湘南深沢駅より徒歩3分 鎌倉武士体験処 深沢砦(ふかさわのとりで)です。
入場および観劇は無料です(活動維持のため寄付を募っております)。

これまでの『鎌倉四兄弟-最後の晩餐-』まとめページはこちら

鎌倉四兄弟人物相関図
▲クリックすると画像が拡大します。
鎌倉四兄弟-最後の晩餐-6月23日(土)上演



森川孝郎版-第11回『鎌倉四兄弟-最後の晩餐-』2017年6月18日撮影
撮影:小林遥 脚本:森川孝郎 原作:鎌倉智士

原作「鎌倉四兄弟-最後の晩餐-」

原作者鎌倉智士が2014年に著した原作「鎌倉四兄弟-最後の晩餐-」です。
2016年に改訂しています。
▽クリックすると読むことができます。
鎌倉四兄弟-最後の晩餐-(原作-鎌倉智士版)

角田晶生著「鎌倉四兄弟-最後の晩餐-」。鎌倉もののふ隊オフィシャルストーリーです。
▽クリックすると読むことができます。
鎌倉四兄弟-最後の晩餐-(角田晶生版)

はじめに
敗者は歴史を語ることができない…。源頼朝が鎌倉に攻めてくるもっと前の時代。鎌倉を拓き、守り、治めてきた一族たちがいたが、いまとなっては彼らのことを語り継ぐ者はいない。
これは、鎌倉の礎を築き、人々の暮らしを支えてきた彼らへの供養の気持ちで著した物語である。
鎌倉智士(原作)

物語のはじまり
治承4年(1180年)の夏のある日。鎌倉の4人の兄弟たちのもとに源頼朝から密書が届く。その書には「挙兵に加勢すべし」と記されていた。 鎌倉の地は先祖代々鎌倉党が治めてきたが、源頼朝を擁立する周辺豪族の中村党と三浦党に囲まれ、彼らは豊かな鎌倉の地を虎視眈々と狙っていた。 結束を固めようと、戦の前に鎌倉の4人の兄弟たちが集まろうとしていた…。

演劇「鎌倉四兄弟-最後の晩餐-」

原作をもとに、現在、石倉正英さん(紅月劇団)、木村吉貴さん(劇団5月13日)、森川孝郎さん、阿僧祇さん、角田晶生さん、干場安曇さんなど、多くの方に脚本・台本をつくっていただき、演劇として上演しています。

【過去の上演実績】
回数 開催日 機会 参加者 脚本
1回 2016年8月6日(土) ふかさわ夏まつり 15人 木村吉貴(劇団5月13日)
2回 2016年10月1日(土) 藤沢病院まつり 30人 木村吉貴(劇団5月13日)
3回 2016年10月1日(土) 鎌倉オクトーバーフェスト 28人 木村吉貴(劇団5月13日)
4回 2016年11月23日(祝) 深沢地区文化祭(芸能まつり) 16人 木村吉貴(劇団5月13日)
5回 2016年12月16日(金) 鎌倉もののふ隊忘年会 6人 森川孝郎
6回 2017年2月18日(土) らい亭(観梅会) 6人 森川孝郎
7回 2017年2月24日(金) 鎌倉御所 6人 森川孝郎
8回 2017年4月25日(火) らい亭 15人 森川孝郎
9回 2017年5月18日(木) tutti 9人 石倉正英(紅月劇団)
10回 2017年5月21日(日) 長谷の市@長谷寺 13人 森川孝郎
11回 2017年6月18日(日) 湘南台文化センター 15人 森川孝郎
12回 2017年7月30日(日) あそび楽宿@光明寺 24人 石倉正英(紅月劇団)
13回 2017年11月23日(木) 深沢地区文化祭(芸能まつり) 15人 干場安曇
14-16回 2017年12月23日(土) アクターズワークショップ 16人 角田晶生
17-19回 2017年12月24日(日) アクターズワークショップ 20人 角田晶生
20回 2018年1月7日(日) 鎌倉もののふ隊新年会 10人 干場安曇
21回 2018年2月25日(日) 深沢砦 15人 角田晶生
22回 2018年3月10日(日) 深沢砦 12人 角田晶生
23回 2018年5月26日(土) 深沢砦 16人 角田晶生
24回 2018年6月23日(土) 深沢砦 21人 角田晶生
25回 2018年7月22日(日) 覚園寺(旧内海家邸宅) 27人 角田晶生
26回 2018年8月15日(水) 深沢砦 3人 角田晶生
27回 2018年8月18日(土) 深沢砦 21人 角田晶生
28回 2018年8月19日(日) 龍寶寺(旧石井家住宅) 3人 角田晶生
29回 2018年8月26日(日) 北野神社 8人 角田晶生
30回 2018年9月16日(日) 深沢砦 33人 角田晶生
31-34回 2018年9月21日(金) アクターズワークショップ   干場安曇
35回 2018年11月23日(金) 深沢砦 26人 角田晶生
36回 2018年11月25日(日) 深沢地区文化祭(芸能まつり) 7人 角田晶生

【協賛】
藤沢病院 / 湘南モノレール / らい亭

【出演者】
秋元淳(紅月劇団) / 浅岡佐和子 / 阿僧祇 / 穴水大介 / 阿部虎之介 / 新井誠 / 飯田賢 / 石井真寿美 / 石井真千子 / 石川雅之 / 石川陽己 / 石倉正英(紅月劇団) / 石渡則光 / 井上雄友 / 今井晃(辻堂仲町町内会) / 伊従洋子 / 上野旭(友情出演) / 宇内裕之 / 大石裕一 / 大竹正芳 / 岡田英之 / 折笠安彦(紅月劇団) / 加藤和成 / 加藤俊輔 / 加藤道行 / 鎌倉純子 / 河田啓介(紅月劇団) / 木村周 / 久木田菜津美 / 日下部晃志 / 倉田こひめ / 小島直人 / 古知屋恵子 / 古知屋智彦 / 小西麻里 / 小林敬 / 酒井宏志 / 佐藤由利佳 / 眞田規史 / 志々目直子 / 清水克泰 / 菅原純子 / 菅原隆 / 杉本美香 / 須崎智彦 / 鈴木啓之 / 高木祐寿 / 高橋宏輔(辻堂仲町町内会) / 高山俊弥 / 竹内博孝 / 多田諭史 / 田中昇(和楽会昇) / 田中里奈 / 谷慶子 / 角田晶生 / 常本伸行 / 中村晴美 / 夏川統二郎 / 成瀬拓也 / 二戸郁美 / 畑中茂雄 / 畑山知美 / 福島すみれ / 藤代瞳子 / 藤代まゆこ / 藤田幹人 / 古川伸一 / 古野裕子(劇団5月13日) / 干場安曇 / 干場洛 / 干場麟 / 堀内丈生 / 増田和穂 / 松尾崇 / 松本裕 / 三村真理子 / 宮下篤史 / 棟方環 / 森川孝郎 / やなぎてつや(紅月劇団) / 吉田明彦 / 吉田京子 / 吉永あかり / 吉永わかな / 吉野裕子 / 和田淳也(友情出演)

【協力】
辻堂仲町町内会 / 劇団5月13日 / 三原等(撮影) / 内田剛史(撮影) / 紅月劇団 / 湘南台文化センター / 鎌倉アクターズワークショップ / 和楽会昇 / 白旗神社横町町内会

【プロデュース】
鎌倉智士

【進行補助】
笠井千恵

鎌倉四兄弟とは

鎌倉四兄弟(かまくらよんきょうだい)は、実在した平安時代後期の武士、懐島景義・大庭景親・豊田景俊・俣野景久ら四人の兄弟たちのこと。

略歴
保元の乱(1156年)に大庭景義・大庭景親兄弟は朝命(天皇の命令)に従い、仇敵である源義朝軍に従軍して戦う。源為朝に膝を矢で射抜かれて負傷し、歩行も難しい身となった大庭景義は家督を弟の大庭景親に任せて懐島(現在の神奈川県茅ヶ崎市円蔵)に隠棲。
保元の乱で兄の大庭景義(懐島景義)の窮地を救い、家督を譲られて鎌倉氏の棟梁となった大庭景義は、平治の乱(1159年)で仇敵である源義朝と敵対して戦う。大庭景親は囚われてあわや斬られるところであったが、平清盛が源義朝に勝ったために命拾いし、平清盛に東国八箇国一の名馬「望月」を献上するなど平家への接近に成功し「東国の御後見(東国における平家軍の総司令官)」として相模国内の立場を強化していく。
逆に源義朝に与していた三浦氏や中村氏は相模国内で劣勢に立たされていく。
それから20年、鎌倉四兄弟(懐島景義・大庭景義・豊田景俊・俣野景久ら四人)をはじめ鎌倉氏の一族たちは相模国内で盤石の勢力を誇っていた。
しかし、治承4年(1180年)8月に源頼朝が伊豆国で挙兵すると、鎌倉一族の懐島景義・豊田景俊・長江義景らが源頼朝に与し、鎌倉四兄弟や鎌倉氏一族たちは袂を分かち戦うこととなる。大庭景親は石橋山の戦いでこそ圧倒的な力の差で圧勝するものの、上総広常・千葉常胤らが源頼朝に与したために逆転負けし、治承4年(1180年)10月には大庭景親は降伏し斬首される。
懐島景義・豊田景俊は鎌倉幕府御家人として活躍し、俣野景久は寿永2年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦いで討死するまで平家方として戦いつづけた。

源頼朝挙兵までの大庭景親の動き
平治の乱以後、大庭景親は東国の侍別当(長官)の伊藤忠清に代わって東国の実質的支配を任され「東国の御後見」として東国における平家軍の総司令官の地位を盤石のものとしていた(『源平盛衰記』)。
治承4年(1180年)5月26日、京都大番役で在京中の大庭景親に出陣の命令がくだされる。クーデター(以仁王の挙兵)を起こした以仁王と源頼政の追討軍に動員された大庭景親は大いに活躍し、宇治橋合戦で以仁王・源頼政連合軍を見事に撃破する。
大庭景親は伊藤忠清に呼び出され、伊豆国の源頼朝と北條時政の謀反の企てについて問われるが、慌てて知らないと答えている。源頼朝の謀反の企てを知りつつも慌てて知らないと答えたことは後の佐々木秀義(娘婿佐々木義清の父)の会話で明らかとなっている(『吾妻鏡』)。伊藤忠清は無力な源頼朝が挙兵するなど非常識で考えられないと話している。
治承4年(1180年)6月19日、平家による諸国の源氏追討の動きが高まり、京都から三善康信が源頼朝へ弟を派遣し、奥州藤原氏のもとへ逃げるよう伝える。
治承4年(1180年)6月24日、源頼朝は小野田盛長を使者として諸国へ派遣。大庭景親・懐島景義・豊田景俊・俣野景久ら鎌倉四兄弟はじめ鎌倉氏一族のもとにも「源家相伝の家人なのだから源家中絶のあとを興すことに加勢すべし」と使者が訪れる。
治承4年(1180年)6月27日、京都大番役で在京していた三浦義澄と千葉胤頼が伊豆国北條館を訪れ京都の情勢を報告(『吾妻鏡』)。京都での源氏追討の動きが緊迫してきていることがうかがえるとともに、三浦氏や千葉氏がすでに企てに大きく加担していることがうかがえる。
治承4年(1180年)7月10日、小野田盛長が源頼朝のもとへ戻る。小野田盛長の報告によれば、懐島景義・三浦義明が快諾し、千葉常胤・上総広常も承認したとされる。波多野義常や山内首藤経俊らは招集に応じないばかりか嘲笑したり悪口雑言を吐いたともされる(『源平盛衰記』)。源義朝の代までは源家相伝の家人であった三浦氏・千葉氏・上総氏らは平氏系の目代から圧迫されており、このまま平氏政権がつづいては困るそれぞれの都合があったが、同じく源家相伝の家人であった波多野氏・山内首藤氏は家の運命を危険にさらせない立場にあった。
治承4年(1180年)8月2日、大庭景親は平清盛の命令を受け、源頼政の孫源有綱を追補するために相模国に帰国(『玉葉』)。伊藤忠清からは謀反の徴候の見える上総広常に京都へ出向くよう伝える命令を受けていた(『吾妻鏡』)。大庭景親は源頼朝が謀反を企てていることを伊藤忠清に告げないまま相模国へ帰国。
治承4年(1180年)8月9日、大庭景親は佐々木秀義を自邸に招き、源頼朝の謀反の企ての情報が京都に漏れていることを伝え、源頼朝に与する佐々木秀義の息子たちにしっかりと用意すべきだと伝えている(『吾妻鏡』)。佐々木秀義は佐々木定綱を使者として源頼朝に報告。源頼朝は挙兵を急ぐことを決める。
大庭景親は、兄懐島景義から源氏に与すると告げられると、「囚われあわや斬られるところを平家に助けられ、その恩は山より高く海より深い。東国の後見として妻子を養うことができるのも忘れてはいけない」と返答(『源平盛衰記』)。どちらが勝っても負けてもお互いに助け合うと誓い、袂を分かち戦うことになる。
治承4年(1180年)9月2日、源頼朝挙兵を知らせる大庭景親の早馬が平清盛のいる福原に到着。追討軍の派遣が決められるが編成は遅々として進まない。伊藤忠清は相模国を代表する大庭景親・懐島景義兄弟と武蔵国の畠山重忠らが味方についていれば伊豆国・駿河国の両国合わせて四か国の武士たちは皆、平家方になると出兵に慎重な姿勢であった(『平家物語』)。すでに懐島景義が源頼朝方に与していることを伊藤忠清は知らなかったことがうかがえ、この判断ミスが平家敗北の一つの要因になる。
上総広常が源頼朝に味方したことにより形勢は逆転し、治承4年(1180年)10月26日、大庭景親父子は片瀬河原で斬首される。処刑者は兄懐島景義。源頼朝から助命嘆願をするかと打診された懐島景義はこれをすべて断り、源頼朝の裁断に任せる。斬首が決まると他人の手にかかるよりはと自ら処刑者を担うと申し出ている。罪は逃れることはできないが降伏すれば咎めず、戦場で忠節をつくせばかえって誉められるという降伏勧告が大庭景親に届いていたが、条件は守られることはなかった(『源平盛衰記』)。

鎌倉氏の三浦氏・中村氏・源氏との確執
永久5年(1117年)10月23日、鎌倉景政は、領地である大庭を伊勢神宮に寄進。長治元年(1105年)から天承元年(1131年)にかけて鎌倉景政は荒れ果てていた大庭を開墾し、広大な農地として開発。「不輸の権・不入の権」を有する貴族に土地を寄進(荘園)する者が続出していた時代であり、寄進地系荘園が多く日本中の土地はすべて貴族のものになってしまい、朝廷の土地(国衙領)は立つこともできないほど少ないといわれる状況であった。鎌倉景政が大庭を伊勢神宮に寄進したことによって、公領(国衙領)の支配を任される在庁官人である三浦氏との確執は大きくなる。
天養元年(1144年)9月と10月に、源義朝が家来や相模国衙の官人たち、さらに相模国の豪族三浦義継・三浦義明・中村宗平・和田助弘らとともに大庭御厨に攻め込み、乱暴を働き多くの神官を死傷させた上、大庭御厨の下司大庭景宗の屋敷を荒らして私財を強奪。伊勢神宮への供祭料を奪い、作物を刈りとるという事件が起こる(『天養記』)。相模国中央の豊かな地域である相模平野への進出(侵略)が目的であったが、鎌倉氏と三浦氏・中村氏の間には、もっと以前から相模国内における豊かな土地をめぐって領地争いが行われていた。承暦3年(1079年)には鎌倉氏と中村氏の領地争いが起こり、中村景平と鎌倉為季が討死している(『水左記』)。
治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵は、相模平野をめぐる領地争いと言っても過言ではない。源頼朝の挙兵を支えていたのは中村氏の土肥実平と、三浦氏の三浦義明。中村氏・三浦氏にとって100年以上にもわたって繰り広げられてきた領地争いにおける積年の恨みが、源頼朝を担ぎ上げたともいえる。

参考文献
文献
・永井路子『相模のもののふたち』(有隣新書)
・細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』(洋泉社)
・湯山学『相模武士-全系譜とその史蹟〈1〉鎌倉党』(戎光祥出版)

史料
『吾妻鏡』
『倭名類聚抄』
『源平闘諍録』
『奥州後三年記』
『平家物語』
『延慶本平家物語』
『源平盛衰記』
『曽我物語』
『水左記』
『天養記』
『玉葉』
『酒匂家由緒書(鹿児島県立図書館蔵書)』
『新編相模国風土記稿』
『陰徳太平記』
『承久軍物語』
『相承院文書』
『我覚院文書』
『円覚寺文書』
『静岡大右寺文書』
『島津文書』
『証菩提寺文書』
『御霊神社由緒略記』
『宮前御霊宮縁起』
『二伝寺村岡五郎平良文公墓前碑』
『十二天王碑』
『相州鎌倉之図』
『鎌倉絵図』
『東海道名所記』
『相州鎌倉之本絵図』
『川名御霊神社縁起』
『太平記』
『鎌倉攬勝考』
『玉縄諏訪神社由緒』
『伊勢崎風土記』
『平良文由来記』
『将門記』
『渡内日枝神社縁起』
『鎌倉市史(考古編昭和34年)』
『皇国地誌』
『村岡旧記(神奈川県立金沢文庫所蔵)』
『村岡郷五ケ村地誌調書上帳』
『天満宮縁起』
『千葉氏家伝』
『今昔物語集』
『金太郎』
『日本紀略』
『応徳元年皇代記』
『諸家系図纂』
『平群系図抜萃』
『続群書類従』
『続左丞抄第一』
『古事談』
『古今著聞集(339)』
『陸奥話記』
『詞林采葉抄』
『詞林菜葉抄』
『中右記』
『五霊宮縁起』
『魚魯愚鈔』巻第6
『前九年合戦之事』
『源威集』
『御影之記』
『相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略』
『疱瘡神碑』
『大日堂縁起』
『陰徳太平記』
『勝福寺縁起』
『相模守藤原隆重の解状』
『鎌倉遺文614』
『保元物語(香川県金刀比羅宮写本)』
『平治物語』
『愚管抄』
『三島の昔話』
『山槐記』
『長門本平家物語』
『新平塚風土記稿』
『神奈川県中郡勢誌』
『中世平塚の城と館』
『海道記』
『楠木合戦注文』

系譜
『尊卑分脈』
『桓武平氏諸流系図』
『平群系図』
『系図纂要』
『酒匂家の系図』
『長尾正統系図』
『神奈川県姓氏家系大辞典』
『三浦系図』
『長尾系図』
『千葉大系図』

関連項目
人物
・鎌倉景政
・懐島景義(大庭景義)
・大庭景親
・豊田景俊
・俣野景久
・梶原景時
・酒匂朝景(梶原朝景)
・香川家政
・長尾為景(長尾為宗)
・長尾定景
・長江義景
・樫尾景方(樫尾景高)

氏族
・桓武平氏
・坂東八平氏
・村岡氏
・鎌倉氏(鎌倉党)
・大庭氏
・懐島氏
・豊田氏
・俣野氏
・梶原氏
・酒匂氏
・香川氏
・長尾氏
・長江氏
・小坂氏
・柳下氏
・深沢氏

領地 -鎌倉氏(鎌倉四兄弟)が治める土地-
・大庭御厨
・相模国鎌倉郡村岡郷
・相模国鎌倉郡鎌倉郷鎌倉
・相模国高座郡懐島郷
・相模国高座郡大庭郷(大庭荘)
・相模国大住郡豊田郷
・相模国鎌倉郡俣野郷
・相模国鎌倉郡梶原郷
・相模国高座郡香河郷
・相模国鎌倉郡長尾郷長尾(長尾荘)
・相模国鎌倉郡長尾郷金井
・相模国鎌倉郡深沢郷(深沢荘)
・相模国足柄下郡酒匂郷
・相模国足柄下郡柳下郷
・相模国鎌倉郡端山郷長柄(長江)
・相模国鎌倉郡小坂郷
・相模国鎌倉郡深沢郷(深沢荘)

合戦 -鎌倉氏(鎌倉四兄弟)にゆかりのある合戦-
・大庭御厨濫行事件(一) -天養元年(1144年)9月-
・大庭御厨濫行事件(二) -天養元年(1144年)10月-
・保元の乱 -保元元年(1156年)-
・平治の乱 -平治元年(1159年)-
・宇治橋合戦(以仁王・源頼政追討) -治承4年(1180年)5月-
・石橋山の戦い -治承4年(1180年)8月23日-
・波志田山合戦(甲斐国) -治承4年(1180年)8月25日-
・小坪坂合戦(相模国鎌倉郡小坪) -治承4年(1180年)8月26日-
・衣笠合戦 -治承4年(1180年)8月27日-
・六本松合戦(相模国鎌倉郡化粧坂) -治承4年(1180年)10月6日-
・倶利伽羅峠の戦い -寿永2年(1183年)5月11日-

御霊神社 -鎌倉氏(鎌倉四兄弟)にゆかりのある御霊神社-
・村岡の御霊神社(相模国鎌倉郡村岡郷村岡) -現在の神奈川県藤沢市宮前560-
・鎌倉の御霊神社(相模国鎌倉郡鎌倉郷鎌倉) -現在の神奈川県鎌倉市大町および鎌倉市材木座1-7付近と推測-
・川名の御霊神社(相模国鎌倉郡方瀬郷川名) -現在の神奈川県藤沢市川名656-
・梶原の御霊神社(相模国鎌倉郡梶原郷梶原) -現在の神奈川県鎌倉市梶原5-9-1(葛原岡神社)-
・小松の御霊神社(相模国鎌倉郡小松郷) -現在の神奈川県鎌倉市梶原1-12-27(梶原御霊神社)-
・小坂の御霊神社(相模国鎌倉郡小坂郷) -現在の神奈川県鎌倉市小袋谷付近と推測-
・山内の御霊神社(相模国鎌倉郡山内郷) -現在の神奈川県横浜市栄区公田町445-6-
・関屋(関谷)の御霊神社(相模国鎌倉郡村岡郷関屋) -現在の神奈川県鎌倉市関谷付近と推測-
・玉縄の御霊神社(相模国鎌倉郡玉縄郷) -現在の神奈川県鎌倉市植木96-
・長尾の御霊神社(相模国鎌倉郡長尾郷長尾) -現在の神奈川県横浜市栄区長尾台町372-
・金井の御霊神社(相模国鎌倉郡長尾郷金井) -現在の神奈川県横浜市栄区金井町1439付近と推測-
・田屋(田谷)の御霊神社(相模国鎌倉郡長尾郷田屋十三塚) -現在の神奈川県藤沢市栄区田谷町1506-
・小雀の御霊神社(相模国鎌倉郡長尾郷小雀) -現在の神奈川県横浜市戸塚区小雀町1193-※鎌倉氏とは直接的関連がない
・庵野(庵野原)の御霊神社(相模国鎌倉郡村岡郷庵野) -現在の神奈川県横浜市戸塚区原宿付近と推測-
・深谷の御霊神社(相模国鎌倉郡村岡郷深谷) -現在の神奈川県横浜市戸塚区汲沢町1026-
・汲沢(茱萸沢)の御霊神社(相模国鎌倉郡村岡郷汲沢) -現在の神奈川県横浜市戸塚区汲沢町1273-
・俣野の御霊神社(相模国鎌倉郡俣野郷俣野) -現在の神奈川県横浜市戸塚区東俣野町1637および東俣野町817-
・富塚の御霊神社(相模国鎌倉郡冨塚郷) -現在の神奈川県横浜市戸塚区戸塚町3275付近と推測-
・矢部の御霊神社(相模国鎌倉郡矢部郷) -現在の神奈川県横浜市戸塚区上矢部町1130-
・坂本の御霊神社(相模国鎌倉郡矢部郷) -現在の神奈川県横浜市戸塚区上矢部町2969-
・葛野の御霊神社(相模国鎌倉郡和泉郷中田) -現在の神奈川県横浜市泉区付近と推測-
・中田の御霊神社(相模国鎌倉郡和泉郷中田) -現在の神奈川県横浜市泉区中田北3-42-1(中田町宮台3365)-
・原田の御霊神社(相模国鎌倉郡秋庭郷後山田) -現在の神奈川県横浜市戸塚区秋葉町付近と推測-
・大島の御霊神社(相模国鎌倉郡大島郷) -現在の神奈川県横浜市泉区新橋町109-
・樫尾(柏尾)の御霊神社(相模国鎌倉郡樫尾郷) -現在の神奈川県横浜市戸塚区柏尾町付近と推測-
・土甘(砥上)の御霊神社(相模国鎌倉郡土甘郷土甘) -現在の神奈川県藤沢市鵠沼-
・羽鳥の御霊神社(相模国鎌倉郡土甘郷羽鳥) -現在の神奈川県藤沢市羽鳥1062-
・大庭の御霊神社(相模国高座郡大庭郷) -現在の神奈川県藤沢市大庭1846-
・長谷の御霊神社(相模国鎌倉郡長谷郷) -現在の神奈川県鎌倉市坂ノ下4-9(坂ノ下御霊神社)-
・甘縄の御霊神社(相模国鎌倉郡甘縄郷) -現在の神奈川県鎌倉市長谷(甘縄神明神社)付近と推測-
・深沢の御霊神社(相模国鎌倉郡深沢郷) -現在の神奈川県鎌倉市長谷(鎌倉大佛高徳院)付近と推測-
・長江の御霊神社(相模国鎌倉郡端山郷長江) -現在の神奈川県三浦郡葉山町長柄662-
・沼浜の御霊神社(相模国鎌倉郡沼浜郷) -現在の神奈川県逗子市沼間3-10-34-
・衣笠の御霊神社(相模国鎌倉郡谷部郷) -現在の神奈川県横須賀市小矢部4-1202(衣笠神社に合祀)-
・衣笠の御霊社(相模国鎌倉郡谷部郷) -現在の神奈川県横須賀市衣笠29-1大善寺境内-
・佐原の御霊神社(相模国鎌倉郡谷部郷佐原泉) -現在の神奈川県横須賀市佐原1-16-1-
・田浦の御霊神社 -現在の神奈川県横須賀市田浦町2-1-
・三崎の御霊神社 -現在の神奈川県三浦市三崎4-12-11-
・懐島の御霊神社(相模国高座郡懐島郷) -現在の神奈川県茅ケ崎市南湖2-9-10および茅ヶ崎市円蔵付近と推測-
・香川の御霊神社(相模国高座郡香河郷) -現在の神奈川県茅ケ崎市香川付近と推測-
・柳下の御霊神社(相模国足柄下郡柳下郷) -現在の神奈川県小田原市鴨宮(加茂神社)付近と推測-
・酒匂の御霊神社(相模国足柄下郡酒匂郷) -現在の神奈川県小田原市酒匂付近と推測-
・豊田の御霊神社(相模国大住郡豊田郷) -現在の神奈川県平塚市豊田本郷付近と推測-
・弘河の御霊神社(相模国大住郡弘河郷) -現在の神奈川県平塚市広川691-
・田村の御霊神社(相模国大住郡田村郷) -現在の神奈川県平塚市横内900-
・下作延の神明神社 -神奈川県川崎市高津区下作延520-
・戸田の御霊神社(相模国大住郡富田郷) -神奈川県厚木市戸田653-
・上粕谷の御霊神社(相模国大住郡糟屋郷上糟屋) -神奈川県伊勢原市上粕屋790-
・上粕谷神社(相模国大住郡糟屋郷上糟屋) -神奈川県伊勢原市上粕屋1334-
・秋山御霊神社 -神奈川県伊勢原市上粕屋3103(上粕谷神社に合祀)-
・下粕谷神社(相模国大住郡糟屋郷下糟屋) -神奈川県伊勢原市下粕屋-
・吉田の御霊神社(武蔵国都筑郡) -神奈川県横浜市港北区新吉田町4509-
・東海寺御霊社(景政塚) -東京都品川区品川3-11-9-
・御霊谷戸の御霊神社 -東京都八王子市館町1272-
・御霊谷の御霊神社(御霊明神) -東京都八王子市元八王子町3-2863-
・藤野佐野川の御霊神社 -神奈川県相模原市藤野町佐野川3111-
・湯河原の御霊神社(五郎神社) -神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋724-2-
・波多野の御霊神社(上秦野神社) -神奈川県秦野市菖蒲1417-
・五郎神社 -群馬県伊勢崎市太田町623-
・貝沢の五霊神社 -群馬県高崎市貝沢町332-
・佐倉の五良神社 -千葉県佐倉市-
・村井の五良神社 -栃木県鹿沼市村井町-
・七井の御霊神社(下野国芳賀郡七井村大沢) -栃木県芳賀郡益子町大沢1848-
・安積の御霊神社(陸奥国安曇郡只野) -福島県郡山市逢瀬町多田野宮南66-
・豊景神社 -福島県郡山市富久山町-
・御霊神社(滑川神社) -福島県いわき市仁井田町字月山下48-
・高擶の御霊神社(清池八幡神社) -山形県天童市清池-
・景政神社 -山形県南陽市宮内3476-1熊野大社境内-
・柳沢の五郎宮(一名五郎権現) -宮城県亘理郡亘理町逢隈田沢-
・八木の景政社(安芸国沼田郡八木村) -広島県広島市安佐南区-

解説① 神を味方にして守ってきた鎌倉

大庭(藤沢市)や懐島(茅ヶ崎市)には相模川をはじめとする多くの川がつくりだす平野が広がり、相模国(神奈川県)ではもっとも豊かな地域(当時の一等地)だったとされています。

大庭(藤沢市)は海に面していたことで漁業も盛んで、伊勢神宮に干しアワビをはじめとする多くの海産物を「神様への供物(税)」として納めていました。大庭の土地を伊勢神宮に寄進することで、国には税を支払わず、伊勢神宮に年貢を払うことで、外部から侵略されにくくなり安心して生活を送ることができるようになっていました。「神様の台所」という意味で大庭御厨(おおばのみくりや)と呼ばれた大庭の庄は「不輸の権・不入の権」として守られていたわけです。

大庭を伊勢神宮に寄進した人物が、鎌倉景政(鎌倉権五郎)です。『吾妻鏡』によれば永久5年(1117年)10月23日に寄進したと記されています。長治元年(1105年)から天承元年(1131年)ころ鎌倉景政自身が開発した広大な農地でした。

解説② 神の領地に侵入した者たち

「不輸の権・不入の権」として守られていたはずの大庭の庄に、突然、事件が起こりました。

天養元年(1144年)9月と10月に、源義朝(みなもとのよしとも)が家来や相模国衙の役人たち、さらに相模国の豪族三浦義明和田助弘中村宗平らを大庭御厨に派兵させて乱暴をはたらき多くの神官を死傷させた上、御厨の下司大庭景宗の屋敷を荒らして私財を強奪。伊勢神宮への供祭料を奪い、作物を刈りとるという事件を起こしました(『天養記』)。

豊かな大庭御厨に対して、源義朝・三浦氏・中村氏の領地には丘陵部が多く、水田になるべき沖積地が領内に少ないという同じ状況にあり、彼らは相模国の中央に近く豊かな地域「相模平野」への進出(侵略)という共通の目的を持っていました。

三浦氏と中村氏は姻戚関係を結び、平野部を取り囲む包囲網をつくり、その要となっていたのが源義朝だったのです。

三浦義明(みうらのよしあき)は相模国の大介職として相模国国衙の雑事にかかわる在庁官人となり、世襲の官である三浦介を号していました。相模国衙の役人として公領(国衙領)の支配に預かっていたのです。
ただし不輸の権・不入の権を有する貴族に土地を寄進する者が続出し、寄進地系荘園が多くなり「日本中の土地はすべて貴族のものになってしまい、朝廷の土地は立つこともできないほど少ない」という公領(国衙領)が少ない状況になっていたので、在庁官人である三浦氏にとって大庭御厨(大庭荘)の存在は不利益以外のなにものでもなかったのです。

解説③ 平家に命を救われた恩義

保元元年(1156年)に起こった保元の乱では、大庭景義(19)と大庭景親(17)の兄弟は源義朝(34)に従軍しました(『保元物語』)。
この戦いで大庭景義(19)は負傷し、命の恩人である弟の大庭景親(17)に家督を譲って懐島に隠棲しました。

平治元年(1159年)に起こった平治の乱では、家督を継いでいた大庭景親(21)が平清盛(42)に味方したために源義朝(37)に囚われ、あわや斬られるというところで平清盛(42)が戦に勝ったために命拾いしました(『源平盛衰記』『平治物語』)。
命を救われた大庭景親(21)は平清盛(43)に「東国八カ国一の名馬望月」を贈り、平家への接近に成功し、相模国内の立場を強化していったのです。

大庭景親は京都大番役として在京しました。そして、弟の俣野景久も京都大番役で相撲人として在京し、3年間一度も負けることなく「日本一番の名を得たる相撲なり」と称されるほどの豪傑に成長していきました。

解説④ 積年の恨みと鎌倉包囲網

天養元年(1144年)の大庭御厨侵入事件よりもっと以前、承暦3年(1079年)に、中村景平(なかむらのかげひら)と鎌倉為季(かまくらのためすえ)の領地争いが起こっていました。
鎌倉為季中村景平を討ったものの、中村党の仇討ちにより鎌倉為季も討たれています(『水左記』)。鎌倉党と中村党・三浦党の間には、100年にもおよぶ、豊かな土地をめぐっての長い争いの歴史があったのです。

治承4年(1180年)に源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵しますが、この挙兵を言いかえると「相模平野をめぐる領地争い」と言っても過言ではありません。源頼朝の挙兵を大きく支えていた1人が中村党の土肥実平(どひのさねひら)。もう1人が三浦党の三浦義明(みうらのよしあき)です。

平清盛との関係を強化することで相模国において大庭氏の力が大きくなり、このまま平氏政権がつづけば三浦氏にはもう勢力を広げるチャンスがなかったのです。

解説⑤ 東国の後見たる責任

治承4年(1180年)4月に、以仁王(30)と源頼政(77)が平清盛打倒をかかげて諸国の源氏に令旨を伝えましたが、計画が露見して準備不足のままの挙兵(以仁王の挙兵)となり、平清盛(63)の追討を受けて敗戦、討死(自害)しました。
この追討の任にあたり大いに軍功を立てたのが大庭景親(41)でした。大庭景親(41)は平清盛(63)の信任を受け、「東国における御後見(平家軍の総司令官)」となります。

源頼朝(34)は、同じ源氏の令旨を受けながらも源頼政(77)の挙兵を静観し(挙兵せず)、何もせずに見殺しにしました。
ところが、以仁王の挙兵によって源氏追討の動きが高まったことから自身に火の粉がふりかかると、源頼朝(34)は挙兵を決意します。

小野田盛長(46)が使者として各地を奔走します。

大庭景親(41)のもとにも小野田盛長(46)は訪れ、「三代にわたって源家相伝の家人であったのだから、源家中絶のあとを興すことに加勢すべし」と伝えたといわれています。
大庭景親(41)は、「保元の戦(1156年)では天皇の命令で源義朝に従ったものの、源家の相伝の家人ではない上に、天養の戦で源義朝に攻め込まれた恨みをわれら一族は忘れていない」と拒否しました。

解説⑥ 源頼朝の挙兵

伊豆国の北條をはじめ、相模国足下郡の土肥や、足上郡の中村もすでに挙兵のための軍備を整えていました。

この時点では、実は坂東の平氏たちは平清盛(63)に反感を持ちつつも、源氏に加勢する大義名分はありませんでした。

石橋山合戦では中村党・源頼朝(34)軍300騎に対して大庭景親(41)軍は3,000騎。三浦義明が酒匂川の増水で足止めされ源頼朝(34)軍への援軍が間に合わず、大庭景親(41)の軍勢は源頼朝(34)軍を撃破します。

しかし、形勢は逆転していきます。

教科書などでは「源頼朝は石橋山合戦で敗戦の後、安房国(千葉県)に渡り、上総国(千葉県)の上総広常(かずさのひろつね)の援軍を得て力を蓄え、鎌倉に入りました」とあっさり書かれていることが多いです。

中村党や三浦党がどれだけ結束して包囲していても、「神の領地」にすることで100年以上守ってきた鎌倉の地。その土地が奪われる日がとうとうやってきました。勝敗最大の要因が上総広常(61)が源頼朝(34)・中村党・三浦党の連合に味方したことにあります。

解説⑦ 大庭景親の降伏

平清盛派の伊藤忠清が上総介に任じられたことで、上総広常(61)は平清盛(63)と対立し、勘当されていました。上総広常(61)の平清盛(63)への恨み(確執)は、打倒平清盛をかかげて挙兵した源頼朝(34)に与するに十分な動機となったのです。

伊勢神宮と強いつながりを持つことで相模国に大きな力を維持していた大庭景親(41)は平清盛(63)に「東国の後見(総大将)」を任されていましたが、上総広常(61)が打倒平清盛をかかげて攻め込んでくるとあらば、「神の領地」の効力はもはやないも同然です。
大庭景親(41)からすれば平清盛(63)のみが頼みの綱となりました。

ところが、平清盛(63)の援軍がやってくる気配はありませんでした。

打倒平清盛に賛同する坂東平氏たちや鎌倉党のなかから寝返る者たちが続出していきます。「最優先に考えるはそれぞれの領地、すなわち一族郎党の行く末」である以上、仕方なのないことです。内側からも崩れてしまったことで、大庭景親(41)は抵抗する術がなく降伏しました。

解説⑧ 袂を分かっていた兄弟たち

上総広常(61)の加勢により源頼朝(34)の勝利が決定的となりました。

しかし、鎌倉党のなかには、源頼朝(34)が挙兵した石橋山合戦で、すでに源頼朝(34)側に与していた者たちがいました。
それが大庭景親(41)の実の兄である懐島景義(43)と、実の弟である豊田景俊(36)です。

すでに鎌倉党の結束が揺らいでいたように見えます。事実、源頼朝(34)が伊豆国(静岡県)に幽閉されている時期に、懐島景義(43)は狩りや相撲などで親交を深め源頼朝(34)に好感を持っていたといわれています。
しかし実態は、必ず勝てるとは限らない戦況において、「勝負はときの運。もし平家が勝ったときは、三郎(大庭景親)を恃む。源氏が勝ったときは、わし(懐島景義)を恃む。互いに助けあうことを誓おう(『源平盛衰記』)」と、生き延びるための策でした。

かくして石橋山合戦では、源氏方に懐島景義(43)・豊田景俊(36)、平家方に大庭景義(41)・俣野景久(34)と兄弟たちは袂を分かち戦うこととなったのです。

どちらが勝っても負けても、お互いに助けあうと誓い、袂を分かち戦ったわけですが、戦後待っていた現実は非情なものでした。

解説⑩ 鎌倉党の系図と情勢図

鎌倉党の系図
鎌倉周辺の情勢図
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解説⑪ 鎌倉四兄弟とその一族たち

大庭景親(おおばのかげちか)

大庭景宗(おおばのかげむね)の次男として保延6年(1140年)に生まれる。通称は平三郎・三郎・平三。
保元元年(1156年)の保元の乱で、17歳で初陣をはたす。矢を受け落馬(負傷)した兄大庭景義の窮地を救い、戦後に兄の大庭景義から家督を譲られる。平治元年(1159年)に起こった平治の乱では源義朝に敵対したことで幽閉され、あわや斬られるというところで平清盛が勝ったために命拾いした。源義朝に与していたことで相模国内において劣勢に立たされた三浦氏や中村氏の勢力を抑え、平清盛に東国八箇国一の名馬望月を献上するなど、平家への接近に成功し、「東国の御後見(東国における平家軍総司令官)」として相模国内の立場を強化していった。
鎌倉内外でのいくつもの神社の建立をはじめ、人々の暮らしを支える政治的な働きは顕著で、大庭景親が亡くなった後には大庭神社の御祭神として祀られるなど、人々から慕われていたことがうかがえる。
京都大番役を勤め、治承4年(1180年)5月に以仁王の挙兵が起こると、源頼政追討軍に動員され、大いに軍功を立て、平清盛の信任を得た。源頼朝の命で足立盛長が訪れ「三代にわたって源家相伝の家人であったのだから、源家中絶のあとを興すことに加勢すべし」と伝えたところ、大庭景親は「保元の戦では天皇の命令で源義朝に従ったものの、源家の相伝の家人ではない上に、天養の戦で源義朝に攻め込まれた恨みを我ら一族は忘れていない」と拒否した。
治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、平清盛への恩義から石橋山合戦で源頼朝軍と対峙し、3,000騎を率いて相模国の総大将として戦い源頼朝軍を撃破。北條時政との「言葉戦い」では「平家の御恩は山よりも高く、海よりも深い」と義理堅い一面をみせている。
安房国で板東武士を味方につけた源頼朝の軍は数万騎に膨れ上がり、平清盛の援軍を待つ間に次第に戦況は悪化し、10月の六本松合戦で敗れてもなお抵抗していたが、平清盛からの援軍も遅れに遅れ、平家軍が富士川合戦で敗走するとなすすべなく降伏した。片瀬川で梟首された。享年41歳。

懐島景義(ふところじまのかげよし)

大庭景宗(おおばのかげむね)の長男として保延4年(1138年)に生まれる。通称は平太郎・太郎・平太。懐島景能とも記される。
保元元年(1156年)の保元の乱で、19歳で源義朝軍に従軍。源為朝の矢を左膝に受けて負傷し、歩行も難しい身となり家督を弟の大庭景親に任せて懐島(現在の茅ヶ崎市円蔵)に隠棲した。
治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、源頼朝に与し、石橋山合戦こそ敗れたが鎌倉を制圧する。捕えた弟の大庭景親の処遇を源頼朝から「助命嘆願をするか」と打診されるが、すべての裁断を源頼朝に任せ、斬首が決まると自ら弟の首をはねた。当時43歳。
その後は鎌倉幕府の御家人として活躍し、承元4年(1210年)に没している。

豊田景俊(とよだのかげとし)

大庭景宗(おおばのかげむね)の三男として天養2年(1145年)に生まれる。通称は平次郎・次郎・平次。豊田五郎・豊田兵衛尉とも。
相模国大住郡豊田郷(現在の平塚市豊田本郷)を領し豊田氏を称す。中村党の領地と接する大庭氏の最前線で、国境をもつ最重要拠点に居を構えていた。一族のなかでも智謀・知略に富んだ武士として名高い。治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、兄の大庭景義とともに源頼朝に与す。当時36歳。その後、鎌倉幕府の御家人として活躍し、建久元年(1190年)の源頼朝上洛のときは随員15番手として花道を歩いた(『吾妻鏡』)。家紋は違い柏。

俣野景久(またののかげひさ)

大庭景宗(おおばのかげむね)の四男(庶子)として久安3年(1147年)に生まれる。通称は平五郎・五郎・平五。俣野景尚とも記される。
相模国鎌倉郡俣野郷(現在の横浜市戸塚区俣野町)を領し俣野氏を称した。俣野景久は兄大庭景親梶原景時らとともに京都大番役として在京しし、朝廷の御前相撲(相撲節会)での相撲人として3年間無敗を誇った豪傑。以仁王の挙兵を鎮圧した坂東武士300騎の軍勢の先陣を務めた。
河津祐泰と相撲で対戦して、はじめて「河津掛け」をされた人物となる。治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、兄の大庭景親に与して石橋山合戦に従軍。当時34歳。佐奈田義忠(25歳)と死闘をくりひろげ、長尾為景長尾定景ら兄弟の助けにより一命をとりとめた。兄の大庭景親が捕われ処刑されても逃亡し、源頼朝と戦いつづけた。倶利伽羅峠合戦で木曽義仲軍と戦い、加賀国篠原で討死した。

女(波多野義常室)

大庭景宗(おおばのかげむね)の長女として久安5年(1149年)ころに生まれる。相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)の豪族波多野義常に嫁ぐ。鎌倉党と波多野氏との間に深い関係がきずかれた。治承4年(1180年)のころおよそ32歳。
波多野義常波多野義通の長男として保延7年(1141年)ころに生まれる。在京し官職を得て相模国の有力者となり、大庭景宗の娘を娶った。源頼朝挙兵への参向を求められると暴言を吐き拒否。源頼朝が関東を制圧して誅伐の討手が差し向けられると自害した。享年40歳。

懐島景兼(ふところじまのかげかね)

懐島景義の長男として、久寿2年(1155年)ころに大庭で生まれる。通称は小次郎。大庭景兼・大庭景廉とも記される。
治承4年(1180年)は26歳。父懐島景義とともに源頼朝軍に与して戦っている。
源頼朝の御家人のなかでも長老格として重きをなした父懐島景義の出家後に家督を継ぐ。
懐島景義の次男懐島景連は治承4年(1180年)は24歳。

大庭景盛(おおばのかげもり)

大庭景親の長男として、平治2年(1160年)ころに大庭で生まれる。通称は太郎(小太郎)。
治承4年(1180年)は21歳。父大庭景親とともに平清盛方に与して戦い、敗走。父大庭景親とともに降伏するが片瀬川で斬首された。享年21歳。

女(飯田家義室)

大庭景親の長女として応保2年(1162年)ころに生まれる。飯田家義に嫁ぐ。
鎌倉郡飯田郷を領す飯田氏へ政略結婚(人質)として嫁ぐ。治承4年(1180年)のころおよそ20歳。
飯田家義渋谷重国の五男として相模国高座郡渋谷郷で保元3年(1158年)ころ生まれる。鎌倉郡飯田郷(現在の横浜市泉区)を領し飯田氏を称す。大庭景親と領地を争うが大庭景親の娘を娶り和睦。源頼朝の挙兵時には平家方に与するが、富士川合戦から源氏方に与した。当時23歳。

女(佐々木義清室)

大庭景親の次女として応保3年(1163年)ころに生まれる。佐々木義清に嫁ぐ。
渋谷重国の庇護を受けて渋谷荘にいた佐々木秀義の五男佐々木義清に政略結婚(人質)として嫁ぐ。
佐々木義清佐々木秀義の五男として相模国高座郡渋谷郷で応保元年(1161年)ころ生まれる。佐々木秀義が平治元年(1159年)の平治の乱で敗れ、奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ庇護を受け、渋谷重国の娘を娶って生まれたのが佐々木義清だったこともあり、石橋山合戦では舅大庭景親に従軍した。

小坂氏

『吾妻鏡』正治2年(1200年)條に小坂太郎長江明義の名がみえる。源頼家小坂太郎の館の庭前で相撲を行ったと記されている。同じく『吾妻鏡』建仁2年(1202年)9月21日條に「射手というは…小坂彌三郎(小坂弥三郎)…」とある。
『平群系図』に鎌倉党として「鎌倉・梶原・長尾・長江・小坂・香河・柳下・金井」と記されている。
宮前の御霊宮縁起を書き写した御霊宮神主小坂時信(小坂伊代守)がおり、江戸時代に鶴岡八幡宮の神楽を司る社掌をつとめていた。小坂氏家伝によれば平良文の子平忠頼の子孫小坂好通が村岡に住み、仁安年中(1166~1169年)に宮前御霊宮の神職となり、治承年中(1177~1181年)に鶴岡八幡宮の社掌に任ぜられたという。
坂ノ下御霊神社神主にも小坂氏がいて「鎌倉景政が家臣の子孫」と称している。また大町八雲神社(祇園天王社)の神主にも小坂氏がみえる。大町八雲神社神主の小坂氏は播磨守・周防守を称し江戸時代初期から漆部姓(染谷時忠の一族)を称している。
慶応年中(1865~1868年)に小坂氏に代わって宮前御霊宮神主になった村岡友衛方景平良文の子孫を称している。

長江氏

鎌倉郡端山郷長江(現在の神奈川県三浦郡葉山町長柄)を領す。長江義景三浦義明の娘を娶る。妹は杉本義宗に嫁いでおり、杉本義宗の子和田義盛は甥にあたる。鎌倉党でありながらも、三浦氏との関係を強くすることで長江を維持していた。

長尾氏

鎌倉郡長尾郷(現在の横浜市栄区長尾)を領す。『吾妻鏡』『源平盛衰記』などに長尾新五郎長尾新六郎の名がみえる。長尾為景(長尾為宗)長尾定景の兄弟のことで、治承4年(1180年)は28歳と26歳。石橋山合戦では俣野景久(34)の窮地を救い佐奈田義忠(26)を討ちとった。上杉謙信(長尾景虎)の先祖。

金井氏

鎌倉郡長尾郷金井を領し、金井氏を称す。『平群系図』に鎌倉党として「鎌倉・梶原・長尾・長江・小坂・香河・柳下・金井」と記されている。長尾氏の一族とされている。

梶原氏

鎌倉郡梶原郷を領し、梶原氏を称す。梶原景時(41)・梶原朝景(39)ら兄弟がいる。梶原景時(41)は通称平三郎。源頼朝が挙兵したときには大庭景親(41)に与していたが、椙山に隠れていた源頼朝を発見しながらも見逃し、後に源頼朝に与した。

酒匂氏

熱海市伊豆山神社文書に、源頼朝が寄進した柳下郷についてが記され、酒匂太郎とみえる。神奈川県足柄下郡酒匂郷の酒匂宿(現在の神奈川県小田原市酒匂)付近を領し、酒匂氏を称す(『酒匂一族』『酒匂家由緒書(鹿児島県立図書館蔵書)』)。酒匂郷を領していた梶原景時(梶原三郎)の弟梶原朝景(梶原六郎)の一族。文治元年(1185年)に梶原朝景源頼朝から酒匂の領地を賜り、酒匂朝景(酒匂刑部丞)と名のったことにはじまるとされている。文治2年(1186年)10月24日甘縄神明の修理に梶原朝景(梶原刑部烝)とともに梶原景定(梶原兵衛尉)とある。
鎌倉時代に島津氏の薩摩国下向に従って、惟宗忠久(島津忠久)・本田氏・猿渡氏・鎌田氏などとともに薩摩国に下向する。酒匂氏は島津忠久の乳母だったともいわれ、このころすでに「さかわ」から「さこう」と訓むようになっていたとされている。本田氏とともに薩摩国守護代としての経歴をもつ。河野通古著『諸家大概』には酒匂氏は島津藩の諸士260家の冒頭に紹介されている。
『酒匂家由緒書(鹿児島県立図書館蔵書)』には小田原の酒匂神社付近に上輩寺があり、酒匂右馬之守という鎌倉時代の石碑があると記すほか、源頼朝より贈られた白馬を北條政子が安産祈願として酒匂神社に奉納し、その白馬の世話をした人物として酒匂右馬入道という人物が記されているという。島津氏とともに薩摩国に下向した酒匂景貞(酒匂左衛門)の名が記されている。文治2年(1186年)に梶原朝景島津忠久の傅役として子梶原景貞(梶原次郎)とともに鎌倉を出発し、しばらくは京都に滞在して、建久4年(1193年)もしくは建久7年(1196年)に薩摩国に入国している。梶原景貞(酒匂景貞)島津忠久から領地として高江一所を拝領し、代代御家老職をつとめたといわれている。島津忠久から一字を賜り、梶原景貞(酒匂景貞)は後に酒匂景久(酒匂久景)と改称したとされる。
建保元年(1213年)5月の和田合戦では和田方に与した梶原朝景大庭景兼深沢景家らの名前がみえる。
『酒匂家の系図』には酒匂忠胤(酒匂左衛門四郎)の名があるほか、酒匂精義著『歴史と旅(秋田書店)』に「平姓梶原流の末裔酒匂家」が記されている。

柳下氏

『源平盛衰記』『延慶本平家物語』などに柳下五郎(八木下五郎)とみえるほか、『平群系図』鎌倉党名字書立にも「柳下」とある。八木下又五郎という名もみえる。柳下・八木下・楊下など記すものがある。相模国足柄下郡柳下郷(現在の神奈川県小田原市鴨宮加茂神社付近)を領し、柳下を称す。加茂神社のある足柄下郡鴨宮村の小名「下鴨」はかつて「柳下」といわれていたとされ(『新編相模国風土記稿』)、建久3年(1192年)に源実朝が生まれるときに相模国内の神社・仏寺へ寄進された神馬のなかに「加茂 柳下」とある。
「相従輩には、大庭景親(大庭三郎)・俣野景尚(俣野五郎)・長尾新五・長尾新六・八木下又五郎・香川五郎以下、鎌倉党一人も不漏けり」と『平家物語』に記されるように、柳下五郎も鎌倉党の1人として数えられている。
治承4年(1180年)8月の石橋山合戦で、源頼朝の軍に加勢するために酒匂宿まできていた三浦勢は「丸子河(酒匂川)の洪水いまだへらざれば、渡すこと叶はずして、宿の西のはずれ、八木下というところに陣をとり、洪水のへるを待った」と『源平盛衰記』に記されている。

香川氏

『平家物語』『源平盛衰記』などに香川五郎とある。相模国高座郡香河郷(現在の神奈川県茅ヶ崎市香川)を領す。香川郷は大庭御厨の西端に位置し、西境(境界)は「神郷の堺」と接している(『天養記』)。神郷は相模国一宮庄の寒川神社の神領(社領)のこと。現在の寒川町域である。
永久5年(1117年)に鎌倉景政(鎌倉権五郎)(49)が伊勢神宮に大庭御厨を寄進している。そのころに鎌倉景継(23)の次男として鎌倉高政が生まれ、香川を領し香川氏を名のる。大庭景宗(24)の長男として大庭景義が生まれたころ、香川高政(22)の長男として香川家政が生まれる。大庭景義ら鎌倉四兄弟たちにとって香川家政は従兄弟。梶原景時も同じく従兄弟にあたる。
保元3年(1158年)ころに香川家政の長男として香川景高(香川五郎)が生まれている。「相従輩には、大庭景親(大庭三郎)・俣野景尚(俣野五郎)・長尾新五・長尾新六・八木下又五郎・香川五郎以下、鎌倉党一人も不漏けり」と『平家物語』に記されるように、香川景高(香川五郎)大庭景親に従い平家方として戦っていた。その後鎌倉幕府御家人となり、香川景高(香川五郎)源頼朝源義経に従い武功を立て、源義経に「経」の字を与えられて香川経高と改称したとされている。また香川権大夫を称している。
香川経高(香川景高)には長男香川経景(香川三郎)、次男香川義景がおり、承久3年(1221年)の承久の乱では鎌倉幕府方として活躍し、戦功により安芸国と讃岐国などに所領を賜っている。
香川正矩(1613~1660年)が著した『陰徳太平記』には大治5年(1130年)に鎌倉景政が亡くなったときの戒名を行済であり、先祖である安芸国八木城主香川吉景(1450~1510年)が「香川一族が鎌倉景政の墓を築いた」と語ったと記している。墓ではないが、香川県善通寺市善通寺町に香川一族が鎌倉景政を御祭神として祀った鎌倉神社(景政神社)がある。

深沢氏

建保元年(1221年)の和田合戦で大庭景兼和田義盛方に与した深沢景家(深沢三郎)や、和田合戦で捕らえられた深沢次郎らの名が見える。長江氏や三浦氏と深い関わりがあるとされている。
『吾妻鏡』養和元年(1181年)9月16日條の「不被入鎌倉中、直経深沢、可向腰越(源頼朝足利俊綱の首を持参した桐生綱元(桐生六郎)に対して鎌倉入りを拒み深沢を経由して腰越に向かうよう指示した)」が地名の初見。深沢郷は鎌倉期には南北に分けられ、元久2年(1205年)2月22日関東下知状に「相模国南深沢郷」・嘉暦3年(1328年)8月12日関東下知状に「相模国北深沢郷」とみえる。鎌倉時代から北深沢郷は鶴岡八幡宮領であった。
『吾妻鏡』では暦仁元年(1238年)3月23日條に「相模国深沢里の大仏堂」とあり、深沢の里で大仏の建立の工事がはじまったことが記されており、江戸時代ころまでは「深沢の大仏」と称されていた。現在の高徳院のある谷も深沢郷だったことがわかる。
和田義盛の弟和田宗実は建久3年(1192年)に源頼朝から南深沢郷の地頭職に補任された。その後、和田義盛和田宗実らの弟和田義茂の子高井重茂、つまり和田宗実の甥に南深沢郷は譲られている。仁治2年(1241年)に高井重茂の後家(未亡人)が南深沢郷津に屋敷を構えたことが「みなみふかさはのうちつむらのやしきてつくり」と『吾妻鏡』に記されている。
鶴岡八幡宮領であった北深沢郷は鶴岡八幡宮供僧の給田にあてられ、長江政綱が地頭に補任されていた。
建治3年(1277年)に三浦頼連が弟三浦宗明の郎党深沢左衛門尉を建長寺門前で殺害したと、和田合戦後の動向もわずかに確認できる。

樫尾氏

『承久軍物語』に相模国の樫尾景高(樫尾三郎)と記され「とがのをの三郎かげたか」と訓んでいる。ただ敵を討ちとった香川景高(香川三郎)の誤りかとも思われる。
『相承院文書』『我覚院文書』『円覚寺文書』『静岡大右寺文書』『島津文書』『証菩提寺文書』などには文永7年(1270年)條に岡津郷の地頭として甲斐為成(甲斐三郎左衛門尉)、延応元年(1239年)條に飯田郷を幕府から返還された飯田能信(飯田三郎)、正安3年(1301年)に長尾郷の地頭として加世長親(加世孫太郎)らの名がみえ、治承4年(1180年)に大庭景親に従い源頼朝と戦った飯田家能(飯田五郎家義)や建久元年(1190年)に源頼朝が上洛するときに従兵した加世次郎ら源平合戦後に功として所領を安堵された一族の名が記されている。
そのなかに、和泉郷の地頭として泉親平(泉小次郎)、柏尾郷の地頭として樫尾景方(樫尾三郎)、長沼郷の地頭として長沼宗政(長沼五郎)、 谷部郷(矢部郷)に矢部為行(谷部太郎)、秋庭郷に矢部為行の弟矢部義光、前岡郷(舞岡郷)に舞岡兵衛が所領していたことも記され、鎌倉郡樫尾郷を領す樫尾氏の名も確認することができる。

解説⑫ 鎌倉一族略年表

仁和2年(886年) 3月18日、平良文高望王の五男として生まれる(『二伝寺村岡五郎平良文公墓前碑』)。母は藤原範世(藤原師世)の娘。
寛平元年(889年) 高望王が上総介に任ぜられ坂東に下る。宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し平高望を名のる。
高望王の長男平国香(平良望)は常陸大掾・鎮守府将軍に任ぜられ常陸国に土着。高望王の次男平良持は鎮守府将軍に任ぜられ下総国に土着。高望王の三男平良兼は下総介に任ぜられ下総国に土着。高望王の四男平良正(平良将)は下野守に任ぜられ常陸国に土着。高望王の男子にはほかにも平良繇平良広平良茂などがみられる。
高望王の五男平良文は、父高望王による荘園分配にあたり、平良文平将門の父平良持の居館豊田に近い下総国村岡庄(大方郷)を分与され青少年時代をすごす。碑の北方およそ600mの高堀に五郎館跡が伝わる(茨城県結城郡千代川村の碑『平良文由来記』)。
延長元年(923年) 1月、平良文(38)が醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受け、母とともに東国に下向(転住)。武蔵国熊谷郷村岡に住み村岡良文(村岡五郎)を称す(『二伝寺村岡五郎平良文公墓前碑』)。
延長3年(925年) 平忠輔(村岡忠輔)平良文(村岡良文)(40)の長男として生まれる。平忠輔(村岡忠輔)は鎌倉郡沼浜郷桜山を領し桜山氏(桜山忠輔)を称す。
延長8年(930年) 6月18日、平忠頼(村岡忠頼)平良文(村岡良文)(45)の次男として生まれる。平忠頼(村岡忠頼)村岡次郎と称した。平忠頼(村岡忠頼)の官位は武蔵介・武蔵国押領使・陸奥守。
延長9年(931年) 承平天慶の乱ともいわれる平将門の乱は延長9年(931年)ごろにはじまり、天慶3年(940年)までつづいた。
承平2年(932年) 平忠光(村岡忠光)平良文(村岡良文)(47)の三男として生まれる。母は大野茂吉の娘。平忠光(村岡忠光)村岡小五郎と称した。後に三浦郡長井を領し長井氏(長井忠光)を称したともいわれる。平忠光(村岡忠光)の官位は駿河守。
承平5年(935年) 平将門源護の子源扶源隆源繁らと争い、討つ(平将門の乱)。『将門記』には高望王の子は平国香平良持平良兼平良正(平良将)ら4人が記されている。
天慶元年(938年) 平良文(村岡良文)(53)が相模国鎌倉郡に移る。相模国鎌倉郡村岡は平良文(村岡良文)(53)が移り住んだことにより地名となる。
平良文(村岡良文)(53)は村岡に御霊神社を勧請(神奈川県藤沢市宮前560)し、村岡に館をかまえる。御霊神社および館をかまえたのは「古へ街道の便宜」によるものとされる。
御霊神社は桓武天皇祟道天皇(早良親王)を祀った京都の御霊宮であり、京都(山城国)の御霊宮を平良文(村岡良文)(53)が邸内(古館)に勧請。後に鎌倉景政(鎌倉権五郎)が御祭神として合祀され、さらに北條時頼によって葛原親王高見王高望王が合祀される(『二伝寺村岡五郎平良文公墓前碑』『十二天王碑』には天慶3年(940年)のことと記される)。
平良文(村岡良文)(53)は高谷に村岡城(高谷砦)を築城し、新たに高谷に館をかまえる。そのため村岡の館は古館(固館)と称された。『風土記稿』は良文宅跡について「宮ノ前村御霊社の縁起には平良文の旧宅は御霊宮の北にあたれり、平忠通は御霊宮の南方に、別に館を構へ、平景成平景政等にいたるまで、居住せしと見ゆ」と記す。
平良文(村岡良文)(53)は高谷に移住してのち、比叡山麓の日吉大社の御祭神大山昨命を城砦の守護神として勧請(現在の渡内日枝神社)し、日吉山王宮と称す(『渡内日枝神社縁起』)。日吉山王宮(日枝神社)はもとは裏山(宮山)が社地で平良文館の鎮守社であったと記されている(『風土記稿』)。日枝神社の石燈籠に「村岡山王大権現御宝前 石燈篭二基 平良文遠縁 村岡平良毅 天保六己辛(1835年) 正月吉日」と刻まれている。平良文屋敷跡の一画にあった三日月井は鎌倉権五郎景正の産湯井戸といわれ、文久2年(1862年)建立の石碑に「三日月大明神 景政 遠縁 白幡半之丞好賢 建之」「南方畑 景政屋敷跡」と刻まれている。
村岡城跡公園(現在の藤沢市村岡東3)の記念碑の碑文に「村岡の地位は古来武相交通の要衝にあり、往時従五位下村岡五郎良文およびその後裔五代の居城なり」と記されている。村岡城跡の詳しい原形は『鎌倉市史(考古編昭和34年)』に記録されている。
江戸幕府が編纂した『新編相模国風土記稿』には「村岡五郎良文宅蹟 峯渡内の巽方(東南)にあり、字上ノ家鋪と唱う 陸田をひらく」とあり、『皇国地誌』には「平良文居第跡 辰ノ方 小名三日月谷と称する地ありしと云ふ 今は畠地となり 第跡考ふ可らす」とある。
『村岡旧記(神奈川県立金沢文庫所蔵)』に村岡城主は平良文(村岡良文)の後は平忠光平忠通がなり、これを「村岡御三代」と称すと記されている。『村岡郷五ケ村地誌調書上帳』は「村岡忠通のあと鎌倉景成から鎌倉景政まで代代村岡城に居住した」と記している。
平良文(村岡良文)(53)は霊夢により洲崎に天神を祀る。洲崎天満宮(神奈川県鎌倉市上町屋山ノ根616)が建立される(『天満宮縁起』)。
玉縄・関谷にも御霊神社が建立される。玉縄御霊神社には、永正9年(1512年)に伊勢守時が玉縄城を築城した際に城内(諏訪壇)に勧請した諏訪神社や関谷御霊神社が合祀されたため、扁額には「諏訪・御霊両大神」と記されている(『玉縄諏訪神社由緒』)。 
鎌倉時代に記されたとされる『源平闘諍録(桓武天皇より平家の一胤の事)』に「高望王の末子 十二人目の平良文は村岡五郎といい、平良文は鎌倉の村岡に居住す」とあり、巻第1上には「村岡忠道は村岡平大夫といい、村岡を屋敷となし、鎌倉・大庭・田村等を領知す 鎌倉の先祖これなり」とある。
天慶2年(939年) 平良文(村岡良文)(54)は平将門の乱(承平天慶の乱)平将門(37)に与して渋谷川合戦などで連戦。平良文(村岡良文)(54)は妙見菩薩の加護により危機を脱したとされる(『千葉氏家伝』)。平良文(村岡良文)(54)の次男村岡忠頼(10)は平将門(37)の娘婿となる。村岡忠頼(10)・村岡忠光(8)兄弟は平将門の乱(承平天慶の乱)を鎮圧した平繁盛(大掾繁盛)(40)を「仇敵」として対立した。
平良文(村岡良文)(54)は鎮守府将軍従四位下陸奥守に任じられ陸奥国胆沢城に赴任。
天慶4年(941年) 8月、平良文(村岡良文)(56)が川名に桓武天皇の異母弟早良親王を御祭神として御霊神社を勧請(神奈川県藤沢市川名655)。後に鎌倉景政(鎌倉権五郎)が御祭神として合祀される(『川名御霊神社縁起』)。
天暦4年(950年) 平良文(村岡良文)(65)と源宛(箕田宛)(18)が「兵(つわもの)の道」を争い一騎打ち(『今昔物語集』巻25本朝付世俗(合戦・武勇譚)第3「源宛と平良文と合戰ふ語」)。源宛(箕田宛)(18)は承平3年(933年)生まれなので平良文(村岡良文)(65)とは47歳差ということになり、平良文(村岡良文)は天暦6年(952年)に亡くなり、源宛(箕田宛)は天暦7年(953年)に21歳で亡くなっているので、実話だとすればその間のできごとということになる。平良文(村岡良文)は武蔵国大里郡村岡(現在の埼玉県熊谷市)を領し村岳ノ五郎と称したと記されている。
天暦6年(952年) 12月18日、平良文(村岡良文)(67)が病没(『二伝寺村岡五郎平良文公墓前碑』)。村岡に葬られる。二伝寺に塚がある。二伝寺においては平良文(村岡良文)平忠光(村岡忠光)平忠通(村岡忠通)三代が葬られている。
この「鎌倉党略年表」では、「平良文平忠光平貞光(平貞通)平忠通」四代説をとっている。
平良文(村岡良文)没年は天暦3年(949年)あるいは天徳4年(960年)という説がある。
天暦8年(954年) 平貞光(平貞通)平忠光(村岡忠光)(23)の長男として生まれる。平貞光(平貞通)碓井貞光とも伝わる。はじめは村岡権五郎と号していた平貞光(平貞通)は「相模国鎌倉郡村岡の住人なり、故あって鎌倉郡長尾乃郷へ移る、ここに九曜乃井とて名水あり、涌き出る水は左旋して巴の如し、故に巴乃井という」とあり、長尾郷の「臼井分の田」を「碓井」と関連づけており(『長尾正統系図』)、相模国における臼井(碓井)一族の分布についても関連づけている(『神奈川県姓氏家系大辞典』)。
四万温泉(上野国吾妻郡中之条)の由来に、平貞光(平貞通)が越後国から上野国へと向かう道中、野宿することとなり読経をしていると「汝が読経の誠心に感じて四万の病悩を治する霊泉を授ける。我はこの山の神霊なり」とのお告げを受け、「御夢想の湯」の温泉を見つけた、としている。
碓氷峠に巨大な大蛇が住みついて民を苦しめていたところ、平貞光(平貞通)は十一面観世音菩薩の加護のもと、大鎌を振るって大蛇を退治し、碓氷山定光院金剛寺を建立し、金剛寺に観音菩薩と大蛇の頭骨を祀ったという伝説も残る。
童話『金太郎』では、強い人材を求めて旅をするさなか足柄山で坂田金時(金太郎)を見いだして源頼光のもとへ連れて行く人物として描かれている。
康保4年(967年) 平忠常(村岡忠常)平忠頼(村岡忠頼)(38)の長男として生まれる。平忠常(村岡忠常)村岡五郎と称して下総国相馬郡の大半を所領した。父平忠頼(村岡忠頼)の地盤を引き継ぎ、常陸国・上総国・下総国に広大な所領を有し、上総介(『日本紀略』)・下総権介(『応徳元年皇代記』)・武蔵押領使などに任官される。
天元3年(980年) 平忠通(村岡忠通)平貞光(平貞通)(27)の長男として生まれる。平忠通(村岡忠通)村岡小五郎村岡次郎太夫(村岡二郎大夫)を称した。『源平闘諍録(桓武天皇より平家の一胤の事)』には村岡平大夫とある。平忠通(村岡忠通)の官位は従五位下・相模大掾(『諸家系図纂』『平群系図抜萃』『続群書類従』)。
鎌倉時代に記されたとされる『源平闘諍録(桓武天皇より平家の一胤の事)』巻第1上には「平忠通(村岡忠通)は村岡平大夫といい、村岡を屋敷となし、鎌倉・大庭・田村等を領知す 鎌倉の先祖これなり」とある。平忠通(村岡忠通)は鎌倉・大庭を支配し、さらに相模川を越えて大住郡田村(現在の平塚市)をも所領としていたことが分かる。
寛和2年(986年) 大般若経600巻の書写を比叡山延暦寺へ奉納して忠誠を示そうとした平繁盛(大掾繁盛)(87)に対して、武蔵国において仇敵であった平忠頼(村岡忠頼)(57)・平忠光(村岡忠光)(55)兄弟が妨害。平繁盛(大掾繁盛)(87)は朝廷に訴え一度は追討が出たが、間もなくその訴えも無効となった。太政官に提出した解状(上申書)『続左丞抄第一』には「旧敵である平忠頼・平忠光などが武蔵国へ移住し、伴類を率いてこれを妨害」とある。
長徳元年(995年) 陸奥守として陸奥国に下向する途中で藤原実方村岡忠通(16)の宮ノ前固館に立ち寄り、散策しながら農民の収穫をみて「たみもまた にぎわいにけり あきのたの かりておさむる かまくらのさと」という和歌を詠んでいる(『歌枕名寄』)。この歌の前に藤原実方は「かきくもり なとか音せぬ ほとときす かまくら山に みちやまとへる」と鎌倉山を詠んでいる。『古事談』によれば陸奥国へ下向する藤原実方一條天皇は「歌枕を見て参れ」と指示したという。ほかにも貴族たちは鎌倉を和歌の題材にしていた。
長保2年(1000年) 村岡孝輔村岡忠通(21)の長男として生まれる。
寛弘7年(1010年) 三浦為通村岡忠通(31)の次男として生まれる。村岡小学校創立百周年記念誌『村岡旧記』には「村岡忠通の子村岡為通がはばかることがあって、三浦衣笠城へ遷った」と記している。
長和4年(1015年) 鎌倉章名村岡忠通(36)の三男として生まれる。鎌倉章名鎌倉甲斐権守を称す。鎌倉景名とも記される。丸子公景の娘婿となる。
寛仁元年(1018年) 頼光朝臣の郎等に、平貞道と云ふ武士有りけり」とあり、平貞光(平貞通)(64)は大江山夷賊追討の勅命を賜った源頼光(71)の配下として、渡辺綱(66)・坂田公時(63)・卜部季武(69)らとともに四天王に数えられた。『三浦系図』『長尾系図』『千葉大系図』などに「鎮守府将軍源頼光四天王のその一なり」と記されている。『諸家系図纂』『平群系図抜萃』『続群書類従』などには「源頼光朝臣参乗の四天王の内第三なり」「法性寺(藤原忠平)関白以来(はばかって)、貞道と称す」「鎌倉 梶原 長尾 長江 小坂 香河 柳下 金井等 一族の先祖なり」と記されている。
平貞光(平貞通)(64)は『今昔物語集』巻25第10話(依頼信言平貞道切人頭語)・巻29第19話(袴垂於関山虚死殺人語)・『古今著聞集(339)』巻第19(武勇第12)などによれば弓の名手として剛勇を鳴らしたとされ、源頼光(71)や源頼信(51)に仕えたと記される。『古今著聞集(339)』巻第19(武勇第12)では四天王が鬼童丸を討ちとる話がおさめられている。
寛仁2年(1019年) 平忠頼(村岡忠頼)(90)が死去。平忠頼(村岡忠頼)(90)の子平忠常(村岡忠常)(53)は平繁盛(大掾繁盛)の子平維幹を「先祖ノ敵」と敵対。
治安元年(1021年) 平貞光(平貞通)(68)が死去。
長元元年(1028年) 平忠常(村岡忠常)(62)は国司に服さず納税の義務も果たさずに安房守平維忠を焼き殺したことを発端に、平忠常の乱(長元の乱)が上総国・下総国・安房国の房総三国で起こり、朝廷が鎮圧のため源頼信(61)・平正輔平直方(29)・中原成通らを追討使に任命。平直方(29)・中原成通が向かうが一向に鎮圧できずにいた。
長元3年(1030年) 中原成通の後任に平正輔を任じるが伊勢国内での同族争いで向かうことはなかった。業を煮やした朝廷は平直方(31)を召還し、甲斐守源頼信(63)を追討使に任じる。
平忠常の乱(長元の乱)を鎮圧するため東征した源頼義(33)が懐島郷矢畑村に京都の石清水八幡宮を勧請して懐島八幡宮を創建し、戦勝祈願を行った。
長元4年(1031年) 平忠常(65)は源頼信(64)・源頼義(34)父子に降伏。平忠常(65)は病死したのち首をはねられたが、平忠常(65)の子平常将(22)・平常近(20)らは罪を許される。
源頼義(34)が平直方(32)の娘婿となり相模国鎌倉郡亀谷(扇谷)の住居(現在の寿福寺付近)を平直方から譲られる(『陸奥話記』)。『詞林采葉抄』には「平直方は屋敷があった鎌倉の地を婿の源頼義に譲った」と記されている。
平直方の館は現在の御成小学校付近にもあったとされる(『鎌倉絵図「直方上総介の館」』)。
坂東(会坂以東)の弓馬の士」の多くが源頼信(64)・源頼義(34)父子の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となる。
長元7年(1034年) 鎌倉良名鎌倉章名(20)の長男として生まれる。
長元8年(1035年) 鎌倉景通鎌倉章名(21)の次男として生まれる。鎌倉景通鎌倉権大夫・鎌倉四郎太夫を称す。
長暦3年(1039年) 源頼義(42)が甘縄神明神社に祈り、麓で源義家が生まれる。
または源義家が相模国鎌倉郡亀谷(扇谷)の住居で生まれる。以後鎌倉は源氏相伝の地となる(『詞林菜葉抄』)。源頼義は「天下第一武勇之士」と評される(『中右記』)。
長暦4年(1040年) 鎌倉景村鎌倉章名(26)の次男として生まれる。
寛徳3年(1046年) 鎌倉景成鎌倉章名(32)の四男として生まれる(『五霊宮縁起』)。鎌倉景成鎌倉権大夫鎌倉四郎太夫を称す。『尊卑分脈』には鎌倉権守と称したとある。
平忠通(村岡忠通)(67)が近江掾に任ぜられる(『魚魯愚鈔』巻第6)。
永承3年(1048年) 三浦為継(三浦為次)三浦為通(39)の嫡男として生まれる。
永承6年(1051年) 村岡御霊神社右側の山で源頼義(54)が前九年の役(1051~1062年)に出陣する際に源氏の白旗を立てて軍を集めたため、山は旗立山と称された。その際に鎌倉大倉谷に鎌倉景通(17)が「小行事の坪」をつくっている。鎌倉景通(17)の館で源頼義(54)は三泊している(『宮前御霊宮縁起』)。
鎌倉景通(17)が源頼義(54)に従軍し、「源頼義朝臣の郎等 七騎のその一」とあり、「勇猛七騎」の1人として名を馳せた(『陸奥話記』)。三浦為通(42)も大いに戦功を立てたとされる。安倍頼時の娘婿平永衡源頼義(54)の軍に加わったときに三浦為通(42)の進言に従って源頼義(54)は平永衡を斬っている(『前九年合戦之事』)。
秩父武綱(7)は7歳で元服しての初陣(『源威集』)。『延慶本平家物語』『源威集』などによれば、武蔵府中に逗留していた源頼義(54)から「奧先陣譜代ノ勇士」に選ばれ、白旗を賜ったという。
源頼義(54)に従った官軍のなかに相模国の佐伯経範(波多野氏)・平真平(中村氏)・源親季(海老名氏)・佐伯元方(糟屋氏)らの名がみえる。
鎌倉景通(17)は三浦為通(42)の娘を娶る。
天喜3年(1055年) 鎌倉為季鎌倉景通(21)の長男として生まれる。鎌倉為季鎌倉権大夫を称す。
康平6年(1063年) 源頼義(66)が京都の石清水八幡宮を鎌倉由比郷に勧請し、由比若宮(由比八幡宮)を建立。『吾妻鏡』には「伊代守源朝臣頼義(源頼義)が勅定を奉りて安倍貞任を征伐のとき、丹祈の旨あって康平6年秋8月ひそかに石清水八幡宮を勧請し、瑞籬を相模国由比郷に建てた 今これを下若宮と号す」と記されている。鎌倉大町字西町(現在の材木座1-7)に現存する。
治暦2年(1066年) 鎌倉景久鎌倉景成(21)の長男として村岡で生まれる。
延久元年(1069年) 鎌倉景政鎌倉景成(24)の次男として村岡で生まれる。鎌倉(現在の大町周辺)を領して鎌倉氏を称した。母は鎌倉景成(24)の後妻と記される(『坂下五霊宮縁起』)。『坂下五霊宮縁起』は鎌倉景政の生まれを承保元年(1074年)としている。
鎌倉景成(24)が御霊神社を勧請し、葛原親王を御祭神として梶原の丘上に祀る(梶原御霊神社)。丘は地名となり葛原岡と称される(後に御霊神社跡地に葛原岡神社が建立される)。
延久2年(1070年) 三浦義継(三浦義次)三浦為継(23)の長男として生まれる。
承保2年(1075年) 鎌倉景季鎌倉為季(21)の長男として生まれる。
中村宗平笠間常宗(笠間恒宗)(26)の長男として生まれる。
後に、中村宗平の姉は三浦義継に嫁ぎ、中村宗平の娘は岡崎義実に嫁ぐ。
承暦元年(1077年) 鎌倉景村(38)が相模国村岡から長尾郷に移り長尾を称す。長尾氏家伝『御影之記』には鎌倉景村村岡忠通としているが年代が合わない。
承暦3年(1079年) 武蔵国の横山党と相模国の鎌倉党が領地争いによって衝突。押領使中村景平(55)が鎌倉為季(25)に討たれる。仇討ちとして中村党の笠間常宗(30)らが鎌倉為季(25)を討つ(水左記)。このとき中村宗平は5歳。
永保元年(1081年) 源義家(43)は由比八幡宮を修理する(『吾妻鏡』)。
永保3年(1083年) 清原一族の内紛を鎮めるため鎮守府将軍となって奥州に赴任する際に鎌倉に下向した源義家(45)は住居の裏山(源氏山)に白旗を立て軍士を募る。村岡御霊神社の旗立山においても旗が立てられ軍士が募られた。
鎌倉景成(38)・鎌倉景政(15)父子は鎌倉郡大蔵郷の屋敷(大倉ガ谷四町四方の屋敷)を進呈。戦後帰還のときにこの屋敷に源義家(45)は軍功のあった坂東の諸士を招き祝盃をあげ、労をねぎらっている(『宮前御霊宮縁起』)。
源義家(45)が大蔵谷の屋敷を修復造営(『新編相模風土記稿』)。
鎌倉景成(38)・鎌倉景政(15)父子は甘縄に新たに館を建て、村岡の玉縄神明社を移したのが現在の甘縄神明社(『御霊神社来由』『村岡宮前御霊宮縁起』)。『相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略』では和銅3年(710年)に染谷時忠が神輿山(見越嶽・御輿崎)の山頂に神明宮を、山麓に円徳寺を創建したと記されている。
永保4年(1084年) 鎌倉景政(鎌倉権五郎)後三年の役(1083~1087年)に16歳で従軍し、右目を射られながらも奮闘した(『奥州後三年記』『後三年合戦絵巻』)。
弱冠16歳で初陣し先鋒軍にいた鎌倉景政(16)は獅子奮迅の活躍をし源義家(46)を驚かせるが、金沢柵で清原軍鳥海弥三郎の放った矢が右目に刺さりながらも鳥海弥三郎を逆に射殺。右眼に矢が刺さったまま敵陣に突っ込み敵を撃退するが、自陣に戻って目に刺さった矢を取り除こうにもどうしても取れない。見ていた味方の三浦為継(三浦平太郎)(37)が鎌倉景政(16)の矢を懸命に取ってやろうとするが取れない。そこで三浦為継(37)が鎌倉景政(16)の顔に足を乗せ力任せに矢を取り除こうとしたとき鎌倉景政(16)は激怒する。「弓矢に当たって死ぬは武士の本望だが、生きながら顔を踏まれるはなんたる屈辱!己の敵としてそなたを斬ってそれがしも腹を斬るわ!」と斬りかかろうとした。焦った三浦為継(37)は丁寧に矢を抜いたという。いまでも現地では「景政功名塚」が残っている。
鎌倉景政(16)・三浦為継(37)・秩父武綱(40)ら相模武士は「先祖より聞え高きつはもの」と評される(『奥州後三年記』)。「将軍(源義家)のことに身親き郎等」と評された山内首藤氏の祖藤原資通も従軍していた。鎌倉景政(16)の父鎌倉景成(39)は出陣していたか不詳。鎌倉景政(16)の叔父鎌倉景通(50)は従軍していた(『坂下五霊宮縁起』)。鎌倉景通前九年の役後三年の役の両方に従軍していたことになる。
鎌倉景政(16)は戦勝の御礼参りに村岡御霊神社の裏山に兜を埋める(『かぶと松の碑』)。兜を埋めた塚を兜山(兜塚)と称す。植えてある松を兜松と称し、七面宮が祀られていた。「塚が2つあり、1つは兜山という。鎌倉景政の兜を埋めし塚なり、松樹あり兜松と名づく。」と『新編相模風土記稿』に記されている。『宮前御霊宮縁起』には郷民の擁護を願い、標として自ら松樹を植えたと記されている。
十二天下の小池で鎌倉景政(16)は射られた左目を洗ったことで平癒したという。十二天王社は十二天明神天神七代地神五代を奉祭し、小名小山に祀られていたが、後に十二天王社は御霊神社に移され祀られる(『十二天王碑』『末社十二天王社看板』)。
八幡山の麓にあった疱瘡神を鎌倉景政(16)が村岡御霊神社の末社として御霊神社の境内に移して祀ったとされる。3月3日の祭の日には紫の旗が立ち、露店も出て多くの参詣者で大変なにぎわいだったという。弥勒寺の堂脇にも疱瘡神が祀られている(『疱瘡神碑』)。
寛治元年(1087年) 天下第一武勇之士」と評される源義家(49)は追討の官符を得ることなく私兵をもって清原氏の内紛を鎮圧。源義家(49)は朝廷から観賞を受けられず、関東から出征してきた武士たちに私財から恩賞を与える。
源義家(49)は甘縄神明社と円徳寺を勝利した報賽に修造。
寛治2年(1088年) 鎌倉景成(43)が死去(『坂下五霊宮縁起』)。
寛治3年(1089年) 鎌倉景明鎌倉景政(21)の長男として生まれる。
寛治4年(1090年) 三浦義明三浦義継(23)の長男として生まれる。母は笠間常宗の娘で、中村宗平の姉にあたる。三浦義明三浦大介を称した。
寛治6年(1092年) 鎌倉景政(22)が山内郷笠間の中村党笠間常宗(41)を討つ(『桓武平氏諸流系図』)。
源義家(54)の勢力があまりに強大になることを警戒した朝廷は、源義家(54)への田畠寄進を禁止し、源義家(54)の新立荘園を停止。東国の開発領主(武士)が私領を源義家(54)へ寄進するのを朝廷がやめさせようとしたことがうかがえる。
寛治7年(1093年) 鎌倉景村(長尾景村)(54)は相模国鎌倉郡長尾郷に御霊宮を建立(長尾氏家伝『御影之記』)。
嘉保元年(1094年) 嘉穂元年、御霊乃宮、奥州石川郡」とみえる(『長尾正統系図』)。
嘉保2年(1095年) 鎌倉景継鎌倉景政(27)の次男として生まれる。鎌倉景継鎌倉小五郎と称す。鎌倉景次とも記される。
承徳元年(1097年) 鎌倉景経鎌倉景政(29)の三男として生まれる。
承徳3年(1099年) 鎌倉景門鎌倉景政(31)の四男として生まれる。奥州安積郡を領し安積次郎景門と称す。
長治2年(1105年) 鎌倉景政(37)が「山野をなし、全く田畠がない」から開発したいと相模国衙に申請して大庭御厨を開発。荒廃した大庭郷を「先祖相伝の私領」と述べ、班田を支給されない浮浪人(逃亡人)を招き寄せて開発につとめている。相模守藤原宗佐は大庭郷開発の申請を認め、一定の期間開発地の公課を免除している。
鎌倉景政(37)が大庭郷を伊勢神宮(内宮)に寄進。
嘉承元年(1106年) 7月4日、源義家(68)が死去。享年68歳。
平忠常の乱(1028年)・前九年の役(1051~1062年)・後三年の役(1083~1087年)とつづいた東国の反乱を鎮圧した源頼信源頼義源義家三代にわたる清和源氏も、白河上皇が登場するころから中央政権における勢力を失う。
天仁元年(1108年) 東国の人々の守護を祈願し、鎌倉景政(40)は大日堂を俣野に建立。伊勢神宮が20年に1度建て替えを行うときの「心の御柱」をもって大日如来像を刻み、これを大日堂の本尊として安置した(『吾妻鏡』)。その後、俣野郷を伝領した俣野景久は大日堂の維持に努めたという。大日堂跡は現在の西俣野の御嶽神社という(『新編相模国風土記稿』)。俣野景久が討死したのちは後家(未亡人)が俣野郷で大日堂(現在の御嶽神社)の管理にあたったがしだいに荒廃し、三浦義澄のとりなしで源頼朝から田畠の寄進を受けている。さらに北條政子は甥北條義時に大日堂を修理させている。大日如来の修験(別当寺)神礼寺には『大日堂縁起』が所蔵され、鎌倉景政の鏃2個が保管されているという。
天永元年(1110年) 土肥実平中村宗平(36)の次男として生まれる。
天永3年(1112年) 大庭郷の開発を認めた藤原宗佐が相模国で死去。あとを藤原盛重が相模守(国司)となる。代わった相模国司藤原盛重は開墾地へ官物を賦課するようになる。
永久元年(1113年) 3月4日、横山党の横山隆兼(山口隆兼)(24)が愛甲庄の愛甲内記平大夫を殺害したため、朝廷の命(宣旨)により、鎌倉景政(45)は秩父重綱三浦為継(66)らとともに横山党を討伐。源為義(18)の被官でもあった横山隆兼(24)は源為義(18)の保護のもと3年間も抵抗し危機を脱し、逆に愛甲氏を降伏させる。横山隆兼(24)の一族横山季兼の三男横山季隆が愛甲庄に入り愛甲三郎を名のった。横山隆兼(24)の末娘が梶原氏に嫁ぎ、梶原景時を産んでいる。
永久3年(1115年) 大庭景宗鎌倉景継(21)の長男として生まれる。
永久4年(1116年) 相模守藤原盛重が大庭郷を伊勢神宮領の荘園として「奉免立券」を認める。藤原盛重は任期の最後の年に立券を認めている。前任の藤原宗佐が亡くなってから4年後となる。
永久5年(1117年) 10月23日、鎌倉景政(49)が開発した大庭郷を伊勢神宮に寄進。大庭御厨が成立。相模国司(相模守藤原盛重)から官物の賦課(公課)を免除するという証券を与えられ正式に伊勢神宮領としての大庭御厨が認められる。大庭御厨の範囲は「東は俣野河(境川) 西は神郷(寒川神社) 南は海 北は大牧崎」であったと伊勢神宮に伝えられる文書『天養記』に記されている。寄進は伊勢恒吉(伊勢神宮神主の仮名)に附属して行われた。伊勢神宮神官(禰宜)によって開墾された土地(御厨・御薗)の実務は権禰宜の荒木田(内宮)・度会(外宮)両氏によって行われた。相模守は源雅職に代わる。
伊勢神宮の分社は神明社といわれ、鵠沼(神明社)・大庭(大神宮三)・今田(神明宮)・西俣野(神明社)・坂戸(神明社)・赤羽根(神明社)・室田(神明宮)・茅ヶ崎(神明宮)・下町屋(神明宮)・松尾(神明宮)・柳島(神明宮二)・今宿(神明宮)・円蔵(神明社二)・香川(大神宮)・芹沢(神明社)など、大庭御厨周辺で多く勧請されている(『新編相模国風土記稿』)。土甘郷(砥上郷)の神明社である伊介神社は、大庭御厨の領域の総鎮守と定められ皇大神宮(烏森皇太神宮)と称される。伊介神社は大庭庤(まうけ)とも称され、庤は神館(かんだち)のことであり、大庭御厨内の神饌調進所であるとともに大庭御厨の事務をとる館舎でもある。大庭御厨の領主・伊勢神宮の代官が居住し、大庭御厨支配の中心となる。皇大神宮(烏森皇太神宮)の境内社には鎌倉景政をご祭神とする御霊神社がある。
香川高政鎌倉景継(23)の次男として生まれる。『系図纂要』には香川高正とあり、香川介大夫と称したとあり、父は鎌倉景継(23)の弟鎌倉景秀(鎌倉権六)(20)としている。
元永元年(1118年) 大庭御厨について、相模国司(相模守源雅職)による特権の取消が行われたが、特権を再付与(奉免立券)される。
再三にわたって奉免立券が作成された背景には、白河天皇による荘園整理政策があり、大庭御厨でも相模国衙の在庁官人が国判があるのを知りながら、任期の初めには御厨を停廃しようとしたことによる。そのため大庭御厨の住人は逃散し、田畠も荒廃する有様であったという。
保安元年(1120年) 藤原盛重が再び相模守となり、大治2年(1127年)まで在任。
保安2年(1121年) 鎌倉景門(安積景門)(23)が「安積郡只野郷に保安二年、御霊乃宮を勧請」とみえる(『長尾正統系図』)。
天治元年(1124年) 三浦義明(33)は相模国の大介職として相模国国衙の雑事にかかわる在庁官人となる。世襲の官である三浦介を号す。三浦義明は三浦大介と称され、相模国衙の役人として公領(国衙領)の支配に預かる。
ただし不輸の権・不入の権を有する貴族に土地を寄進する者が続出し、寄進地系荘園が多くなり「日本中の土地はすべて貴族のものになってしまい、朝廷の土地は立つこともできないほど少ない」という公領(国衙領)が少ない状況になっていた。
大治5年(1130年) 鎌倉景政が62歳で没する(『坂下五霊宮縁起』)。57歳で死去とする説もある(その場合は承保元年(1074年)生まれ大治5年(1130年)没)。『鵠沼地区総合年表』によると永治元年(1141年)に死んだはずの鎌倉景政が大庭御厨の民が逃散して田畑が荒廃すると訴えている。
鎌倉景政の戒名を行済という(『陰徳太平記』香川正矩著)。香川正矩(1613~1660年)は先祖である安芸国八木城主香川吉景(1450~1510年)が「香川一族が鎌倉景政の墓を築いた」と語ったと記した。
『坂下五霊宮略縁起』では源為義(35)は鎌倉景政の死を深く歎き、死骸を京に運ぼうとしたが思いとどまり、甘縄郷に葬ったという。鎌倉景継(36)が父鎌倉景政をご祭神として御霊神社を坂ノ下に勧請(鎮守)した(『宮前御霊宮縁起』)。
尾藤谷にあった禅宗の宝鏡寺(14番礼所)の地蔵堂に鎌倉景政の守護仏(守り本尊)である矢柄地蔵が安置された。
長江義景鎌倉景継(36)の三男として鎌倉に生まれる。長江義景は長江で御霊神社を勧請(鎮守)した(『宮前御霊宮縁起』)。
下総権介平常繁は「相伝の私地」下総国相馬郡布施郷を伊勢神宮に寄進。神宮の神威を説いて神宮への土地寄進をすすめ、間をとりもったのは権禰宜荒木田延明
大治6年(1131年) 大庭御厨について、相模国司(相模守源重時)による特権の取消が行われたが、特権を再付与(奉免立券)されている。
天承2年(1132年) 大庭御厨について、相模国司(相模守源重時)による特権の取消が行われたが、特権を再付与(奉免立券)されている。
荘園整理政策をとっていた白河天皇に代わって鳥羽上皇になると荘園整理令は出されず、鳥羽上皇は自ら膨大な天皇家の荘園をつくっていたほどで、伊勢神宮は奉免宣旨を朝廷に訴えている。
長承2年(1133年) 勝福寺は大庭義政(大庭良正)が旦那となり建立される(『勝福寺縁起』)。筑紫宇佐の鶏足寺の僧道印がキリークの梵字の御正体を持参し御神体として祀ったのが勝福寺鎮守社の八幡大菩薩。はじめは勝軍寺といい、後に勝福寺と改め、江戸時代に常光院と称したという。南北朝時代には懐島勝福寺光明院は鎌倉公方足利基氏の菩提所となっており、懐島八幡宮(鶴嶺八幡宮)供僧を鶴岡八幡宮供僧が兼帯していた。懐島八幡宮(鶴嶺八幡宮)は大庭氏の氏神であり、相当な社格を有していた神社であったことが分かる。
長承3年(1134年) 大庭「御厨司平景継」とあり、鎌倉景政の子鎌倉景継(40)の継承が記されている(『相模守藤原隆重の解状』)。
伊勢神宮からの奉免宣旨の訴えを受け、朝廷は国司(藤原隆重)に子細を言上するよう命じ、相模守藤原隆重は大庭御厨の奉免について請文を提出。藤原隆重は任期の最後の年であり、代わって相模守となった平範家の代では奉免の宣旨は棚上げされたままとなった。
保延4年(1138年) 大庭景義大庭景宗(24)の長男として生まれる。
香川家政香川高政(22)の長男として生まれる。『系図纂要』には香川家正とあり、香川権大夫と称したとある。
保延6年(1140年) 大庭景親大庭景宗(26)の次男として生まれる。
梶原景時梶原景清(21)の長男として生まれる。梶原景時大庭景親の従兄弟にあたる(『源平盛衰記』『尊卑分脈』)。『尊卑分脈』『系図纂要』などでは梶原景時の父は梶原景長とある。梶原景時の母は横山孝兼(51)の娘。
源義朝(18)が「鎌倉の盾は先祖から伝得した」と主張し、先祖代々の土地である亀谷(扇谷)に住む。谷戸1つ隔てて南側の山麓には鎌倉郡衙が置かれており、同じ今大路(今小路)沿いに、鎌倉郡の政治的な中心地と隣接した地に住んでいたことになる。保延6年(1140年)から5年近くは拠点にしていたとされているが、「上総曹司」と称されており上総国を拠点にしていたともされている。源義朝(18)は「坂東生立の者にて、合戦に調練仕り、その道賢く候上、属き従う処の兵ども」が多く、坂東での勢力拡張と源家譜代の郎党を再組織することにつとめている。
永治元年(1141年) 大庭御厨は国司免判(国判)によって成立した国免荘だったため、(国司が交代すると改めて承認を受けなければならず)常に収公・停廃の危険性があり、また周囲の相模国衙の在庁官人(三浦氏など)によって濫妨されたと伊勢神宮側はたびたび訴えている。伊勢神宮は大庭御厨の不安定な状態を打開するため、国司の承認による「国免荘」ではなく、より確実な朝廷の承認による荘園とすべく運動をはじめ、官宣旨による御厨の承認を受け(任期を1年残し辞任した平範家が奉免の請文を提出し、伊勢神宮が望んだ奉免の宣旨が出され)、永治元年(1141年)に官省符荘(所有および不輸の権を認められた荘園)に昇格させる(『鎌倉遺文614』)。
伊勢神宮の使者と相模国衙の在庁官人香川高政(25)・平惟家紀高成平仲広平守景らは「地頭(現地)」に臨み、大庭御厨の境界(四至)に牓示を打ち、田畠・在家が検注され、立券状が作成される。境界(四至)は、東は玉輪御荘(俣野河)・南は海(相模湾)・西は神郷・北は大牧埼(相模国大庭御厨古文書『天養記』)。
源義朝(19)と三浦義明(50)の娘との間に、嫡男源義平が沼浜の館で生まれ育つ。「鎌倉悪源太」と称された。沼浜郷には岩殿観音堂(神武寺)が建立されていた(吾妻鏡)。後に源頼朝が父源義朝の記念の建物として修復し保存しようとしたが、妻北條政子が夢想で源義朝が沼浜の館を壊して寿福寺に寄進するよう述べたといって建仁2年(1202年)に実行したという。
源義朝(19)は三浦氏や波多野氏と婚姻関係を結び、「坂東生立の者にて、合戦に調練仕り、その道賢く候上、属き従う処の兵ども多く」と、関東における勢力拡張と源家譜代の郎党を再組織しようとしたとされる。
康治2年(1143年) 梶原朝景梶原景清(23)の次男として生まれる。梶原朝景は『系図纂要』では梶原朝時と記されている。
源義朝(21)は千葉常胤(26)の父千葉常重(61)から相馬郡の譲状をせめとる。千葉常胤(26)は上総広常(24)の父上総常澄(54)の策謀にのって源義朝(21)がせめとったと訴えている。
天養元年(1144年) 源義朝(22)が「大庭御厨内の鵠沼郷は鎌倉郡に属する公領である」と主張し、大庭御厨に濫行する事件(大庭御厨濫行事件)を起こす(『天養記』)。伊勢神宮の神官(禰宜)で大庭御厨の給主(領家)であった伊勢恒吉源義朝(22)の主張を認めないと抗議。
9月8日、源義朝(22)は相模国衙の田所目代(税務の代官)源頼清と組んで、名代清原安行や郎党新藤太らと、在庁官人(三浦義継(77)・中村宗平(70)・和田助弘ら)とともに御厨に侵攻して供祭料の魚を奪い取る。「鵠沼郷が鎌倉郡内であることは相模国の庁宣(知行国主相模守藤原憲方が出した命令書)に明らかであるから明日また指図に来る」といって引きあげたといわれる。
9月9日、源義朝(22)らは再侵攻して濫妨(暴行・略奪)を行い、神官に重傷を負わせる。伊介神社の神官荒木田彦松は「ここは鎌倉郡内ではないことはすでに先日言ったとおりだ。勅免の神領においてはたとえ何か行う場合でも、官宣旨(朝廷の命令)か伊勢神宮を通し、伊勢神宮の使者とともに行うのが例である。いま庁宣(知行国主相模守藤原憲方が出した命令書)だというが、相模国衙の留守所からの下知か、あるいは知行国主からの庁宣か、いずれにせよ信用できない」と抗議。しかし源義朝(22)らは耳を貸さず刈り取った大豆・小豆などの作物を馬につけて引きあげたといわれる。
その日の夜(子の刻)、源義朝(22)は多数の軍兵を引き連れて再侵攻し、鵠沼郷の住人をからめ捕えた上、神官荒木田彦松の言い分も聞かず暴力をふるって半殺しにし、神人8人にも大ケガを負わせる。鵠沼郷が供祭所として海から取った御贄(魚介類)を踏み汚した。
9月10日、大庭御厨内の神人らから伊勢神宮へ報告がされる。
9月29日、伊勢神宮の神官(禰宜)で大庭御厨の給主(領家)であった伊勢恒吉が伊勢神宮祭主大中臣清親へ報告書が提出される。
10月14日、大中臣清親は朝廷(太政官)に提訴する。
10月21日、再び源義朝(22)が家来や相模国衙の役人たち、さらに相模国の豪族三浦義明(53)・和田助弘中村宗平(70)・名代清原安行ら「千余騎の所従(部下)」を大庭御厨に派兵させて乱暴をはたらき多くの神官を死傷させる。大庭御厨の停廃を宣言して伊勢神宮への供祭料を奪い、作物を刈りとった。根拠を尋ねると大庭御厨のことは書かれていないただの荘園整理令を示しただけだったといわれている。大庭御厨は官宣旨を受けた正式の荘園であると抗議。
10月22日、在庁官人三浦義明(53)らは鵠沼郷に押し入り、四至の牓示を抜きとり、作田95町歩の稲4万750束を刈りとり、供祭料米や農民へ貸し付ける農料出拳と住民の私物、熊野僧供米800石を押領。さらに大庭御厨の下司大庭景宗(30)の屋敷を荒らして私財を強奪。また源義朝(22)らは神人の紀恒貞志摩則貞らを半殺しにする。紀氏は紀伊国出身・志摩氏は志摩国出身であり、伊勢神宮の権威を背景に海上交通や漁労の上で特権(諸国往反の自由と津料免除)を与えられていた海民であり、大型船(神船)で伊勢国から関東諸国へ海上運送(年貢を海上運送で伊勢神宮へ納める)にあたっていた。
下司である大庭景宗(30)や藤原重親は伊勢神宮を通じ太政官に訴え、伊勢神宮はまず源義朝(22)の処罰を相模国司に要求するが、国司は「源義朝濫行のことにおいては国司の進止にあたはず」と返答。つまり国司(相模守藤原頼憲)は相模国へ下向せず京都にあって詳細は相模国にいる目代(濫妨した張本人源頼清)に尋ねて返事をすると返答したことになる。
下司大庭景宗(30)は「留守所の目代源頼清が殿原郷・香川郷の両郷へ国役を課し強制的に徴収しようと責めるため、わずかに残っていた住人も逃げ出している」と再度訴えている。
長江義景(15)は三浦義明(53)の娘を娶る。長江義景の妹(13)は杉本義宗(20)に嫁いでおり、杉本義宗の子和田義盛長江義景の甥にあたる。
天養2年(1145年) 2月3日、朝廷は伊勢神宮の訴えを全面的に認め、源義朝(23)の濫妨(暴行・略奪)を停止する官宣旨を下す。
大庭景俊大庭景宗(31)の三男として生まれる。
源義朝(23)と波多野遠義(59)の娘との間に源朝長が生まれる。
久安3年(1147年) 大庭景久大庭景宗(33)の四男(庶子)として生まれる。
杉本義宗(23)と長江義景(18)の妹(16)との間に和田義盛が生まれる。
久寿2年(1155年) 大庭景兼(大庭小次郎)大庭景義(18)の長男として生まれる。
源義朝(33)の子源義平(15)が叔父源義賢(30)と戦った大蔵合戦では、源義平(15)の母が三浦義明(64)の娘だったことから、三浦氏が後方から源義平(15)を支援したとされる。
源義平が鷹狩りの帰りに鎌倉景政の墓前で馬で通ろうとして落馬し気絶したのち、「わが墓の前を馬の蹄にかけたのは甚だ無礼だ」と口走ってやがて正気に戻ったという。源義平鎌倉景政を神として祀り、一宇の社を経営し御霊宮とあがめたという。
保元元年(1156年) 保元の乱が起こり、源義朝(34)が父源為義(61)・弟源為朝(18)らを撃破。
源義朝(34)に相模武士「大庭景義(19)・大庭景親(17)・山内俊通(47)・滝口俊綱(27)・海老名季貞波多野義通(50)」が従軍(『保元物語』)。保元の乱で、大庭景義は19歳で源義朝(34)に従軍。源為朝(18)の矢を左膝に受けて負傷し、歩行も難しい身となり家督を弟の大庭景親(17)に任せて懐島(現在の茅ヶ崎市)に隠棲した。大庭景義(19)は「懐島権守(ふところじまごんのかみ)」を称す。
大庭景義(19)・大庭景親(17)兄弟は懸け出て「御先祖は八幡殿の後三年の合戦で鳥海の城が落とされたとき、生年16歳で右の眼を射られ、その矢を抜かないまま返しの矢を射って敵を討ち、名を後代にあげ、今は神として祀られている鎌倉の権五郎景政の四代の子孫、大庭の庄司大庭景房(大庭景宗)の子、相模国住人大庭景能(大庭平太)大庭景親(大庭三郎)とは我がことである。御曹司(源為朝)が九州から召し連れてきた侍どものうちで、さすがに我らと戦うことのできる者はいないであろう」と名乗りをあげた。源為朝(18)は家臣首藤家季(首藤九郎)を招いて確認し、「まことに東国ではこれらの者こそ相当な者どもと聞いている。どのような矢で射ろうか」といつもの大鏑矢を弓にあて、「為朝、鎮西に居住してからいままで、各々(大庭景義(19)・大庭景親(17)兄弟)を知らなかったのは手落ちであった。これこそ為朝が自らつくった矢である。腕前のほどを見よ」と矢を射った。源為朝(18)の矢は右膝を射抜いたとも記される(『保元物語』)。源為朝(18)は大庭景義(19)の腰の骨を射切ってやろうと少し下げ気味にして押し上げたところ、馬が後ろへ退いてしまい、源為朝(18)は体勢が崩れてしまいうまく弓を引くことができず、馬がすでに離れて遠ざかってしまったところでやむなく体勢を直して矢を放った。矢は大庭景義(19)の右膝の頭を斜めに貫いて、馬の鐙の水緒革を切って馬の折骨(後足の上の骨)を5~6本砕いて、大地にずばっと突き刺さって立った。鏑は手前にざっと散り、馬がどっと倒れ、降りようとした大庭景義(19)が馬からうつ伏せに落ちてしまったところを弟大庭景親(17)がそばに寄って肩にかけて助けている。源為朝(18)は「私の矢が外れたことはない、不思議なことだ。日本国で神仏の加護を受けた者で、大庭景義ほどの者はいない。為朝が物心ついてから、人馬はいうにおよばず鳥獣にいたるまで、目をかけたもので射損じたことは一度もない。大庭景義の倒れた馬の様子をみると乗手は死んでいない。これはまことに恥ずかしく、悔しいことだ。」とつぶやいたという。
大庭景義(19)・大庭景親(17)兄弟が不仲だったという話が『保元物語(香川県金刀比羅宮写本)』にのみ記されている。
従軍といっても、源義朝(34)への私的な臣従ではなく、後白河天皇の命を受けた国衙からの命令に従っただけとされる。数時間の戦いで天皇方の軍勢が勝利していることから、事が起こってから呼び寄せても東国武士は間に合わず、大庭景義(19)・大庭景親(17)ら東国武士は大番役を勤仕してすでに京都にいたことが分かる。
『風土記稿』には大庭景義(19)の家人らが居住したという近藤屋敷・岩見屋敷・和泉屋敷・岩瀬屋敷・田中屋敷が円蔵村に、加賀屋敷は西久保村にあり、西久保村には「懐島山と呼ばれる小さな丘がある」と記されている。妙運寺の西方には「旧跡懐島山」の碑が建っている。『風土記稿』は「当時四村(浜之郷・円蔵・矢畑・西久保)の廻り、ことごとく海なる故、此名(懐島)あり、土人此水を退いて土地を広めんと欲すれど術なし、或る老婆の教に随いて海に沃ぎ、他村と地域を接することを得たりといふ、按ずるに、懐島浜の郷と称すべきを上略せしならんか」と記している。
保元3年(1158年) 香川景高(香河五郎)香川家政(21)の長男として生まれる。香川景高は後に香川経高を称する。
柏山稲荷神社が大庭景親(19)により創建(神奈川県藤沢市城南3-6-2)。大庭城を守るため引地川を堰き止める水門をつくり、その水門の護り神として勧請したという。
大庭景親(19)が厳島神社を勧請し、竜神大神のお告げにより女性1000人で厳島千人力弁天社の社殿(神奈川県藤沢市城南3-6-2)を建立。
平治元年(1159年) 平治の乱が起こり、藤原信頼源義朝(37)らが御所を焼く。源義朝(37)に相模武士「三浦義澄(33)・山内俊通(50)・滝口俊綱(30)・波多野義通(53)」が従軍(『平治物語』)。源頼朝(13)も参陣。
藤原忠通の子慈円は『愚管抄』のなかで「鳥羽院うせさせ給ひて後、日本国の乱逆と云ことはをこりて後むさの世になりにけるなり」と、「むさ(武者)の世」の到来を告げる。「東人の初京上り」「東国の荒夷」「文よりも武を尊ぶこの国の気風」と坂東武士の荒々しい様子がうかがえる。
平治2年(1160年) 大庭景盛(大庭太郎)大庭景親(21)の嫡男として生まれる。
永暦元年(1160年) 源義朝(38)が平清盛(43)に敗れ、捕らえられた源頼朝(14)は伊豆国の蛭ヶ小島に流される(流罪)。
大庭景親(21)は「東国八箇国一の馬望月」を平清盛(43)に贈り(『平家物語』)、「東国の御後見」となる(『源平盛衰記』)。「この馬は相模国の住人大庭景親が東八か国一の馬で、平清盛に贈ったものである。黒い馬で額が白いところから、望月と名づけられた」と記されている(『平家物語』)。
伊東祐親(41)は、東国における親平家方豪族として平清盛(43)からの信頼を受け、平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝(14)の監視を任される。
相模国の国衙在庁系豪族の三浦氏や中村氏は源義朝(38)に近い立場であったため相模国内においては劣勢に立たさ、源義朝(38)とは疎遠の立場にあった大庭景親(21)は平家への接近に成功し、相模国内の大庭氏の立場は強化される。
大庭景親(21)は源氏によって一時囚人となり(囚われ)斬られるところを、平氏が戦いに勝ったために救われ(命拾いし)、これに大恩を感じて平氏の家人として仕えるようになったと『源平盛衰記』には記されている。平治の乱で平清盛(43)に与したところ源義朝方に幽閉されていたと思われ、平家方に命を救われた恩義ではないかとされる。源義朝勢の詳細を記した『平治物語』にも大庭景親(21)が源義朝(38)に従って出陣したとの記載はない。
岡崎義実(49)が鎌倉亀谷に源義朝の供養堂(現在の寿福寺)を建立する。
このころから、京都大番役(院御所の諸門などの警護役)として、諸国の武士が交替で勤仕。3年勤務であったため地方の武士にとって負担が大きい一方で、中央の公家と結びつきをもつチャンスでもあり、京都大番役を通して官位を手にし、自らが在地としている国の介・権介・掾などに任命してもらい在庁官人としての地位を手に入れ、支配権を朝廷の権威に裏打ちしてもらうという利点もあった。
安元元年(1175年) 伊東祐親(57)が大番役で上洛している間に、伊東祐親(57)の娘八重姫(20)が源頼朝(30)と通じ、長男千鶴丸を儲けるまでの仲になる。
伊東祐親(57)はこれを知って激怒し、9月、平家の怒りを恐れて千鶴丸を松川に沈めて殺害し、さらに源頼朝(30)自身の殺害をはかる。
安元2年(1176年) 10月、源頼朝(31)を慰めるための「狩猟」が催される。
伊東が館へ入りにけり。伊藤祐親、大きに喜て様てにもてなしつつ三日三か夜の酒宴あり」と昨年は殺害をはかるほど激怒していた伊東祐親(58)が源頼朝(31)を許していることがうかがえる(『曽我物語』)。
伊豆の奥野はいずれも取り取りに名所にて候へども、これ程に面白き処こそ候はね。よき名所にて候ひけり。この程名残惜しみに酒宴して遊び候はむ」と大庭景義(39)が酒興をよびかけた。山内首藤経俊(40)の熊狩りがあった後、大庭景義(39)が再び余興にと相撲を呼びかけた。余興で相撲が行われ、「私の出番のようである。大したことはないが、相撲のお相手をしたい」と相撲の名手といわれた俣野景久(30)は32番(21戦)も勝負して21連勝。しかし最後の挑戦者で力自慢の河津祐通(31)に「河津掛け」と呼ばれる技で破られる。
河津祐通(31)は、この狩りの帰路、工藤祐経(30)によって殺される。伊豆国伊東荘を巡る所領争いにより、伊豆国奥野の狩場で矢を射られて落命した。享年31歳(『曽我物語』)。
物語によれば俣野景久(30)は「俣野が姿は、差し肩にして、顔骨荒れて、首太く、頭少し、裾ふくらに、後ろの折骨、臍の下へ差しこみ、力士なりにして、丈は五尺八分、年は三十二なり」と記され、いかり肩で、あご骨が突き出、太い首に小さい頭、下半身が太く、腰骨のがっしりとした身長六尺二分(182cm)の、金剛力士のような大男だったとされる。
ここに、相模の国の住人に、俣野五郎景久という者あり。これは武蔵・相模・伊豆・駿河・両四カ国に名を得たる大力なり」「その俣野景久は相撲の大番勤に都に上り、3年の間、都にて相撲に馴れ、一度も不覚を取らぬ者なり。さすが院、内の御目に掛かり、日本一番の名を得たる相撲なり」と俣野景久(30)を称している。相撲は朝廷の年中行事として毎年7月の節会に行われてきた。相撲節会には諸国から強力の者が選抜されその技を競いあっていた。相撲節会は延暦12年(793年)から恒例となり300年にわたってつづいてきたが、30年ほど中絶していたところ信西が朝儀復興を進言して保元3年(1158年)に再興していた。ところが信西が平治の乱で失脚し再び中絶し、承安4年(1174年)に行われたのが最後となっている。相撲節会だけにかぎらず、競馬・流鏑馬とともに相撲の行事は神事で奉納されてきている。
治承元年(1177年) 大庭景親(38)は「天候不順が止むよう祈願」して駒形神社を建立。駒形大神は古くより、農業の神として崇められていた。
大庭景親(38)が三嶋神社を再建。宮ケ崎という場所にあった神社を、「水上に祀れ」という神託によって笛田川の上流の「萩の郷」に移し、さらに現在の地に移した。
治承3年(1179年) 1月、平清盛(62)の富士鹿島社詣のため大庭景親(40)が相模国松田に御所を造営(『山槐記』『延慶本平家物語』『長門本平家物語』『平家物語』『源平盛衰記』)『吾妻鏡』。松田の御所は後に源行家が居住とした。波多野義常の妻は大庭景親の姉妹の1人であったことから 協力したものとされている(『吾妻鏡』治承4年11月20日條)。
11月、反平家方の公卿・殿上人を一掃した功により伊藤忠清が上総介に任ぜられる。上総広常(60)は国務をめぐって伊藤忠清と対立し、平清盛(62)に勘当される。平家姻戚の藤原親政が下総国に勢力を伸ばそうとするなど、上総広常(60)にとって政治的状況が平家打倒を決意させたとされる。
治承4年(1180年) 4月27日、平氏打倒の挙兵を命じる以仁王の令旨が源行家によって源頼朝(34)に届けられる(『吾妻鏡』)。
5月7日、下総国の下河辺行平以仁王(31)を擁しての源頼政(75)のクーデター計画を源頼朝(34)に知らせるために使者を派遣。
5月26日、京都大番役で上洛中の大庭景親(41)は、平氏打倒の兵を挙げた(以仁王の挙兵)以仁王(31)・源頼政(75)との戦いに動員(源頼政追討軍)され、足利忠綱(17)らとともに追討の任にあたり、これを破る(宇治合戦(橋合戦))。大庭景親(41)が平知盛の指揮下で大いに活躍したこと(『吾妻鏡』治承4年8月2日條)から、大庭景親(41)は東国の後見(平家軍の総司令官)となった。『源平盛衰記』に大庭景親(41)のことを「平家重恩の者で、その勢いは相模国にはびこれり」と記しているが、大庭景親(41)は相模一国だけでなく「東国の御後見」としてさらに広く東国における平家方の軍勢を動員できる立場にあり、鎮西の原田種直や四国の栗田成良とともに地方にあって平家を支えた人物として評価されている。
在京していた大庭景親(41)は平家の家人(東国侍別当)の上総介伊藤忠清に呼ばれ、駿河国の長田入道から北條時政(43)と比企掃部允が伊豆国の流人の源頼朝(34)を擁立して謀反を企てているとの密書があったと知らされる。大庭景親(41)は「北條はすでに源頼朝(34)の縁者ですから何を考えているか分かりません。比企はすでに死んでいます」と答えている(『吾妻鏡』)。
6月19日、京都の三善康信(41)が「平家が諸国の源氏を追討しようとしているので直ちに奥州藤原氏の元へ逃れるように」と源頼朝(34)に急報を送る。
6月24日、源頼朝(34)は小野田盛長(46)に源家累代の家人の動向を探らせる。大庭景親(41)のもとにも小野田盛長(46)は訪れ、「三代にわたって源家相伝の家人であったのだから、源家中絶のあとを興すことに加勢すべし」と伝えた。大庭景親(41)は、保元の戦(1156年)では天皇の命令で源義朝に従ったものの、源家の相伝の家人ではない上に、天養の戦で源義朝に攻め込まれた恨みをわれら一族は忘れていないと拒否。
6月27日、三浦義澄(54)と千葉胤頼(26)が京都大番役から帰国し、北條館を訪れ京都の情勢を報告する(『吾妻鏡』)。
7月10日、小野田盛長(46)が源頼朝(34)のもとに戻る。波多野義常(40)・山内首藤経俊(44)は源頼朝(34)の招集に応じないばかりか、使者小野田盛長(46)らに悪口雑言を吐く有様であった。『源平盛衰記』によると波多野義常(40)は返答を渋り、山内首藤経俊(44)は「佐殿(源頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、鼠が猫をとるようなものだ」と嘲笑。大庭景義(43)・三浦義明(89)が快諾。千葉常胤(63)・上総広常(61)も承諾。三浦氏・千葉氏・上総氏らはすべて平氏系目代から圧迫されていた存在だった。
8月2日、大庭景親(41)が東国の所領へ帰国。大庭景親(41)は源頼政の孫源有綱(伊豆国にいた)もしくは源頼成を追捕するよう平清盛(63)の命を受ける(『玉葉』治承4年9月11日條)。さらに伊藤忠清が謀反の徴候の見える上総広常(61)の京都召喚を「東国の御後見」である大庭景親(41)を通じて行っている(『吾妻鏡』8月9日條)。
大庭景義(43)が「源氏へ参らんと存ず、但軍の勝負兼て難レ知、平家猶(なお)も栄え給はば和殿(そなた)を憑(た のむ)べし」と言ったところ、弟大庭景親(41)は「囚に成て既にきらるべかりしを、平家に奉レ被レ宥、其恩如レ山、又東国の御後見し、妻子を養 事も争か可レ奉レ忘なれば、平家へこそ(囚われてあわや斬られるところを平家に助けられ、その恩は山のごとく、また東国の御後見として妻子を養うことができるのも、忘れてはいけない、やはり平家方へ参る)」と答えている(『源平盛衰記』)。
8月9日、大庭景親(41)は佐々木秀義(69)を自邸へ招いて源頼朝(34)に謀反の疑いあることを相談。大庭景親(41)は「伊藤忠清の話を聞いてから、私は心の中でずっと慌てていた。そなたとは義理の兄弟の間柄だから、いまこうして話を漏らしている。そなたの息子たちは源頼朝(34)に与するものと思うが、しっかりと用意をしておくべきだ」と佐々木秀義(69)に伝えている(『吾妻鏡』)。
8月10日、佐々木秀義(69)の息子たち(佐々木定綱(39)・佐々木経高(35)・佐々木盛綱(30)・佐々木高綱(21))はすでに源頼朝(34)と意を通じており、驚愕した佐々木秀義(69)は直ちに源頼朝(34)に佐々木定綱(39)を使者として送り告げる。この報告を受けて、源頼朝(34)は挙兵を急ぐことを決める。
源頼朝(34)は挙兵を前に、工藤茂光土肥実平(71)・岡崎義実(69)・天野遠景佐々木盛綱(30)・加藤景廉らを1人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行い「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す」と言い、彼らは自分だけが特に頼りにされていると喜び奮起する。
8月13日、佐々木定綱(39)がいったん居候先の渋谷重国邸に帰る。
8月17日、源頼朝(34)が伊豆国で旗揚げ。大庭景義(43)は源頼朝(34)のもとへ参じる。源頼朝(34)挙兵の第一報は大庭景親(41)から平清盛(63)に届けられる。
伊豆国で挙兵した源頼朝(34)は、伊豆国目代の山木兼隆の館を襲撃して相模国へ向かう。山木兼隆加藤景廉によって討たれた(山木館襲撃)。相模武士は、土肥実平(71)・土肥遠平(51)・土屋宗遠(63)・土屋義清(24)・土屋忠光(41)・岡崎義実(69)・岡崎義忠(26)・中村景平(51)・中村盛平(46)・大庭景義(43)と豊田景俊(36)らが従軍。
源頼朝軍を迎撃した相模武士は、大庭景親(41)・俣野景久(34)・河村義秀糟屋盛久渋谷重国(51)・熊谷直実(40)・海老名季貞曽我助信(31)・滝口経俊(44)・毛利景行長尾為宗(28)・長尾定景(26)・柳下五郎香川家政(43)・香川経高(23)ら。
『延慶本平家物語』には「相従輩には、大庭景親(大庭三郎)俣野景尚(俣野五郎)長尾新五長尾新六八木下又五郎香川五郎以下、鎌倉党一人も不漏けり」と記され、『源平盛衰記』では「相従ふ輩、股野景尚(俣野五郎)長尾新五長尾新六八木下五郎香川五郎以下、鎌倉党は一人も漏れす」と記される。
8月20日、源頼朝(34)は、わずかな兵で伊豆国を出て、土肥実平(71)の所領の相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出。
平家方の大庭景親(41)は3,000騎を率いて迎撃に向かう。
8月21日、石橋山合戦のはじまりが甲斐へ伝えられると、甲斐源氏の一族のうち安田義定(47)を筆頭とする工藤景光工藤行光市川行房源頼朝(34)と近い氏族が源頼朝(34)救援に向かう(『吾妻鏡』)。
8月22日、三浦義澄(54)ら三浦一族が源頼朝(34)と合流すべく発進。途中で大庭景親(41)ら平家方の館に火を放って西へ進軍し、大庭軍の背後を追う。
8月23日、石橋山の戦い
源頼朝(34)は300騎をもって石橋山に陣をかまえ、以仁王の令旨を御旗に高く掲げる。谷ひとつ隔てて大庭景親(41)の軍3,000騎も布陣。伊東祐親(62)も300騎を率いて石橋山の後山まで進出し源頼朝(34)の背後を塞ぐ。
大雨で酒匂川が増水し、援軍の三浦軍は源頼朝(34)軍へ合流はできず足止めされる。
『平家物語』によると合戦に先立って、北條時政(43)と大庭景親(41)が名乗りあい「言葉戦い」をしたとある。大庭景親(41)は自らが「後三年の役で奮戦した鎌倉景政の子孫である」と名乗り、これに北條時政(43)が「かつて源義家に従った鎌倉景政の子孫ならば、なぜ源頼朝公に弓を引く」と言い返し、これに対して大庭景親(41)は「今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、海よりも深い」と応じた(『平家物語』)。
『保元物語』では「御先祖は、八幡殿(源義家)の後三年の合戦で金沢柵が落とされたとき、生年16歳で右の眼を射られ、その矢を抜かないまま返しの矢を射って敵を討ち、名を後代にあげ、今は神として祀られている鎌倉の権五郎景正」「鎌倉の権五郎景政の四代の子孫、大庭庄司景房(大庭景宗)の子」と名のったと記されている。
相模の平家勢の大将として大庭景親(41)が率いた大庭勢がの圧勝。大庭景親(41)は弟俣野景久(34)と石橋山で源頼朝勢を破る。源頼朝(34)軍の岡崎義忠(佐奈田義忠)(26)が奮戦するが討死。
大庭軍は勢いに乗って追撃。源頼朝(34)に心を寄せる大庭軍の飯田家義(23)の手引きによって源頼朝(34)らは辛くも土肥の椙山に逃げ込む。
大庭軍は山中をくまなく捜索。大庭軍の梶原景時(41)が源頼朝(34)の居場所を知るが情をもってこれを隠し「この山に人跡なく、向こうの山が怪しい」と大庭景親(41)らを導き、源頼朝(34)の命を救う。大庭景親(41)が怪しみ洞窟に入ろうとしたところ、梶原景時(41)は立ちふさがり「それがしを疑うのか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬぞ」と詰め寄り、大庭景親(41)を諦めさせた(『源平盛衰記』)。このことが縁で後に梶原景時(41)は源頼朝(34)から重用される。土肥の椙山のしとどの窟がこのエピソードにまつわる伝説の地として伝わっている。梶原景時(41)は大庭景親(41)の従兄弟にあたる(『源平盛衰記』)。
北條時政(43)と北條義時(18)は甲斐国へ逃れ、源頼朝(34)は船を仕立て安房国へ逃れる。別路で逃げた北條宗時(23)は伊東祐親(62)軍に囲まれ討死。
平家方の武将である武蔵国の畠山重忠(17)は源頼朝(34)挙兵の報を受けて家子・郎党を率いて出陣し、23日夜に金江河(現在の平塚市花水川)に陣をしく。
8月24日、大庭景親(41)は弟俣野景久(34)を駿河国目代の橘遠茂とともに甲斐国へ軍勢を派遣させる。
相模国御浦郡から石橋山に馳せつけようとした三浦一族は三浦義澄(54)・三浦義連(50)・大多和義久(52)・大多和義成(32)・和田義盛(34)・和田義茂(30)・和田義実多々良重春多々良明宗筑井義行ら、さらに鎌倉一族長江義景(51)が加わるが、敗戦の知らせを受けて兵を退く。
三浦一族は鎌倉の由比ガ浜で平家方の畠山重忠(17)の軍勢と遭遇。和田義盛(34)が名乗りをあげて、双方対峙。同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多く、和平が成りかかったが、遅れて来て事情を知らない和田義盛(34)の弟和田義茂(30)が畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦。和田義茂(30)を死なすなと三浦勢も攻めかかって合戦。双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た。停戦がなり、双方が兵を退いた(小壺坂合戦・小坪合戦)。
8月25日、駿河国波志田山で俣野景久軍と安田義定軍が激突。合戦は安田勢の強襲からはじまり、俣野軍の弓の弦が宿泊中に鼠によって食い破られ、応戦するものの逐電(『吾妻鏡』)。
8月26日、畠山重忠(17)は平氏への恩と由比ガ浜での戦い(小壺坂合戦・小坪合戦)の汚名をそそぐため三浦一族を攻める。 衣笠城の 東木戸口は三浦義澄(54)・三浦義連(50)、西木戸は和田義盛(34)・金田重長、中陣は長江義景(51)・大和田義久(52)らが守る(『吾妻鏡』)。
畠山重忠(17)は同じ秩父氏の総領家である河越重頼に加勢を呼びかけ、河越重頼は同族の江戸重長とともに数1,000騎の武士団を率いて畠山重忠(17)軍に合流し、三浦氏の本拠地である衣笠城を攻撃する。
大庭景親(41)は渋谷重国(51)のもとを訪れ、「佐々木四兄弟は、源頼朝(34)に属し平家に弓を引いた。その罪は許されることではない。佐々木四兄弟を捜している。妻子らを捕らえるべきだ」と、源頼朝(34)に従った佐々木兄弟の妻子を捕えるよう要請。渋谷重国(51)は「彼らが旧恩のため源氏のもとに参じるのを止める理由はない。私はあなたの要請に応じて外孫の佐々木義清(20)を連れて石橋山の戦いには平家軍に参じたのに、その功を考えずに佐々木定綱(39)らの妻子を捕えよとの命を受けるのは本懐ではない」と拒否。敗れた佐々木兄弟は夜に阿野全成を伴い渋谷重国(51)の館へ帰る。渋谷重国(51)は佐々木兄弟を匿いもてなす。
8月27日、衣笠城は秩父軍によって攻め落とされる。
落城の際、89歳の老齢であった三浦一門の当主三浦義明が城に残り、外孫である畠山重忠(17)らによって討たれた。『吾妻鏡』によると三浦義明(89)は「我は源氏累代の家人として、老齢にしてその貴種再興にめぐりあうことができた。今は老いた命を武衛(源頼朝)に捧げ、子孫の手柄としたい」とし、壮絶な最期を遂げたとするが、『延慶本平家物語』では三浦氏の軍勢が城を脱出する際に、老齢の三浦義明(89)が足手まといとなって置き去りにしたとされている。
9月2日、源頼朝(34)挙兵を知らせる大庭景親(41)の早馬が平清盛(63)のいる福原に到着し、追討軍の派遣が決められるが、編成は遅々として進まなかった。大庭景親(41)が早馬を走らせたのは8月17日もしくは8月28日といわれている。伊藤忠清はこの出陣に慎重で「相模国を代表する大庭景親(41)・大庭景義(43)兄弟と武蔵国を代表とする畠山重忠(17)ら畠山氏の一族が味方についていれば、伊豆国・駿河国の両国合わせ四か国の武士たちは皆、平家方になろう」と言っている(『平家物語』)。
9月7日、木曽義仲(27)が北信濃国で市原合戦ののち、上野国多胡郡に入る。
安房国においては源頼朝は再挙し、安西氏・千葉氏・上総氏などに迎えられて房総半島を進軍して武蔵国へ入った。
平氏方目代に圧迫されていた千葉氏・上総氏などの東国武士が平氏方目代や平氏方豪族を打ち破りながら続々と参集して、1カ月かけて数万騎の大軍に膨れ上がった。
10月4日、畠山重忠(17)・河越重頼江戸重長豊島清元葛西清重足立遠元らが源頼朝(34)に帰参。東国武士が続々と源頼朝(34)に参陣して数万騎に膨れ上がる。
10月5日、源頼朝(34)は武蔵国から相模国に入り世野郷(瀬谷郷)の相辺沢(相沢)の鎮守諏訪明神に一泊。
10月6日、相辺沢義氏(相辺沢六郎)相辺沢義村(相辺沢七郎)の先導で、飯田家義(23)とともに畠山重忠(17)を先陣に、千葉常胤(63)を殿にした軍勢は武蔵国から相模国へ進軍し、鎌倉へ討入り六本松(武蔵路・化粧坂)で俣野景久(34)・大庭景親(41)らを撃破し4万の軍勢を率いて鎌倉入り(六本松合戦)。
10月12日、源頼朝(34)は鎌倉郡鎌倉郷にあった八幡宮を小林郷北山に移すため造営奉行を大庭景義(43)に命じる。
10月16日、源頼朝(34)が鎌倉を出発。
10月18日、大庭景親(41)は平清盛(63)軍と合流するために1,000騎を率いて相模国を出発したが、西方(足柄山)はすでに敵方に固められて塞がっていたため、やむなく兵を解いて河村山(足柄上郡山北町)へ逃亡。『吾妻鏡』では源頼朝(34)軍がすでに足柄山を越えていたためとし、『延慶本平家物語』では武田信義の軍勢に駿河国が抑えられたためとしている。後方には源頼朝(34)の軍勢が「雲霞の如く」攻め上ってきており、前方には甲斐国の源氏勢20,000余騎が駿河国へ出陣していたことで大庭景親(41)は「色を失い仰天」し逃亡する者が続出。大庭景親(41)は鎧の「一の草摺」を切り落とし伊豆・箱根両権現社に奉納し、足柄河村山から北星山へ移動。
荻野俊重曽我祐信(31)が、駿河国黄瀬河に着いた源頼朝(34)の軍営に降った。
波多野義常(40)が松田郷で自害。
10月20日、富士川で平家軍と源軍が対陣。
10月23日、大庭景義(43)、御家人となり大庭御厨の本領を源頼朝(34)より安堵される(大庭御厨の下司職・大庭御厨一円を与えられ、その他に荘園5~6カ所賜る)。大庭景義(43)について「大庭の御厨は先祖には代々あまたに分かれしを今度は一円に賜はりけり」とあるように大庭御厨の所領がいく人かの兄弟や一族たちに分割して支配されてきたことがうかがえる(『曽我物語』)。
大庭景義(43)は、鶴岡八幡宮(若宮)の別当および神人総官を賜る。
「罪は逃れることはできないが、降参すればとがめず、戦場で忠節をつくせばかえって賞められる」という降伏勧告が届き、河村山に逃げ込んでいた大庭景親(41)が国府で行われた論功行賞の席に投降(『源平盛衰記(大場降参の事)』)。黄瀬川在陣の源頼朝(34)に降参ともいわれている。大庭景親(41)は上総広常(61)に預けられ、長尾為宗(28)・長尾定景(26)・河村義秀山内首藤経俊(44)らは岡崎義実(69)・三浦義澄(54)・大庭景義(43)・土肥実平(71)らにそれぞれ預けられる。
10月26日、大庭景親(41)・大庭景盛(21)父子、固瀬(片瀬)河原で斬首。さらし首にされた。
処刑者は兄大庭景義(43)。大庭景親(43)が囚われの身となり上総広常(61)に預けられると、源頼朝(34)から大庭景義(43)に「助命嘆願をするか」と打診があったが、大庭景義(43)はこれを断り全てを源頼朝(34)の裁断に任せたという。結局、源頼朝(34)に命ぜられた兄の大庭景義(43)によって固瀬川辺で斬首された。「他人の手にかかるよりは」と申し出たともいわれている。大庭景親(41)の子大庭景盛(大庭太郎)は、足利忠綱(17)が斬った。
平家方に与した武士たちのなかで刑法に問われ処刑された者はわずかに「十か一つ」つまり1割にすぎなかったといわれている。山内首藤経俊(44)は、大庭景親(41)に与し、源頼朝(34)の鎧に一箭を的中させ逆鱗に触れていたが、母が源頼朝乳母のため、先祖の功とその哀訴のため赦免される。
12月、梶原景時(41)が土肥実平(71)を頼る。
治承5年(1181年) 元旦、源頼朝(35)は鶴岡八幡宮を参詣。三浦義澄(55)・畠山重忠(18)・大庭景義(44)らが辻などの警護を命じられる。鶴岡八幡宮の奉幣の日と定められる。
1月11日、梶原景時(42)が源頼朝(35)に初めて会い、仕えることとなる。梶原景時(42)は御家人として十二所の所領を与えられ屋敷をつくる(現在の明王院境内とその隣接地)。
3月、武田信義(54)が起請文を源頼朝(35)の面前で書く。源頼朝(35)は用心のために三浦義澄(55)・下河辺行平佐々木定綱(40)・佐々木盛綱(31)・梶原景時(42)を両脇に座らせる。
5月、大庭景義(44)・昌寛梶原景時(42)が小御所・厩などの造営奉行をつとめる。鶴岡八幡宮若宮の造営奉行に大庭景義(44)・土肥実平(72)の両人があたり、遷宮にあたっては大庭御厨の庤の一古娘が呼ばれている。境内の掃除・警固を行うなど鶴岡八幡宮の俗別当として大庭景義(44)は重用された。
養和元年(1181年) 7月18日、鶴岡八幡宮の若宮造営にあたり、仮殿に御神体を遷す儀式の采配を振るため大庭御厨鵠沼神明宮(皇大神宮)の大庭御厨庤(神館)の巫女(一古娘)が召される(『吾妻鏡』)。一古は神に仕える未婚の女性(巫女)のことで、雅楽を舞う。
鎌倉に入り本拠地とした源頼朝(35)は、由比郷の由比若宮(由比八幡宮)を小林郷松岡北山に遷し鶴岡八幡宮と改める。大蔵に新たに御所を造成。大庭景義(44)・梶原景時(42)らが奉行に任命され源頼朝(35)の邸を造営し、由比郷の由比若宮(由比八幡宮)を鶴岡の地に移して、道路を整備。
養和2年(1182年) 1月、源頼朝(36)が妻北條政子(26)の安産を祈願して鶴岡八幡宮参道(若宮大路)・段葛を造営し、源平池を造る。文覚(44)が源頼朝(36)の願いにより江島に弁財天を祀る。
2月8日、源頼朝(36)の御願書を伊勢大神宮に奉ずる。長江義景(53)が神寶奉行として首途す。
長江義景が先祖鎌倉景政、大庭御厨を神宮に寄せ奉る。 かの三代の孫(鎌倉景政の三代の孫が長江義景である)、もっとも神慮に相叶うべきかの由、 ご沙汰を経られ、その撰に応ず」と記される(『吾妻鏡』)。長江氏の家紋は揚羽蝶とある。
4月、鶴岡八幡宮前にあった水田(絃巻田)三町歩を大庭景義(44)と専光坊良暹が奉行となり池(現在の源平池)を造営。
寿永元年(1182年) 8月、北條政子(26)が源頼家を生む。宇都宮朝綱(61)・畠山重忠(19)・土屋義清(26)・和田義盛(36)・梶原景時(43)・梶原景季(21)・横山時兼らが刀を献上。
産まれる2日前に北條政子(26)が産気づくと源頼朝(36)は近国の神社へ祈祷を命ずる使者を派遣。相模国一宮へは梶原景高(18)が遣わされる。
産まれると、源頼朝(36)は御家人たちが献上した馬200頭余を鶴岡八幡宮など諸社へ寄進。
9月、大庭景義(44)は鶴岡八幡宮西麓(御谷)に別当坊を建てる際にも奉行となり、二十五坊の供僧の坊舎を建立。
寿永2年(1183年) 5月11日、「源義仲征討北陸軍俣野景久(37)は倶利伽羅峠の戦い源義仲(30)軍と兵戈を交え、加賀国篠原(信濃国飯山との説あり)において討死した。
平家の陣より武者一人進出て云けるは、去治承の比、石橋にして右兵衛佐殿(源頼朝)と合戦したりし鎌倉権五郎景正が末葉、大場三郎景親(大庭景親)が舎弟、俣野五郎景尚と名乗て、竪ざま横ざま、敵も不(レ)嫌散々に戦けり。木曾(源義仲)は恥ある敵ぞ、あますなと云ければ、我も我もと蒐籠たり。景尚(俣野景久)向者共十三騎討捕て、痛手負ければ、馬より飛下、腹掻切て臥にけり。」とある(『源平盛衰記』俣野五郎並長綱亡事 )。
斎藤実盛(73)が平家方の武士たちの本心を知ろうとして、「現在源氏方は勢いがあり、平家方は敗色が濃厚であるから、木曾殿のもとに参ろう」と試したとき、俣野景久(37)は「さすがにわれらは、東国では人に知られた、名のある者である。威勢のいい方について、あちらに参り、こちらに参ることは見苦しいことである。方々の心は知らない。景久は、この合戦で平家方として討ち死にするつもりである」と述べたという(『平家物語』)。死期迫った俣野景久(37)は、念持仏を故郷に祀るよう託したという。現在、俣野観音堂に十一面観音像が奉安されている。
5月21日、平家の殿軍を勤める坂東武者達(畠山重能(49)・小山田有重斉藤実盛(73)ら)は篠原の戦いで奮戦し激しく戦うが、300騎が討たれた。石橋山の合戦で大庭軍にあった者(斉藤実盛(73)・俣野景久(37)・真下重直浮巣重親伊東祐氏ら)が篠原の戦いで討死。俣野景久(37)は敵の首三級をとったが負傷し自刃したという(『平家物語』)。
12月、梶原景時(44)が上総広常(64)を討ち、「梶原太刀洗水」伝説が生まれる。上総広常(64)と双六を打っていた梶原景時(44)が、盤をのりこえて上総広常(64)の頸をかき斬った。後に上総広常(64)の謀反の疑いは晴れるが、源頼朝(37)が梶原景時(44)に殺害を命じていた。
元暦元年(1184年) 1月、梶原景時(45)・梶原景季(23)父子が源義仲(31)との宇治川の戦いに参陣。源義経(26)配下として梶原景季(23)は佐々木高綱(25)と先陣を争い武名を上げる。梶原景時(45)の源頼朝(38)への戦況報告が高く評価される。
2月7日、源頼朝(38)軍が一ノ谷の合戦で勝利。梶原景時(45)は自らを「鎌倉権五郎景政に、五代の末葉」と名乗っている(『平家物語』)。当初は梶原景時(45)が源義経(26)の侍大将、土肥実平(75)が源範頼(29)の侍大将になっていたが各々気が合わず所属を交替している。源範頼(29)の大手軍に属した梶原景時(45)・梶原景季(23)・梶原景高(20)らは生田口を守る平知盛(33)と戦い、大いに奮戦して「梶原の二度駆け」と称される働きをする。一ノ谷の合戦源頼朝(38)軍の大勝に終わり、梶原景季(23)は平重衡(27)を捕えている(『平家物語』『源平盛衰記』)。梶原景時(45)は平重衡(27)を護送して鎌倉へ一旦戻る。
源頼朝(38)は公文所・問注所を設置。
源義仲(31)討滅にかかる見事な報告、源頼朝(38)と即興の和歌を交した文才、上総広常を討った武勇は梶原景時(45)を「鎌倉ノ本体ノ武士」と評せしめる(『愚管抄』)。
都では梶原景時(45)は「一ノ郎党」と称されていた。
2月18日、梶原景時(45)は、土肥実平(75)とともに播磨国・備前国・美作国・備中国・備後国5か国の守護に任じられる。
4月、梶原景時(45)は土肥実平(75)とともに上洛して各地の平氏所領の没収にあたる。
8月、源範頼(29)が平氏討伐のため鎌倉を発向し、中国地方から九州へ渡る遠征に出る。源義経(26)は源頼朝(38)の勘気を受けて平氏討伐から外される。梶原景時(45)は淡路島などで活動(『吾妻鏡』)。源頼朝(38)から源範頼(29)に対して「土肥実平梶原景時とよく相談して遠征を遂行するように」との命令があり、梶原景時(45)は源範頼(29)に従って西国の占領にあたる。
那須宗高(那須与一)が屋島にて扇の的を射たる弓一張と残りの矢を皇大神宮に奉納。皇大神宮に一舎つくり家臣浅場氏を置き神社を守護させ、人家も増えて沼を開墾して集落が成立する(『皇国地誌』)。
文治元年(1185年) 1月、源範頼(30)が苦戦していたことから源頼朝(39)は源義経(27)の再起用を決める。梶原景時(46)は兵船に逆櫓をつけて進退を自由にすることを提案。源義経(27)は兵が臆病風にふかれて退いてしまうと反対。梶原景時(46)は「進むのみを知って、退くを知らぬは猪武者である」と言い放ち源義経(27)と対立(逆櫓論争)。
2月、源義経(27)が暴風のなか5艘150騎で出航して屋島を落とす(屋島の戦い)。梶原景時(46)の本隊140余艘が到着したときには勝負がついており、梶原景時(46)は「六日の菖蒲」と嘲笑される(『平家物語』)。
3月、源義経(27)は長門国彦島に孤立した平氏を滅ぼすべく水軍を編成して壇ノ浦の戦いに挑む。軍議で梶原景時(46)は先陣を希望したところ、源義経(27)はこれを退けて自らが先陣に立つと言い、梶原景時(46)は「総大将が先陣なぞ聞いたことがない。将の器ではない」と愚弄し、源義経(27)の郎党と梶原景時(46)父子が斬りあう寸前となる(『平家物語』)。源頼朝(39)軍、壇ノ浦の戦いに勝利し、平家を滅ぼす。
梶原景時(46)は「判官殿(源義経)は功に誇って傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いであります。そば近く仕える私が判官殿をお諌めしても怒りを受けるばかりで、刑罰を受けかねません。合戦が終わった今はただ関東へ帰りたいと願います」と源頼朝(39)に報告(梶原景時の讒言)(『吾妻鏡』)。「源義経の独断とわがまま勝手に恨みに思っていたのは梶原景時だけではない」とも記される(『吾妻鏡』)。
源頼朝(39)は守護・地頭の設置。
源頼朝(39)は大庭野で鷹狩りを行う。
3月、那須宗高(那須与一)(17)は弓一張と残の矢を皇大神宮に奉納。領地那須野100石を寄進。
6月15日、源三郎7歳の折、鶴岡八幡宮にて源頼朝(39)と親子の対面をはたし島津忠久と改名。源頼朝の妾丹後局が懐妊し、北條政子の知るところとなるにおよび兄比企能員に命じてひそかに大庭庄司懐島景能(大庭景義)邸に預け、次いで桜屋敷に移って男子を安産。源三郎と名づけられた。源三郎の産まれたときのエナ(胎盤)を埋めた塚の上に松樹を植えたとされ、古株は現在でも地中に存在する。塚の東方一帯の小字を観音堂といい、阿弥陀三尊を安置した御守堂があったと懐島山の伝承に残っている。小字岩見屋敷にある宝生寺に阿弥陀三尊が安置されており、伝承の阿弥陀三尊ではないかとされている。
8月、御霊社が鳴動したと大庭景義(48)が驚いて源頼朝(39)に報告する(大庭景義(48)が坂ノ下御霊神社を管掌していたことを示している)。源頼朝(39)は御霊社に参詣し、解謝(お祓い)のため願文を奉納し、巫女たちに賜物を下し、神楽を納めた。建久5年(1194年)にも八田知家を使者として甘縄宮・御霊社に奉幣。その後も鳴動することがあり将軍源実朝もお祓いしている(『吾妻鏡』)。
10月24日、「今日は、南御堂供養を遂げられる。御家人の中、殊なる健士を差し、警護す。随兵十六人。…長江太郎義景…。」とあり、勝長壽院落慶供養に源頼朝(39)が臨み、御家人中、特にすぐれた者をその警護に選んだ。 随兵畠山重忠(22)以下14人。 御後源頼兼以下22人。随員16人。その5人目に長江義景(56)が記されている。
文治2年(1186年) 源義経(28)の愛妾が鶴岡八幡宮で舞う。
運慶北條時政(49)に伊豆国に招かれ諸像をつくる。
源頼朝(40)・北條政子(30)が甘縄神明宮を参詣。帰途に便宜で甘縄神明宮を外護するために住まわせていた小野田盛長(52)の邸に入り、甘縄神明宮社殿を修理する奉行を小野田盛長(52)に命じる。その後も甘縄神明宮と坂ノ下御霊社へ奉幣の使者を送っている。
文治4年(1188年) 大庭景宗の墳墓を群盗が掘り開き、納めてあった重宝を盗み出し、幕府の追求を受けた(『吾妻鏡』)。豊田本郷村の古跡大場塚が大庭景宗の墓であると記されている(『新編相模国風土記稿』『新平塚風土記稿』『神奈川県中郡勢誌』『中世平塚の城と館』)。江戸時代の絵図に「ヲヲバノ三郎塚」とある。
文治5年(1189年) 源頼朝(43)が鷹狩りで大庭御廚に来訪。高座郡渋谷重国(60)館に宿泊。
源義経(31)が平泉で自害(奥州征伐)。
6月、源頼朝は、奥州藤原氏の追討に発向すべく準備を整えていたが、朝廷からの勅許が届かず、追討の軍を起こす大義がなく途方に暮れていた。御家人の最長老である大庭景義(52)に対策を尋ねたところ、大庭景義(52)は「戦陣では現地の将軍の命令が絶対であり天子の詔は聞かない」「泰衡は家人であり誅罰に勅許は不要である」「集まった武士が数日を無駄に過ごすことはかえって面倒なことになる」「勅許を待たずして、出発すべし」と答えたために、源頼朝(43)は勅許を待たずに奥州藤原氏の追討の号令を決断したという。源頼朝(43)は功として馬を結城朝光を通じて大庭景義(52)に与えている。大庭景義(52)は奥州征伐に加わらず義勝房成尋と留守居をする。
源義経(31)の首は鎌倉へ送られ梶原景時(50)と和田義盛(43)が検分する。
建久元年(1190年) 梶原景時(51)が小松山に鎌倉景政を御祭神として御霊神社を勧請(神奈川県鎌倉市梶原1-12-27)。江戸時代までは鎌倉景政夫婦の像を御神体として祀り、梶原景時(51)の像も安置されていた。
8月16日、鶴岡八幡宮祭礼「鶴岡放生会」の2日目「馬場の儀」で、流鏑馬の射手に欠員が出たところ、懐島景義(53)が石橋山合戦で平家側に与して斬首の指示が出ていた河村義秀を匿って長年世話をしてきたことを明かし、河村義秀は見事に射手を担ったことで本領の相模国河村郷に帰るよう源頼朝(44)に許された(『吾妻鏡』)。
10月、上洛のために鎌倉を出発した源頼朝(44)はまず懐島で一泊し、懐島景義(53)のもてなしを受ける。
11月7日、源頼朝(44)上洛のときに豊田景俊(46)が随員15番手として花道を歩いた(『吾妻鏡』)。
十五番 相模豊田兵衛の尉(豊田景俊)…三十三番 下総豊田兵衛の尉(豊田義幹)…五十五番 梶原兵衛の尉、五十六番…梶原左衛門の尉…、次いで後陣の随兵、一番 梶原刑部の丞、二番 豊田の太郎(豊田景次)…梶原平三…」と名がみえる(『吾妻鏡』)。豊田景俊(46)には豊田太郎豊田四郎豊田五郎ら子がいたという。
…豊田景俊(豊田次郎)は坂東の八平氏で、…鎌倉将軍頼朝に仕え…その子豊田景次(豊田但馬守)は、建久年中(1190~1198年)、大友能直(大友左近将監)が鎮西奉行として九州に下向…それに属従し、豊前国宇佐郡橋津を知行…豊田景俊から19代目の豊田正信(豊田甲斐守)に至って、文禄2年(1593年)大友家が没落して後、知行地の橋津郷を退去…豊前国山鹿と申すところで浪居…」と大友能直(19)の代官の1人として九州に下向したことが記されている(『二天記』)。
12月1日、梶原景時(51)は、北條義時(28)・小山朝政和田義盛(44)・土肥実平(81)・比企能員(46)・畠山重忠(27)らとともに右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院に供奉。
建久2年(1191年) 火災によって焼失した鶴岡八幡宮を再建。政所を設置。
源頼朝(45)の命により大庭景義(54)が鶴嶺八幡宮社殿を修復して再興。西隣りに伊予の三島の神を祀る佐塚明神社を建立。
8月1日、新装となった源頼朝(45)の鎌倉御所で、大庭景義(54)が饗応の役を勤め盃酒を献上。席には足利・千葉・小山・三浦・畠山・八田・工藤・土屋・梶原・比企・岡崎・佐々木などの鎌倉御家人の主だった者たちが列席。大庭景義(54)が保元合戦のことを回顧談。「勇士が用意すべきは武具である。特に他は節約しても重要視するのは弓矢の長さである。源為朝はわが国に比べる者もいない弓矢の達人である。とはいえ、弓矢の寸法を考えるにその身相応でなければならない。大炊御門河原で私が源為朝の矢を受けたわけだが、源為朝が矢を弓につがえたとき私はひそかに思った。源為朝は鎮西(九州)の出身であるから馬に乗ったときは弓を射るのに思うにまかせないはずだ。私は東国で育ちよく馬になれている。だから源為朝の馬手(右手)に馳せまわったときにすでにことは達し、弓の下を越えたので身体にあたる矢が逸れて膝にあたった。この故事を知らなかったならばたちまち命を失うところであった。勇士はもっぱら騎馬に上達しなくてはならない。皆、よく聞きとどめてほしい。老人の言うことだとあなどることのないように。」と話し、列席していた御家人たちは一様に感心し、源頼朝(45)から労いの言葉がかけられたと記される(『吾妻鏡』「老翁の説」)。
建久3年(1192年) 後白河法皇崩御。
源頼朝(46)が征夷大将軍に任命される。
源頼朝(46)が永福寺を建立。
源頼朝(46)の意向により、文武両道の梶原景時(53)が和田義盛(46)に代わって侍所別当に就任。
源実朝が生まれるときに、相模国内の神社・仏寺へ神馬を寄進するなかに、「賀茂 柳下」とあり、賀茂は足柄下郡鴨宮村(小田原市)の鎮守加茂神社のことで、鴨宮村の小名である下鴨は柳下といわれたとされている(『新編相模国風土記稿』)。柳下は「八木下五郎」の名で『源平盛衰記』『延慶本平家物語』などに見えるほか、『平群系図』に「柳下」と鎌倉党名字書立に記される。
建久4年(1193年) 5月28日、源頼朝(47)は富士裾野の巻狩りを行う。曾我祐成(曾我十郎)曾我時致(曾我五郎)の兄弟が父親の仇である工藤祐経(47)を討った事件「曾我兄弟の仇討ち」が起こり、鎌倉には源頼朝(47)も討たれたいう報が流れる。
8月17日、修禅寺に幽閉された源範頼(38)は、間もなくして梶原景時(54)に攻められ自害。
8月20日、曾我兄弟の同腹の兄京親家(京小次郎)源範頼(38)に連座して誅殺。
8月24日、大庭景義(56)と岡崎義実(82)が出家。嫡男の大庭景兼(39)が跡を継ぐ。源範頼(38)が死去し、古くからの源範頼(38)配下であった大庭景義(56)・岡崎義実(82)も事実上の追放を受ける。
実行犯の曾我兄弟の黒幕として支援していたのが北條時政(56)であり、援護していたのが大庭景義(56)と岡崎義実(82)だったのではないかとする説もある(源頼朝暗殺計画)。
建久5年(1194年) 4月9日、源頼朝(48)が征夷大将軍を辞す。
11月21日、「御霊の前浜」とあり、御霊神社の前の浜を前浜といった記述がある。「(建長4年(1252年)11月17日)御霊社の前の海辺で七瀬の祓を行った」とある(『吾妻鏡』)。
12月、大庭景義(56)・安達盛長(60)らは将軍家御願寺社の奉行人(鶴岡八幡宮の奉行)に定められる。
建久6年(1195年) 2月、懐島景義(58)が源頼朝(49)へ申文を提出。「義兵の最初から大功をはたしてきたが、疑刑を受けて鎌倉を追放され、悶悶としてすでに3年を経過した。もう余命いくばくもない。早くお許しをいただき、今度の上洛に加えてほしい。そして老後の眉目にしたい」と記されている。
3月10日、源頼朝(49)は、東大寺の落慶供養に合わせるために奈良の東南院へ向かう。先頭が、畠山重忠(32)と和田義盛(49)。以下、豊田義幹糟谷有季梶原景定(34)・梶原朝景(54)・梶原景季(34)・梶原景茂(29)・梶原景高(31)・梶原景時(56)・波多野義景波多野忠綱波多野義定山内首藤経俊(59)・土屋義清(39)・土肥惟平(46)・土肥実平(86)・和田宗実和田義長三浦義連(65)・三浦義澄(69)・三浦義村(47)・懐島景義(58)・長江明義(44)・岡崎義実(84)・渋谷時国渋谷高重曽我祐綱長尾為宗(43)らが名を連ねた。「懐島平権守入道大庭景能」と大庭景義(58)の名も見られる。大庭景義(58)の出で立ちについて「かちん(褐色)の直垂、鷺の蓑毛にて綴づ。押入れ烏帽子。弓手の鐙は少し短し。保元の合戦のとき射らるる故なり」とある(『吾妻鏡』)。いかに大庭景義(58)が保元の乱における源為朝との戦いを名誉としていたかが分かる。
8月、鵠沼毘沙門堂、修験祐範により開基創建(『皇国地誌』)。
建久9年(1198年) 源頼朝(52)は、八的ガ原にて、源義広源義経源行家らの怨霊に遭遇。
正治元年(1199年) 源頼朝(53)が没す。
十三人の合議制」がはじまる。
大江広元(52)、三善康信(60)、中原親能(57)、二階堂行政(60)、梶原景時(60)、足立遠元(70)、安達盛長(65)、八田知家(58)、比企能員(55)、北條時政(62)、北條義時(37)、三浦義澄(73)、和田義盛(53)。
10月25日、梶原景時(60)が御家人66名による連判状によって幕府から追放される(梶原景時の変)。
11月18日、梶原景時(60)の屋敷(現在の明王院を中心とする一帯)が和田義盛(53)によって壊される。屋敷の敷地は二階堂永福寺に寄付される。明王院西の梶原谷に井戸(梶原井戸)があり、天明5年(1785年)に「応永12年(1405年)の五大堂の食堂に架けるためにつくられた鐘」が出土している。
正治2年(1200年) 1月20日、所領としていた相模国一之宮(寒川町)に退去していた梶原景時(61)が上洛を目論むが、駿河国で飯田家義(43)らの襲撃を受けて狐ケ崎で合戦(狐崎合戦)となり、梶原景時(61)は吉川友兼に討たれる。一族33名の首が路上にかけられた。
梶原景季(39)・梶原景高(36)・梶原景茂(34)・梶原景国(31)・梶原景宗(30)・梶原景則(29)・梶原景連(28)も討死。
9月2日、源頼家(19)を小坪の浜で小坂太郎長江明義(49)が饗応。源頼家(19)が小坂太郎の庭前で相撲を行ったと記されている(『吾妻鏡』)。
建仁元年(1201年) 鎌倉で火事が起こり、和田義盛(55)・土屋義清(45)・大庭景義(64)らの邸「旧跡も焼失した」と吾妻鏡にある。場所は若宮大路の西頬(西側の道路に面する場所)であったとされる。
建仁3年(1203年) 9月、北條時政(67)と北條政子(47)が比企能員(59)一族を滅ぼす。
元久2年(1205年) 6月、北條時政(67)が畠山重忠(42)ら一族を討つ。
承元4年(1210年) 4月9日、大庭景義(73)が没す。「懐島平権守景能入道は相模国において卒す」と記されている(『吾妻鏡』)。相模国懐島で没したことが「懐島権守景能居蹟」として『新編相模国風土記稿』に記されている。居館跡には大正15年(1926年)につくられた供養塔が建っている。
建保元年(1213年) 5月、和田合戦で和田一族に与した大庭景兼(59)が没す。所領大庭御厨は没収される。ただし現在では、筑後国(現在の福岡県)に逃れたという説が定説となっている。
和田義盛(67)に与した深沢郷に拠った深沢氏の惣領に深沢景家(深沢三郎)の名が見られる。
相模国の大庭景連(大庭三郎)が備後国の新庄本郷に地頭として任命され、当地で築城(大場山城)。後に大場氏と称した。南北朝時代の騒乱時に石見国で起こった三角入道の乱において、精鋭部隊の一翼として子孫の大庭孫三郎が活躍。
建保5年(1217年) 伊勢神宮の権神主荒木田氏良、内宮一禰宣となる。大庭御厨は荒木田氏子孫が知行。
承久3年(1221年) 6月18日、承久の乱(宇治橋合戦)が起こる(『吾妻鏡』)。
6月18日條に「梶原平左衛門太郎・梶原平左衛門次郎・香河小五郎・香河三郎(香川経景)・豊田四郎・豊田五郎景春・豊田平太・俣野小太郎・波多野彌藤次・波多野中務次郎・波多野五郎・糟屋三郎・糟屋四郎・曽我八郎・曽我八郎三郎・曽我太郎・長江余一・長江小四郎」ら相模武士の名が見られる。香川経景の父鎌倉景高(香川五郎経高)源頼朝に仕えた(『源平盛衰記』)。
貞応2年(1223年) 『海道記』著者が京都から鎌倉に下向するとき「さがみ川をわたりぬれば懐島に入、砥上が原を出、南の浦を見やれば」と描写している。
文暦2年(1235年) 6月29日、「御所随兵百九十二騎」のなかに、「十二番 豊田太郎兵衛尉(相摸)・豊田次郎兵衛尉…十九番 俣野弥太郎…三十番 豊田弥四郎」と豊田や俣野らの名が見られる(『吾妻鏡』)。
嘉禎4年(1238年) 2月17日、「豊田五郎(豊田兵衛尉)…豊田弥四郎」と豊田らの名が見られる(『吾妻鏡』)。
寛元3年(1245年) 荒木源海、鵠沼に清光山(鵠沼山)万福寺(浄土真宗)を開基創建。
建長2年(1250年) 『吾妻鏡』3月1日條に「豊田太郎」「長江四郎入道跡」と見られる。
弘安8年(1285年) 石上郷、鎌倉の法華堂領となる。
正中2年(1325年) 俣野景平(俣野五郎)が遊行寺を開基。俣野氏屋敷(掘の内・馬場・大手などの字名が東俣野内にある)は遊行寺とは眼と鼻先にある。
元弘3年(1333年) 2月、楠木正成の籠る赤坂千早城を包囲した鎌倉幕府方の戦の状況を伝える『楠木合戦注文』のなかに俣野彦太郎藤沢四郎太郎の名があり(正慶2年2月の楠木攻めに参戦)、俣野氏が鎌倉末期までに得宗被官として勤仕した武士であることが記載されている。
5月18日、鎌倉討伐の新田義貞軍は、経路の民家に放火しつつ鵠沼付近を通過。
5月22日、鎌倉幕府滅亡。
建武2年(1335年) 中先代の乱で北條時行に味方して敗れた三浦時明は鎌倉を逃れて懐島へ落ち延びている。
   

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