武士列伝-鎌倉景政

武士列伝-鎌倉景政

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延久元年(1069年)に生まれた鎌倉景政は、通称は権五郎といわれていました。
桓武平氏のうち坂東平氏、鎌倉党の党首。

桓武平氏の流れをくむ先祖が相模国鎌倉郡鎌倉郷を領して鎌倉氏を称していました。居館は鎌倉郷のほかにも、村岡郷(現在の藤沢市村岡東)や由比郷(現在の鎌倉市由比ガ浜)、大蔵郷(現在の鎌倉市二階堂)、富塚郷(現在の横浜市戸塚区)、大庭郷(現在の藤沢市大庭)なども領していました。

16歳のとき、源義家に従い後三年の役(1083~1087年)に従軍した鎌倉景政は、右眼を射抜かれながらも奮闘した逸話が『奥州後三年記』に残されています。
鎌倉景政源義家の先鋒軍に属して奮戦していました。清原軍が奇襲で一斉に弓矢を放ち攻撃してきたので応戦。清原武衡の家臣鳥海弥三郎(阿武隈川河口鳥の海の豪族)が放った矢が右眼に刺さるも、痛みにひるむことなく矢が刺さったまま戦いつづけ、鳥海軍勢を島田の坂まで追いつめて、逆に鳥海弥三郎を射殺し自陣に帰りました。
右眼に刺さった矢は貫通していて、兜の鉢付の板に刺さっていました。普通の人なら気絶をするかもしくは即死しているところですが、鎌倉景政はあろうことか矢が刺さったままで戦っていたのです。帰陣して苦しむ鎌倉景政のもとに一族の三浦為継(三浦平太郎)が駆け寄ります。
鎌倉景政は右眼に刺さった矢を抜くため三浦為継に頼みました。三浦為継は片手で顔を抑えもう一方の片手で矢を抜こうとしましたが、なかなか抜けなかったため三浦為継鎌倉景政の顔に(貫という履きもののまま)足をかけて両手で抜こうとしたため、「足で顔を踏むとは何ごとか!!兵(つわもの)であれば射抜かれて死ぬのは本望だが、土足で顔を踏まれるのは恥辱じゃ!!汝を斬って自分も死ぬ!!」と叱責して太刀を抜き、三浦為継に斬りかかったといわれています。三浦為継は謝り、膝で鎌倉景政の顔を抑えて丁重に矢を抜いたと伝えられています。坂東武士の気骨さをうかがい知ることができます。
戦後、右眼の療養をした土地には「目吹」の地名が残されています(現在の千葉県野田市)。鎌倉景政が眼を洗った川(厨川)には「片眼の鰍」が住むようになったという伝説が残っていたり、戦後に鎌倉景政が敵の屍を集めて葬って、杉を植えた塚が現在「景政功名塚」として残され、大正時代には塚の周辺が金沢公園として整備され桜とつつじの名所となっています(塚の杉は第二次世界大戦後の火災で幹だけを残しています)。藤原経清の本拠地である宮城県亘理町にも同様の伝承があり、矢抜沢(亘理町逢隈田沢字柳沢)という地名があり、矢抜沢のほとりに「権五郎矢抜石」という石があります。
鎌倉景政の武勇伝により坂ノ下の御霊神社は「目の神様」として慕われています。

長治年間(1104~1106年)に相模国高座郡大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市大庭周辺)を開発して、永久4年(1116年)ころに伊勢神宮に寄進しています。

坂ノ下の御霊神社は鎌倉景政(鎌倉権五郎)を祀っているため権五郎社ともいわれています。そして鎌倉景政の命日(9月18日)に行われる例祭では、神奈川県の民俗文化財に指定されている「面掛行列」が行われます。

明治28年(1895年)に9代目市川團十郎によって現行の型が完成された『歌舞伎十八番之内 暫』では、それまでは単に「暫(しばらく)」とだけ通称されていた主役が「鎌倉権五郎景政」と定められました。
歌舞伎の話は史実とは関係がありませんが、後三年の役で源義家に敗れて降伏しようとした清原武衡が斬首されるわけですが、善良な人々まで捕らえられて打ち首にされそうになったところで「しばらく~!!」と大見得を切って助けに入るのが鎌倉景政となっています。

Wikipedia『鎌倉景政』


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