鎌倉もののふ風土記-鎌倉合戦(元弘の乱)
元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は上野国生品明神(新田郡新田町市野井)で鎌倉幕府打倒の兵を挙げました。鎌倉幕府は迎撃の兵を向けたものの、武蔵国入間郡小手指原(現在の埼玉県所沢市北野)で小手指原の戦い、武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)で久米川の戦い、そして分倍河原の戦いで、新田勢に敗北しました。
鎌倉幕府は守勢に転じ、鎌倉に籠もり七つの切通を固めました。分倍河原の戦いの後、援軍も加えて大軍に膨れ上がった新田勢は、鎌倉に押し寄せました。
小手指原・久米川・分倍河原の戦い
元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は上野国生品明神(新田郡新田町市野井)で鎌倉幕府打倒の兵を挙げました。新田軍は一族や周辺豪族を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて武蔵国へ進みました。当初は大舘宗氏、堀口貞満、岩松経家、里見義胤、脇屋義助、江田行義、桃井尚義ら総勢でもたった150騎ばかりであったといわれています。利根川に着くころには越後国の新田党(里美氏・鳥山氏・田中氏・大井田氏・羽川氏などの各家)や、甲斐国・信濃国の源氏の一族が合流し、軍勢は7,000騎にまでなっていました。
5月9日、利根川を越えた時点で足利尊氏の嫡男足利義詮が合流します。外様御家人最有力者足利尊氏の嫡男が加わったことにより武蔵七党や河越氏ら周辺の御家人も加わり、新田軍は20万7,000騎にまで膨れ上がったといわれています。
さらに新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、入間川を渡ります。迎撃にきた桜田貞国率いる鎌倉幕府軍を5月11日に小手指原の戦いで撃破しました。鎌倉幕府軍は久米川(現在の柳瀬川)で新田軍の南下をくい止めるべく、5月12日に久米川の南岸(現在の東京都東村山市諏訪町)で迎え出ました。
小手指原で勝利した新田軍はそのままの勢いで八国山(現在の東京都東村山市-東京都立八国山緑地)に陣を張り、ここから指揮をとり麓の鎌倉幕府軍への攻撃を開始しました。現在、この陣の跡地は将軍塚(富士塚)と呼ばれています。小手指原で敗れた鎌倉幕府軍にはもはや勢いはなく、戦いは終始新田軍優勢に進み、鎌倉幕府軍は多摩川の分倍河原(現在の東京都府中市)にまで撤退しました。
鎌倉幕府は小手指原・久米川の敗報に接し、新田軍を迎え撃つべく、北條高時の弟北條泰家を大将とする10万の軍勢を派遣し、5月15日に分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流して合戦となりました。
2日間の休息を終えた新田軍は分倍河原の鎌倉幕府軍へ攻撃しましたが、援軍を得て士気の高まっていた鎌倉幕府軍が逆に新田軍を撃破します。新田軍は堀金(埼玉県狭山市堀兼)周辺まで退却を余儀なくされました。この敗走のときに武蔵国分寺(東京都国分寺市)が焼失したといわれています。
翌5月16日新田軍は、援軍に駆けつけた三浦義勝の献策により鎌倉幕府軍を急襲します。鎌倉幕府軍は敗走し、関戸(東京都多摩市)にて壊滅的打撃を被りました。北條泰家は、家臣の横溝八郎の奮戦によって一命をとり止め、鎌倉に逃走しました。
分倍河原の戦いで新田軍が鎌倉幕府軍に対し決定的な勝利をおさめたことにより、鎌倉幕府軍は完全に守勢に転じることとなりました。この後、新田軍には次々に援軍が加わり『太平記』によれば60万もの大軍勢になったといわれています。
鎌倉幕府軍は鎌倉に籠もり7つの切通を固めます。新田軍は要害の地鎌倉を攻めあぐねますが、稲村ヶ崎から強行突破し、鎌倉幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入したことで、最後の合戦(東勝寺合戦)へとつながっていきます。
新田義貞に同調して下総国で挙兵した千葉貞胤は下野国の小山秀朝と合流し鎌倉へと進軍します。一方の鎌倉幕府軍の金沢貞将は上総国・下総国の軍勢を味方につけるために鎌倉を出発するのですが、味方につけるどころか武蔵国鶴見で合戦となってしまいます。金沢貞将は敗れ鎌倉へ引き返し、本拠の六浦(金沢)から金沢貞将の軍勢は鎌倉へ向かい朝比奈坂(朝比奈切通)を守備しました。
鎌倉合戦
新田軍は鎌倉街道(鎌倉道)の上ノ道を南下し、村岡(現在の神奈川県藤沢市村岡)から洲崎(現在の神奈川県鎌倉市寺分)に入りました。洲崎は江島道と2本の鎌倉道が通る交通の要衝でした。
鎌倉道の中ノ道にある離山(長山・腰山・地蔵山)に新田義貞は軍を集めて軍議を行ったともいわれており、新田義貞は多勢いるかのようにあちこちで名が残っています。
新田勢は軍勢を3つに分け、それぞれに軍を進めました。洲崎から狐坂・山崎・紅花・市場・亀井(現在の山内)への江島道(巨福呂坂・亀谷坂方面)ルートと、洲崎から梶原・常盤をへて2本の鎌倉街道(化粧坂・大仏坂)ルートと、洲崎から手広への江島道で江島方面へ南下しもう1本の鎌倉道(古東海道)からの進軍(極楽寺坂)ルートです。『太平記』には「村岡・片瀬・腰越・十間坂、50余か所に火をつけて、三方から攻め込んだ」とあり、これが古東海道からの進軍ルートとなります。十間坂(小動岬付近)から日坂(江ノ電鎌倉高校前駅付近)をへて稲村ガ崎に出ます。
また、手広から大塚山(戦道峰)を越えて現在の鎌倉山から尾根伝いに陣鐘山へいたる山道と、笛田から笛田山を越えて尾根伝いに陣鐘山(聖福寺)へいたる山道があり、洲崎から山を越えて極楽寺坂へ出たという記録もあります。
5月18日、巨福呂坂・亀谷坂ルート、極楽寺坂ルート、そして化粧坂・大仏坂ルートの三方から攻撃を開始しました。
巨福呂坂・亀谷坂方面には堀口貞満・大島守之らをさし向け、極楽寺坂方面には大館宗氏・江田行義らをさし向け、そして化粧坂・大仏坂方面には新田義貞と弟脇屋義助が主力を率いて攻撃しました。化粧坂には大慶寺から十三坊塚をへて進軍していたとされています。
新田勢は兵力が優勢であったものの天然の要塞となっていた鎌倉の切通の守りはかたく、混戦が続きました。
巨福呂坂・亀谷坂は、北條一門で執権の赤橋守時率いる鎌倉幕府勢が守りをかためていました。赤橋守時は妹登子が足利尊氏の妻であったことから、北條高時に疑われるのを恥じて死を覚悟してこの戦いに望んだと『太平記』は伝えています。また朝比奈坂を守備していた金沢貞将は新田軍勢の主力が集まる化粧坂へ急行しました。
新田方の武将は堀口貞満・大島守之で、5月18日朝、赤橋守時は巨福呂坂から出撃し新田軍を迎撃して洲崎まで追い返しました。『太平記』によれば洲崎では1日に65回もの突撃を繰り返し、新田勢と激戦を繰り広げ、化粧坂を攻撃していた新田義貞軍の背後まで迫り、合流した新田義貞・堀口貞満・大島守之らと洲崎でさらに激戦となりました(洲崎合戦)。激戦のため赤橋守時の軍勢は洲崎に到達した時点で兵力の大多数を失っており、赤橋守時や侍大将南條高直ら90余名が洲崎(山崎)で自刃しました(山崎合戦)。南條高直は家臣に「巨福呂坂へ退き援軍を頼むべし」と進言をもらったものの千代塚で潔く自害したといわれています。等覚寺には北條一族の供養塔があるほか、洲崎に泣き塔という供養塔が残っています。
赤橋守時が自害した後、新田勢は攻撃をつづけ巨福呂(鎌倉市山ノ内付近)まで雪崩込みますが、長崎高重ら鎌倉幕府勢の守りはかたく、巨福呂坂・亀谷坂の突破はできませんでした。
洲崎合戦で勝利した新田軍は化粧坂・大仏坂へと進軍します。新田義貞・脇屋義助の主力が率いる化粧坂の攻防戦は鎌倉幕府軍の金沢貞将の守りがかたく、新田軍はこの方面で難渋します。5月20日の攻撃時も化粧坂は破られることがなかったため、新田義貞はこの方面での戦いを脇屋義助に任せ、自身は翌5月21日に侍大将大館宗氏が戦死した極楽寺坂へと転戦しました。
極楽寺坂では鎌倉幕府軍の大仏貞直が陣を張っていました。鎌倉幕府軍の守りはかたく、大館宗氏率いる新田勢の一隊が稲村ヶ崎の波打ち際よりいったんは鎌倉への突入に成功したものの、後続の兵がなく大館宗氏の一隊は鎌倉幕府勢の包囲攻撃にあい、大館宗氏ら11人が稲瀬川で討死し、生き残ったものは南方の霊山に立て籠り、仏法寺に陣を張りました。このとき鎌倉幕府方は諏訪氏や長崎氏らが主力だったとされています。5月19日~21日に霊山でも戦いが行われ、仏法寺古戦場が現在も残っています。『太平記』では大館宗氏の戦死は、鎌倉幕府の大将大仏貞直の近習本間山城守(本間左衛門)の突撃のためとされています。
他の複数史料が大館宗氏の稲村ヶ崎突破を描いており、稲村ヶ崎の十一人塚の伝承もあることなどから『太平記』の記述には検討の余地があります。
この極楽寺坂の戦いで、極楽寺はことごとく焼失したといわれています。
大館宗氏戦死の報を受けた新田義貞は、援軍を率いて極楽寺坂に向かいました。聖福寺(陣鐘山)に陣を張っていたといわれています。陣鐘山は現在の江ノ電稲村ガ崎駅のすぐ北の50mほどの高さの山ともいわれていますが、陣が張られた聖福寺の山の修行道場跡に鐘や竜頭(鐘をかけるための部品)が埋まっていたので聖福寺の山が陣鐘山ともいわれています。陣太鼓の胴だけが極楽寺に伝えられています。
5月21日夜、新田義貞は引き潮に乗じ鎌倉西方の稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市内に攻め入りました。古典『太平記』には、新田義貞が潮が引くのを念じて海に剣を投じると、その後潮が引いたので岬の南から鎌倉に攻め入ったと記されています。この新田義貞の徒渉突破説は史料としては太平記のみが記述しており『梅松論』他の複数史料は極楽寺坂での突破として記しています。近年の考古遺跡の発掘により徒渉突破説はいまだ検討の余地があるものの『太平記』の記述に基づけば新田義貞は防御のかたい極楽寺坂での突破を諦め、干潮を利用して稲村ヶ崎を突破したということになります。また、天文計算によれば、5月18日が干潮にあたり21日とした『太平記』の日付の記述は誤りだという指摘もあります。この稲村ヶ崎での突破が起点となり、三方の口は破られ、新田勢は鎌倉に乱入しました。
鎌倉では激戦がつづき、稲瀬川より由比ヶ浜の家々に新田勢が火を放ったため、鎌倉は火災の煙で覆われました。この時大仏貞直・大仏宣政・金沢貞将・本間山城守(本間左衛門)など鎌倉幕府方有力武将が相次いで討ち死にしています。
現在の宝戒寺にある北條執権亭にも火が迫ったため、北條高時ら北條一門は最期であることを悟り、菩提寺である葛西ヶ谷の東勝寺に集まりました(東勝寺合戦)。集まった北條一族は283人・家臣は870人でした。5月22日、長崎高重・摂津道準らが順に切腹し、北條高時ら北條一門は自害しました。新田義貞が5月8日に挙兵してからわずか15日で鎌倉幕府は滅亡となりました。
戦いの後も新田勢による残党狩りがつづきますが、北條時行ら一部の北條一族は鎌倉を脱出しています。鎌倉攻めによる敵味方双方の戦死者を弔うために、新田義貞は和賀(現在の鎌倉市材木座)に浄土宗九品寺を建て、北條執権亭跡に足利尊氏が後醍醐天皇の命で天台宗宝戒寺を建てています。
東勝寺での戦死者の遺体の多くは釈迦堂奥のやぐら群に葬られましたが、昭和40年ころの宅地造成により大部分が破壊されました。
陣場・古戦場・供養地
<<上ノ道>> | |
村岡 | 戦場となり火に包まれた(太平記)。 |
八ツ嶋 | 洲崎合戦の戦没者を弔う。兜松に合祀されている。 |
泣き塔 | 洲崎合戦の犠牲者を弔うために建てられた。 |
陣出・陣出温泉 | |
洲崎古戦場碑 | |
狐坂 | 中ノ道と上ノ道をつなぐ江島道にあり戦場となった。 |
山崎切通 | 中ノ道と上ノ道をつなぐ切通。山崎合戦の戦場となった。 |
千代塚 | 場所は諸説あるが山崎切通付近の神明社の山頂。 |
等覚寺 | 鎌倉合戦の戦死者を弔う供養塔・五輪塔がある。 |
十三坊坂 | 大慶寺から化粧坂へつづく峠坂で戦場となった。 |
化粧坂 | 特に激しい戦場となった。 |
大仏坂 | 戦場となった。 |
<<中ノ道>> | |
離山 | 新田義貞が軍を集めて軍議を行った場所。 |
亀谷坂 | 戦場となった。 |
巨福呂坂 | 戦場となった。 |
<<江島道・古東海道>> | |
青蓮寺 | 泣き塔が移されていた寺。 |
片瀬 | 村岡から進軍した新田義貞軍が火を放ち戦場となった(太平記)。 |
腰越 | 新田義貞軍が火を放ち戦場となった(太平記)。 |
十間坂 | 新田義貞軍が火を放ち戦場となった(太平記)。 |
満福寺 | 新田義貞軍が陣を張った。 |
日坂 | 新田義貞が軍を進めた峠坂。新田坂から転化。 |
大塚山 | 山道で激しい戦場となった。戦道峰ともいわれる。 |
聖福寺 | 新田義貞軍が陣を張った。 |
陣鐘山 | 新田義貞軍が陣を張り、陣太鼓や陣鐘を鳴らした。 |
極楽寺 | 極楽寺坂攻防戦で焼けた。 |
極楽寺坂 | 激しい攻防戦が繰り広げられた。 |
稲村ガ崎 | 新田義貞軍が海からまわって鎌倉に入った。 |
十一人塚 | |
霊山 | 新田義貞軍が陣を張り戦場となった。 |
佛法寺 | 霊山にある寺で戦場となった。 |
<<鎌倉>> | |
由比ガ浜南遺跡 | 由比ガ浜地下駐車場を建設時に4,000体の人骨が発見された。 |
和田塚 | 無常堂塚・采女塚などあり戦地となった。 |
万霊供養塔(骨塚) | 簡易裁判所付近の調査で1,000体近くの人骨が発見された。 |
内裏山 | 北條館を攻める前に新田義貞軍が陣を張った。 |
九品寺 | 新田義貞が敵味方双方の戦死者を弔うために創建。骨塚の人骨も葬られた。 |
乱橋碑 | 戦について記されている。 |
弁谷碑 | 戦について記されている。 |
宝戒寺 | 戦死者を弔うために後醍醐天皇が足利尊氏に命じ創建させた。5月22~24日に北條一族の供養が行われる。 |
東勝寺 | |
腹切やぐら | 北條高時・北條一族ら283人・家臣が870人自害したやぐら。 |
釈迦堂谷やぐら | 釈迦堂谷の奥山頂にある釈迦堂谷やぐら群には元弘3年5月28日と刻まれている五輪塔がある。 |
<<六浦道>> | |
報国寺 | 戦死者を弔う石塔・供養塔などが集められている。 |
朝比奈坂 | |
北條首やぐら | 瑞泉寺の裏山奥。北條高時の首をもって逃げ込み埋めたとされるやぐら。 |
貝吹地蔵 | |
<<三浦道>> | |
小坪坂 | |
名越坂 | |
東昌寺 | 鎌倉幕府滅亡後に住職信海和尚が逗子池子に東勝寺を再建。 |
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