鎌倉の城址・屋敷跡

鎌倉の城址・屋敷跡

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三方を山に、南は海が開ける鎌倉を城郭都市とする見方もあります。中世では杉本城が、その後、戦国時代になって住吉城や玉縄城といった山城が築かれました。
山城は、険しい斜面や尾根など山や谷の自然地形を利用・改変して築かれた要塞です。
築城にあたって、人工的な堀切など防御設備を整えました。
三浦半島の基部にあたる鎌倉付近は戦国時代、三浦半島を拠点とし、かつては鎌倉幕府で重責を担った三浦一族の末裔の三浦道寸(三浦義同)と相模に勢力を得た伊勢盛時率いる後北條氏との対決の舞台となりました。
現在、鎌倉にはこの時期の3つの山城、住吉城・玉縄城・天神山城の城跡が残っています。


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城館・屋敷
城主
所在郷
備考
大蔵城 源頼朝 大蔵郷 大蔵御所・大倉御所・大倉幕府ともいう。
源頼朝・源頼家・源実朝の城館。もとは鎌倉景政の城館で、鎌倉景政が源義家に大蔵谷の城館を献上している。鎌倉景政は由比の里に新しく城館を建てて移り住み、村岡の玉縄神明社を移し甘縄神明社としたという(村岡宮前御霊宮縁起)。
北條城 北條義時 大蔵郷 北條義時邸・渋谷昌俊邸・渋谷金王丸邸・土佐坊昌俊邸ともいう。
文覚上人屋敷   大蔵郷 文覚上人屋敷跡です。
大蔵畠山城 畠山重忠 大蔵郷 政所・畠山重忠邸ともいう。
赤橋城   小林郷 源平池に架けられた反橋(太鼓橋)のすぐ近くに北條義宗(赤橋駿河守)の居館があった。鎌倉幕府最後の執権となった北條守時を輩出した赤橋北條氏の居館。
寿永元年(1182年)に北條政子が大庭景義に命じて源平池を掘らせている。建保元年(1213年)5月3日の和田義盛の乱において、和田軍の土屋義清が赤橋で流れ矢にあたって戦死している。
若宮大路城 北條泰時 小林郷 若宮大路御所・北條泰時邸・親王屋敷ともいう。
御谷二十五坊   小林郷 鶴岡八幡宮を管理する供僧が住む供僧坊です。
巌谷佐野城   小林郷 佐野基綱邸ともいう。
荏柄城 和田胤長 荏草郷 和田胤長館ともいう。建暦3年(1213年)2月に源千幡を擁立して北條義時を討とうとした疑いで駿河国の御家人渋河兼守が捕らえられ、首謀者として和田胤長も荏柄城を没収された。和田胤長は和田義盛の甥で、和田一族が決起し和田合戦へと発展している。
杉本城 杉本宗長 荏草郷 大蔵山杉本城・杉本義宗館・斯波家長館・北畠顕家邸ともいう。建武4年(1337年)に六浦から鎌倉へ攻め込んだ北畠顕家を斯波家長が杉本城で迎え撃ったが敗退した。
犬懸城 上杉朝宗 荏草郷 上杉朝宗邸ともいう。日光別当犬懸坊も近くにあったという。
青砥城 青砥藤綱 荏草郷 青砥城です。北條時頼家臣の青砥藤綱の城館。青砥藤綱は青砥藤満の長男。『結城文書』康永3年(1344年)には青砥左衛門尉の名が残る。
大江城 大江広元 荏草郷 大江広元邸ともいう。
朝比奈城   荏草郷 朝夷奈城ともいう。
青ヶ台城   荏草郷 青ヶ城ともいう。元弘元年(1331年)に幕府軍として後醍醐天皇と戦った金沢貞顕(金沢右馬助)の居城。元弘3年(1333年)に新田義貞に従い北條高時を攻めた金沢貞将は討死。
伊丹城   荏草郷 堀ノ内城・釜利谷堀ノ内城・坂本城ともいう。伊丹右衛門太夫の居城。伊勢盛時(北條早雲)に仕えた伊丹氏が居城とした。
町屋城   荏草郷 町屋陣城ともいう。
御茶山城   荏草郷 瀬戸城ともいう。江戸時代には米倉昌尹(米倉丹後守)が陣城としている。
二階堂城   荏草郷 藤原行政の城館。二階堂にあったことから藤原行政は二階堂氏を称した。
明石城   荏草郷 足利氏一族の明石検校(明石城了)が居館とした。『風土記稿』によれば谷には明石検校塔があったという。『秀雅百人一首』にも記録が残る。
釈迦堂北條城 北條時政 荏草郷 釈迦堂城・北條時政邸です。
宇都宮城   鎌倉郷 宇都宮辻子御所ともいう。
鎌倉城 源義朝 鎌倉郷 鎌倉之楯・亀谷城ともいう。源義朝の居城。源義朝の死後に岡崎義実が菩提を弔い草堂を建てていたため源頼朝は居城を大蔵へ移し大蔵幕府を開いた。北條政子は草上房栄西に寄進し寿福寺が建立され、北條政子の墓がある。
泉谷城   鎌倉郷 北條守時館・守時邸・御中邸・刑部邸・泉谷亭ともいう。北條氏の城館。泉谷督教(泉谷右兵衛)の城館もあったという。
長尾城   鎌倉郷 長尾景仲屋敷ともいう。
小町千葉城   鎌倉郷 千葉邸ともいう。至徳2年(1385年)に千葉胤貞(千葉大隅守)が日英を開山として妙隆寺を開基するまで千葉氏代代の城館。
比企城 比企能員 鎌倉郷 比企能員邸ともいう。
天神山城   山崎郷 天神城ともいう。
常盤城   梶原郷 桔梗山常盤城ともいう。大仏坂切通の北に位置する常盤一帯は鎌倉防衛の要衝でした。
古舘城   村岡郷 古舘・古館・固舘城ともいう。
村岡城   村岡郷 高谷城ともいう。
三反畑城   村岡郷 村岡城の支城です。
五反畑城   村岡郷 村岡城の支城です。
丸山城   村岡郷 村岡城の支城です。
大塚城   村岡郷 大塚烽火台ともいう。
大谷城   村岡郷 御幣山城ともいう。
二伝寺城   村岡郷 二伝寺砦・相模陣城ともいう。玉縄城の支城です。
玉縄城   玉縄荘 玉輪城ともいう。
長尾台城 長尾景弘 長尾郷 長尾館・長尾砦・長尾台塁ともいう。
平安時代末期に長尾景弘が築城。治承8年(1180年)8月に長尾為宗・長尾宗景兄弟は大庭景親に従い源頼朝と石橋山で戦い打破。戦国時代に北條氏の玉縄城の出城として鳥居伝十郎が守備。
金井堀内城   金井郷 金井城ともいう。
長沼城   長沼郷 源頼朝の家臣長沼五郎の城。
井出城   長沼郷 飯島井出城、飯島殿谷城ともいう。井出兵部丞の居城。
倉田城   倉田郷 蔵田城、倉田堀内城、倉田堀ノ内城ともいう。實方氏の居城。
汲沢畠山城   富塚郷 六郎丸城ともいう。正治年間(1199~1201年)に鎌倉幕府の臣畠山重忠(畠山次郎)の子畠山重保(畠山六郎)が築城。元久2年(1205年)年6月、畠山重保は政治抗争で佐久満太郎に殺害された。
上矢部堀之内城   矢部郷 福泉寺城ともいう。徳川家臣石川重政(石川四郎左衛門)が居城とした。
矢部城   矢部郷 竹下城・竹の下城・竹下小次郎館ともいう。応永年間(1394~1428年)に三浦一族竹下小次郎が居城とした。
柏尾城   柏尾郷 樫尾城ともいう。江戸時代初期に植村正勝(植村庄右衛門)が居城とした。
俣野永井城   俣野郷 俣野城・俣野戸之久保城・永井監物館ともいう。石橋山合戦で源頼朝と戦った俣野景久(俣野五郎)の居館。後に横山氏、永井氏らが居館とした。慶長元年(1596年)、東俣野を領した徳川家康の家臣永井白元(永井弥右衛門)が陣城として築城。
俣野堀込城   俣野郷  
小雀城   俣野郷 杉浦勝吉館ともいう。三浦氏一族の杉本氏が徳川氏に与えられた。杉本氏は三浦氏の一字をとって杉浦勝吉(杉浦八郎五郎)と称した。
真南台城   野庭郷 金井陣屋・織部屋敷ともいう。
野庭関城   野庭郷 野場関城ともいう。
松本城   野庭郷  
笹下城   野庭郷 間宮氏笹下本城・間宮豊前守陣屋・篠笥城・佐々木城ともいう。天正18年(1590年)に間宮康俊(間宮豊前守)は伊豆山中城で戦死。
笹山城   永谷郷 永谷城ともいう。藤原乗国の居城。室町時代には上杉憲忠が居城とした。
中和田城   和泉郷 和泉城・泉小次郎親衡館ともいう。北信濃の豪族泉親衡(泉小次郎)の居館。建保元年(1213年)2月に源頼家の遺児源千寿を擁立し、執権北條義時打倒を目論むが失敗。
中田石巻城   和泉郷 中田城ともいう。
富士塚城   飯田郷 飯田五郎家義館ともいう。飯田家義(飯田五郎)の居館。
鍋屋佐婆城 清水六郎左衛門 飯田郷 鯖城・佐波城・鯖明城ともいう。清水六郎左衛門が居城とした。
四ツ谷城   飯田郷 江戸時代初期に松平昌吉(能見昌吉)が居城とした。
岡津城   岡津郷 戦国時代に扇谷上杉朝良が居城とした。
阿久和城 安藤正珍 阿久和郷 徳川家臣安藤正珍(安藤治右衛門)の居城。
小菅ヶ谷城   山内本郷 小菅谷城ともいう。
東谷山城   山内本郷 鍛冶ヶ谷城ともいう。源頼朝の家臣斎田左衛門の居城。
公田城   尺度郷  
加佐間城   尺度郷 笠間山城・笠間城ともいう。松田左馬助の城です。
由比染谷城 染谷時忠 由比郷 由比長者屋敷・染谷時忠館ともいう。
由比畠山城   由比郷 畠山重保の城館。現在は館跡と墓が残る。
弁谷千葉城   由比郷 千葉屋敷・別駕谷城・弁ヶ谷千葉城ともいう。千葉常胤の城館。千葉常胤を「弁ヶ谷殿」と称していた。
阿仏尼邸   埼立郷 藤原定家の子藤原為家の側室阿仏尼の居館です。
千葉甘縄城 千葉時胤 甘縄郷 司馬甘縄邸ともいう。千葉時胤の城館。
安達甘縄城   甘縄郷 安達邸・藤九郎盛長邸・甘縄城ともいう。安達盛長・安達景盛・安達義景・安達泰盛らの城館。甘縄神明神社付近とされてきたが、現在は御成まで甘縄の地名が広がっていたとされている。
千葉谷城 千葉常胤 甘縄郷 千葉屋敷・千葉ヶ谷邸ともいう。千葉常胤が居城とした。千葉ヶ谷横穴群が山腹にある。
御殿辺城   藤沢郷 御座所・妙善寺城・藤沢城ともいう。白旗神社、御殿辺公園、妙善寺などの一帯がかつての御殿とされる。
飯島崎城 伏見広綱 小坪郷 飯島城・西浜飯島崎城・伏見邸・伏見広綱邸ともいう。寿永元年(1182年)に北條政子の命により牧宗親によって伏見広綱(藤原広綱)の城館は破壊されている。
住吉城   小坪郷 住吉要害・住吉要害城・住吉山城・要害山城ともいう。鎌倉時代に北條氏が築城。永正9年(1512年)に伊勢盛時に敗れた三浦義同が籠城するが伊勢盛時に攻められ落城。三浦義同は新井城へ敗走。
小坪堀内城   小坪郷 小坪城・小坂堀の内城・小坂天王社ともいう。
沼濱城 源義朝 沼浜郷 沼間城・沼浜城・源義朝邸ともいう。源義朝の居城で、源義朝の死後に源頼朝によって源義朝記念の建物として修復保存がはかられたが建仁2年(1202年)に北條政子によって破壊され、寿福寺へ寄付された。
鐙摺城 大多和義久 葉山郷 軍見山城・旗立山城・堀内城・幡指城・旗指城ともいう。
三浦義明の子・大多和義久の城。三浦義澄が畠山重忠との戦いで籠城した。伊勢盛時に攻められた三浦義同が物見として使用したことで軍見山城ともいう。
長柄城   葉山郷 長江城・殿ヶ谷城・福巌寺城ともいう。平安時代末期に長柄義景が築城。
衣笠城   三浦郡 平安時代末期に村岡為通が築城。三浦氏を称した。
大矢部城 朝比奈義秀 三浦郡 鎌倉時代に和田義盛の三男朝比奈義秀が築城しました。
小矢部城   三浦郡 平安時代末期に三浦氏が築城しました。衣笠城の支城です。
浦賀城   三浦郡 明神山城・東林寺城ともいう。三浦道寸が築城しました。
蘆名城 蘆名為清 三浦郡 芦名城・芦名館ともいう。平安時代末期に三浦義明の弟蘆名為清(芦名為清)が築城。
大多和城 大多和義久 三浦郡 太田和城・矢城・矢山城・矢城山城ともいう。平安時代末期に三浦義明の三男大多和義久(大多和三郎)が築城。
佐原城 佐原義連 三浦郡 平安時代末期に三浦義明の子佐原義連が築城。
長井城 長井義季 三浦郡 長井館・荒崎城ともいう。平安時代末期に三浦義明の五男長井義季が築城。
怒田城 岡崎義実 三浦郡 沼田城・奴田城ともいう。平安時代末期に三浦為継が築城。岡崎義実、杉本義宗らが城主をつとめた。
和田城 和田義盛 三浦郡 和田館ともいう。三浦義明の孫和田義盛が築城。父杉本義宗の杉本城を出て16歳で和田城を築城。
三崎城   三浦郡 三浦城・宝蔵寺城・北條山城ともいう。永正9年(1512年)に三浦家臣出口茂忠が城主。
新井城   三浦郡 鎌倉時代に三浦氏が築城。三浦時高は子に恵まれず上杉持朝の孫上杉義同を養子に迎えた。ところが晩年に実子三浦高教が生まれ家督争いとなる。明応3年(1494年)に三浦義同は母の実家小田原城主の大森氏の援助を得て新井城を攻め三浦時高・三浦高教父子を討ちとった。三浦義同は長男三浦義意を新井城主とし岡崎城を拠点に勢力を拡げた。大森氏を打破した伊勢盛時と敵対し、永正9年(1512年)に岡崎城を落とされ住吉城に退き、住吉城も落とされると新井城に籠城した。永正13年(1516年)に兵糧も底を尽き三浦父子は討死。
深見城 山田経光 高座郡深見郷 一ノ関城・城ヶ岡城ともいう。享徳4年(1452年)には山田経光(山田伊賀守)が城主であった。
和田城   高座郡和田郷 大和田城・上和田城・上和田山城・上和田城山ともいう。
下鶴間城 山中貞信 高座郡伊参郷 鶴間城ともいう。山中貞信(山中貞住)の居城。
長後渋谷城   高座郡涓堤郷 天満宮城ともいう。渋谷氏の城。秩父基家(秩父六郎)が居城とした。
大庭城   高座郡大庭郷 平安時代には大庭御厨と称された地。鎌倉景正(鎌倉権五郎)の流れをくむ大庭景宗が築城。坂東平氏の中心的存在として湘南一帯に勢力を増大させた。室町時代には扇谷上杉氏上杉定正の支配下となるが、戦国時代には伊勢盛時が攻略した。
城神城   高座郡大庭郷 大庭館、大庭南城ともいう。鎌倉時代に三浦義村が居館とした。戦国時代には北條綱成の弟福島勝広が居城とした。
柏山城   高座郡大庭郷 大庭家臣吉田景房(吉田将監)の居館。
海老名城 海老名季貞 相模国府中 府中城・海老名館ともいう。村上源氏の後裔海老名氏の城。武蔵国横山党から養子を迎え海老名季兼が家督を相続。本間氏・荻野氏・糟屋氏らを分布。平安時代に海老名季貞(海老名源八郎)が源氏に属して転戦。
川井御殿丸城   都築郡 小高御殿丸城ともいう。
倉林城 倉林五郎左衛門 都築郡 戦国時代に倉林五郎左衛門が築城。
富岡城   久良岐郡 文禄3年(1594年)に徳川家康に従った豊島明重(豊島刑部少輔)の城。

 

住吉城

逗子市との境、材木座海岸と小坪の間にまたがる山に住吉城址はあります。
伊勢盛時が古要害をとり立てて城郭として新たにつくり、その後、三浦道寸(三浦義同)が攻め落としました。
しかし永正9年(1512年)に三浦道寸(三浦義同)は住吉合戦でこの城を伊勢盛時に落とされ、三崎の新井城に退きました。
昭和54年(1979年)から昭和55年(1980年)に行われた発掘調査では、この城は山そのものを防御システムにくみ込んだものだと分かりました。
また、平成17年(2005年)には逗子マリーナ北側山頂部から土塁が検出されています。


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玉縄城址

玉縄城は甘縄城・玉の輪城ともいわれています。
永正9年(1512年)に、伊勢盛時が築いた玉縄城の城址は大船駅の西北の丘陵地帯にあります。
現在、その中心部に清泉女学院中学高等学校が建ち、城跡の中心区域は破壊されました。
尾根を活用して多くの曲輪・土塁・堀を造成して中央に本丸を設けていました。
構造は複雑で、きわめて堅固な城郭でした。大永6年(1526年)に安房国から里見氏が来襲したときには北條氏時が撃退しています。
後北條氏にとっては相模最大の拠点でもあり、天正18年(1590年)に豊臣秀吉に無血開城されるまで落城したことはありませんでした。
現在は造成されて多くの遺構が失われましたが、多数の切岸や堀の跡が発掘により確認されています。
跡地からは16世紀の中国製陶磁器をはじめ、建物跡、金属製品、漆製品など生活用具も多数出土しました。


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村岡城址

高谷砦・高谷城ともいわれています。坂東平氏の源流・村岡良文(村岡五郎)の居城です。


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大谷城址

御幣山城ともいいます。村岡城の支城です。戦国時代に北條家臣大谷公嘉(大谷帯刀左衛門)が築城しました。
永禄12年(1569年)に武田晴信が侵攻してきたときには大谷公嘉は小田原城に在城しており、大谷城は落城しました。
天正18年(1590年)には大谷公嘉は上野国西牧城を守備しており、豊臣軍との戦いで討死しました。


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大塚城址

大塚烽火台ともいいます。村岡城の支城です。


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天神山城址

文献に記載はみられません。位置的にみて玉縄城の出城と考えられます。
凸型をした遺構と北野神社背後の土塁などが残る中世の山城で、山崎にあります。


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杉本城址

杉本城は平安時代末期に三浦義明の長男杉本義宗が築城したといわれていますが、それを示す遺構はありません。
尾根を堀切によって分断し、直線状の連郭とする典型的な中世の山城で、三方を山で囲まれた城郭都市鎌倉にとって、朝比奈方面の守りの拠点だったと思われます。
南北朝内乱期の建武4年/延元2年(1337年)に斯波家長が守備していましたが、南朝方の北畠顕家らによって落城させられました。
北畠顕家によって斯波家長は討たれています。
北畠顕家は武将としても力があった公卿で、二度、鎌倉を攻めています。


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畠山城址

鎌倉時代に坂東平氏の流れをくむ秩父氏の畠山重忠が築城しました。
畠山重忠畠山重保父子は源頼朝の重臣です。北條義時の大軍と戦い討死しました。


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犬懸城址

上杉憲藤の子上杉朝宗、さらに上杉朝宗の子上杉氏憲ら犬懸管領の居城です。


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桔梗山常盤城

常盤邸ともいいます。大仏坂切通の北に位置する常盤一帯は鎌倉防衛の要衝でした。
そのため、7代執権北條政村をはじめ、北條一族が別邸を構えました。
昭和52年(1977年)に発掘され建物跡などが見つかりました。
国指定史跡の範囲は、およそ11万㎡で、門柱跡・法華堂跡・やぐらなどが存在します。
鎌倉時代の歴史書で幕府の編んだ『吾妻鏡』からもそのたたずまいをうかがうことができます。
鎌倉時代を代表する武家屋敷跡として国指定史跡となりました。


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文覚上人屋敷跡

大御堂橋の西側に文覚が住んだといわれる文覚屋敷があります。
文覚は、遠藤盛遠という武士でしたが、渡辺渡の妻の袈裟御前に懸想し、誤って殺してしまいました。
その後、供養のために出家して僧侶となったといわれています。
熊野山で修業を積むなどし、京都の神護寺の再興のために後白河法皇に勧進したものの、怒りを買い伊豆国にに流されました。
そのころ源頼朝も伊豆国に流されていて、2人は親交を深めました。文覚源頼朝に平氏討伐の挙兵を勧め、源頼朝は石橋山の戦いに臨んだといわれています。
大御堂橋の下を流れる滑川のことを、古くはこの文覚にちなんで坐禅川といったといわれています。


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二十五坊跡

鶴岡八幡宮の西北、小袋坂の曲がり角辺りの一帯は、古くは御谷と呼ばれ、幕末まで鶴岡八幡宮を管理する供僧が住む供僧坊がありました。
建久2年(1191年)に、供僧二十五口の制が定められ、それぞれ住坊がこの地に建てられました。
室町時代には数を減じて一時は七坊までになりましたが、江戸期には十二坊まで復興しました。
昭和39年(1964年)、この地域で大規模な宅地造成が行われようとしたとき、貴重な史跡や緑地を守る市民運動が繰り広げられ「御谷騒動」と呼ばれました。
この「騒動」は国を動かし、古都保存法制定のきっかけとなりました。


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阿仏尼邸跡

江ノ電極楽寺駅を海の方へ向かった右手奥にあります。
阿仏尼藤原定家の子である藤原為家の側室です。藤原為家の死後、実子藤原為相とその兄との間に所領相続問題が生じ、北條時宗に正当性を訴えるため、建治3年(1277年)に京都から鎌倉に下りました。
『十六夜日記』はその旅の日記であり、鎌倉滞在記です。4年間、月影ヶ谷に住んだといわれています。
帰京し没したという説もありますが、碑にはこの地で没したとされています。


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旧御用邸跡

明治32年(1899年)に明治天皇の皇女のために造られた鎌倉御用邸の門です。
関東大震災で倒壊して御用邸が廃止された後、昭和8年(1933年)、跡地に御成小学校が建てられ、その正門として受け継がれています。
もとは木製でしたが、昭和30年(1955年)に鉄筋コンクリートに建て替えられました。
門標の校名の文字は、俳人で鎌倉に暮らした高浜虚子が筆をとりました。


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