鎌倉の発掘調査

鎌倉の発掘調査

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武家の都として栄えた鎌倉には、地下に都市遺跡が多く残っています。
たとえば、若宮大路周辺では、幕府跡・北條氏の屋敷跡が、また、御成小学校の敷地である今小路西遺跡からは、鎌倉の郡衙跡や有力御家人の屋敷、庶民の住居・倉庫などの跡が発見されました。
これらの発掘調査から、中世都市鎌倉の姿と機能が明らかにされつつあるとともに、現代に生きる市民も当時の鎌倉の都市空間がどのようなものだったのかイメージを膨らますことができるようになってきました。
鎌倉市は埋蔵文化財の存在が確認できている地域を「周知の埋蔵文化財包蔵地」と呼び、その保全に努めています。
「包蔵地」は市域の60%以上にのぼっています。
鎌倉の遺跡の発掘調査が本格的にはじまったのは、昭和40年代後半以降のことです。
主な対象は「やぐら」でした。40年代前半には、多宝寺や銭洗弁財天宇賀福神社などのやぐらが調査されました。
昭和40年代後半から50年代には、東勝寺跡、極楽寺や鶴岡八幡宮の境内、永福寺跡などの発掘調査が行われ、たとえば昭和48年(1973年)度から発掘が本格的に行われた永福寺跡からは本堂(二階堂)・薬師堂・阿弥陀堂を備えた寺院跡が姿を現し、昭和49年(1974年)度実施の東勝寺跡からは北條氏の家紋(北條三鱗)入りの瓦などが発見されました。
市街地での発掘調査は、昭和50年(1975年)の鎌倉郵便局の改築にともなう調査がかわきりとなりました。
昭和56年(1981年)には鎌倉駅西側、今小路付近の調査が行われ、すでに触れたように、御成小学校の構内から古代の鎌倉郡衙の跡などがみつかりました。
また、昭和61年(1986年)には、鎌倉幕府2代執権北條義時の弟で、執権政治の基礎をかためた北條時房ら一門の屋敷の一部の発掘調査が実施されました。
山城や城郭の調査も行われてきました。
たとえば昭和53年(1978年)ごろには玉縄城の本丸城内が、また平成12年(2000年)には鎌倉をとりまく山稜部の全域で史跡の分布と確認調査が実施され、要害遺構も数多く確認されました。
「鎌倉の埋蔵文化財13 平成20年度大町釈迦堂口遺跡発掘調査の概要(鎌倉市教育委員会)」によると、古くから初代執権北條時政の屋敷跡ではないかといわれてきた谷戸内で、平成20年7月末から12月初旬にかけて鎌倉市教育委員会による発掘調査(調査面積およそ300㎡)が実施されました。
調査の結果、建物跡をはじめ石垣や玉石敷といった13世紀後半から15世紀にかけての遺構群が検出されました。ここで特筆するべきなのはこれらに加えて火葬跡が発見されたことです。さらに調査地をとり囲む背後の山稜にはやぐら群が展開しており、火葬跡とともにこの谷戸が宗教色の強い場所であることを示しています。塔頭のような小規模な寺院があったのか、北條時政の屋敷跡であるかははっきりしませんでした。

法華堂跡(源頼朝墓・北條義時墓)

平成17年(2005年)、源頼朝墓の東側の山の中腹から、鎌倉幕府2代執権北條義時の墓所とされる礎石建物跡が新たに発掘されました。
『吾妻鏡』の「前奥州禅門(北條義時)葬送す。故右大将家(源頼朝)法華堂の東の山上をもって墳墓となす」という記述と一致する地点の建物跡であることから、北條義時の法華堂であった可能性が極めて高いと判断されました。発掘された建物は、基壇・縁の礎石の一部などから、一辺が8.4mの正方形の三間堂であると推測されています。出土遺物のかわらけや青磁碗などから、建物は13世紀末~14世紀初頭に廃絶されたと思われます。
北條義時北條政子の弟です。後鳥羽上皇が鎌倉幕府の打倒のために兵を挙げた承久の乱を鎮圧し、鎌倉幕府の基礎をかためました。


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北條高時邸跡

鎌倉幕府14代執権北條高時の屋敷跡です。平成16年(2004年)、鶴岡八幡宮の東南、宝戒寺境内の南東奥から発掘されました。宝戒寺の土地には、2代執権北條義時が小町邸をつくって以来、北條氏得宗の執権代々の屋敷がありました。この発掘で、幅4m以上と推測される溝などが発見されました。


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若宮大路周辺遺跡群

若宮大路を中心に南北およそ1km、東西およそ500mの範囲の遺跡です。小町大路沿いの妙隆寺付近からは武家屋敷跡と思われる跡が発掘されました。
直径60cmほどの柱穴跡から、大規模な建物が建っていたことが想像されます。中国製磁器・国産陶器・漆器も出土しています。
鎌倉時代には都市の心臓部としてにぎわった地区であったと思われる場所であり、有力な御家人の屋敷跡の可能性もあります。


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今小路西遺跡

今小路の西側、南北およそ1km、東西およそ300mの地域から発掘された中世の武家屋敷などと思われる遺跡です。
多数の中国製磁器や木製くぐつ人形の「カシラ」などが出土しました。また、調査区最下面からは、奈良時代・平安時代の遺構も見つかりました。隣接する御成小学校敷地からも、同時代の鎌倉郡衙跡(鎌倉郡の役所跡)が発見されていることから、その関連施設の遺跡ではないかと推測されています。
また近年実施された調査では、有力御家人安達泰盛の屋敷跡可能性をもつ大規模な建築遺構群が検出されました。さらに同遺跡からは屋敷の警護にあたる家人の当番を記した木簡が土坑から発見されました。この木簡に記された内容は、当時の武家の主人と家来の関係を探る上で大変貴重な資料です。


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長谷小路周辺遺跡

下馬から長谷寺門前にいたる長谷小路周辺の遺跡です。そのうち、調査されたのは、江ノ電和田塚駅付近で、方形竪穴建築址という半地下式の建物跡などが発見されました。
馬や牛など解体痕のある獣の骨・サイコロや装飾品など骨製品・釘などの金属製品も出土し、この地域がものづくりの場であったことが推測されます。


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