鎌倉郡内の地名を紹介いたします。地図上の地名をクリックしてください。
平成23年(2011年)5月11日 いざ鎌倉プロジェクト代表 鎌倉智士(かまくらさとし)作成
平成25年(2013年)7月30日 更新
平成26年(2014年)1月25日 更新
平成27年(2015年)1月01日 更新
icon
世野
上世野
下世野
多摩郡
深見
阿久和
上阿久和
下阿久和
二橋
宮沢
上飯田
飯田
下飯田
四谷
鍋屋
下和泉
今田
元木
和田
上和田
下和田
大島
新橋
高座
上和泉
和泉
俣野
二俣川
都筑郡
岡津
秋庭
那瀬
後山田
前山田
品濃
上品濃
下品濃
平戸
渡戸
芹谷
有花寺
鍋谷
田向
中里
半在家
島越
六反田
樫尾
下樫尾
下根
八木
上樫尾
矢部
藤井
篠塚
日森谷
領家
西田
神明谷
五軒
上矢部
鳥谷
下矢部
中田
葛野
大丸
矢澤
吉田
富塚
帷子
餅井坂
大岡
永谷
上永谷
下永谷
日限
西洗
日野
野庭
下野庭
上野庭
前岡
倉田
上倉田
下倉田
花立
南谷
脇谷
長沼
打越谷
久保
和田
白土谷
下郷
長久保
金井
長尾
田立
㹨川
笠間
滝久保
大道
五反田
飯島
柄沢
大塚
大谷
大鋸西
大鋸
河原
尺度
藤沢
車田
領家
長塚
藤原
八部
藤谷
土甘
弥勒寺
川名
片岡
河内
手広
大庭
高座郡
村岡
深沢
洲崎
山碕
玉輪
関谷
倉骨
大面
坪入
田谷
芝後
堤谷
小雀
庵野原
四塚
立石
善行寺
羽鳥
引地
稲荷
深谷
汲沢
影取
大塚
中原
山谷新田
城廻
植木
渡内
峰下
相模陣
高谷
小塚
町屋
大慶寺
狐坂
離山
戸部
岡本
岩瀬
粟船
今泉
福泉
小坂
梶原
巨福呂
雪下
小林
大蔵
荏草
二階堂
亀谷
扇谷
由比
和賀
新居
鎌倉
小町
大町
朝比奈
六浦
小坪
沼浜
堀内
鐙摺
端山
埼立
方瀬
鵠沼
八的
江島
腰越
田辺
星月
坂下
住吉
笛田
常盤
葛原
佐介
笹目
甘縄
長谷
市場
紅花
亀井
浄明寺
犬懸
詫間
青砥
明石
十二所
十二
長倉
上野
梅沢
中野
公田
和日
鍛冶谷
小菅谷
山内
久良郡
金沢
釜利谷
久野谷
名越
豆師
飯嶋
披露
大崎
田越
長柄
芳久保
松久保
山神
大山
向原
真名瀬
一色
桜山
山野根
沼間
中里
馬渡
八坂
柏原
池子
御浦谷部
御浦郡



     

郷名

世野郷(せや)
瀬谷とも書きます。世野邑・二橋邑・宮沢邑などからなり、鎌倉郡の最北に位置します。永禄年間(1558〜1570年)に北條氏政の家臣松波内蔵が所領としました。天正18年(1590年)に徳川氏の所領となってからは彦坂小刑部の所領として検地した記録が残っています。伊勢盛時の家臣山田経光(山田伊賀入道)が郷主のころ妙光寺と万年寺の梵鐘にまつわる伝承が残っています。

阿久和郷(あくわ)
鎌倉郡の岡津・宮沢・二ツ橋・和泉・中田や武蔵国の下川井・二俣川などの邑邑に囲まれ、現在の阿久和を中心に横浜市瀬谷区三ツ境および泉区新橋と一部弥生台にまたがる地域をさします。天正18年(1590年)に徳川氏の所領となり旗下安藤治右衛門領となりました。安藤氏は三河国の出身ですが、安藤治右衛門は阿久和安藤氏の祖となりました。

大島郷(おおしま)
鎌倉期にみえる郷名です。大島郷は現在の横浜市泉区岡津町・新橋町(旧戸塚区北部)を中心とした一帯で、岡津郷や阿久和郷なども含めた地域と推定されます。『和名類聚抄』に鎌倉七郷の1つにあげられているのが史料上の初見です。『日本地理志料』では「於保之万」と訓んでいます。『風土記稿』では江島を比定地としてあげていますが、『日本地理志料』は戸塚大島をあてています。『大同類聚方』に「大島薬」の処方を鎌倉郡大島郷(大島里)人が伝えたという記載があります。

和泉郷(いづみ)
泉とも書きます。現在の横浜市泉区和泉町を中心とした地域です。西部を和泉川が南流しています。地名はこの地の池の水が美酒にかわったという伝説にちなむとされています(『横浜の町名』)。建保元年(1213年)に源頼家の遺児を奉じて北條氏打倒をはかった泉親衛(泉小次郎)の館(中和田城)があったとの伝承が残っており、現在の中和田小学校付近とされています。戦国期の和泉郷は笠原領でした(『所領役帳』)。

飯田郷(いいだ)
鎌倉道(上ノ道)が通り、西は境川をはさんで高座郡と接しています。『吾妻鏡』によれば治承4年(1180年)の石橋山合戦に飯田郷の飯田家義源頼朝に味方し、富士川合戦で恩賞を受けています。弘安8年(1285年)の「鎌倉法華堂領飯田郷」が初見。戦国期には平山氏が所領とし(『所領役帳』)、このころに上飯田と下飯田に分かれたとされています。

和田郷(わだ)
『将軍足利尊氏充行下文』に「相模国和田・深見両郷」と見えます。『倭名類聚鈔』に高座郡十二郷の1つに含まれる深見郷と隣接する地域で、その南部に鎌倉郡和田郷がありました。下和田の城山・災難畑・生養山薬王院など和田義盛の伝承がいくつも残されています。『新編相模国風土記稿』などには小字に久田(公田)・宮久保・矢ノ下・上和田中村・上村・下和田中村・下村・山谷などがあります。

岡津郷(おかつ)
中央を阿久和川が流れ大山道が通る現在の横浜市泉区岡津町を中心とした地域です。文永7年(1270年)『関東下知状(相承院文書)』の「岡津郷」で鶴岡八幡宮供僧と岡津郷地頭甲斐為成(甲斐三郎左衛門尉)との間で相論があった記録が初見です。戦国期は太田氏領でした(『所領役帳』)。

品濃郷(しなの)
信濃・志奈野・品野などとも書きます。現在の横浜市戸塚区品濃町を中心とした地域です。山内庄内にあって永谷郷や秋葉郷に属し鎌倉郡山内庄の北限で武蔵国との境でした。『足利直義寄進状』建武元年(1334年)8月29日條に「山内庄秋葉郷信濃村を建長寺正続院に寄進」と記録が初見です。品濃郷は戦国期には江戸衆太田一族領でした(『所領役帳』)。北の保土谷との境には武蔵国・相模国境を示す境杭がありました(『東海道品濃坂地引絵図』)。

秋庭郷(あきば)
秋葉とも書きます。秋庭郷は秋庭邑・那瀬邑などでなり、山田邑や品濃邑などにも広がりをみせていました。かつては山内庄に属し那瀬邑とあわせて成瀬邑と称していましたが、荘園支配が終わってからは小坂郡に属しました。鎌倉期の秋庭郷には矢部為行の弟矢部義光が所領としていました。

樫尾郷(かしお)
柏尾とも書きます。現在の横浜市戸塚区のやや東部に位置し、北端を柏尾川が流れる一帯です。『新編相模国風土記』に「村名、古 樫尾と記せしにや」の記述が残っています。鎌倉期には樫尾郷の地頭として樫尾景方(樫尾三郎)の名が残っています。

吉田郷(よしだ)
鎌倉期から戦国期にみえる郷名です。現在の横浜市戸塚区吉田町を中心とする地域です。かつては吉田荘として高座郡を中心に勢力をもっていた渋谷氏が領していました。嘉元4年(1306年)北條貞時が「山内庄吉田郷内田壱町在家壱宇」を円覚寺に寄進したとあるのが初見です。この後も数度吉田郷内の土地が円覚寺に寄進されたほか、南北朝期には足利尊氏が吉田郷を鶴岡八幡宮に寄進した記録があります。戦国期には北條氏の足軽衆である富島氏が倉田郷とともに知行していました。近世は幕府領として戸塚宿三ヶ町の1つに数えられました。

矢部郷(やべ)
矢部郷は現在の横浜市戸塚区の中心部にあたる矢部町・上矢部町周辺に比定され、古くは鎌倉郡山内荘に属しました。矢部郷の地頭として矢部為行(谷部太郎)の名が残っています。正保年間(1645〜1648年)に上矢部と下矢部の二村に分割され(『風土記稿』)、下矢部は「下」が除かれ矢部町となりました。上矢部は慶長年間に石川四郎左衛門領、下矢部は延宝4年(1676年)に成瀬五左衛門領として検地の記録が残っています。江戸期には戸塚宿と吉田町をあわせて戸塚宿三ヶ町の1つに数えられました。

永谷郷(ながや)
戦国期よりみられる郷名です。永谷上(上永谷)・永谷下(下永谷)・中永谷・上柏尾・下柏尾・平戸・品濃・前山田・後山田・秋葉・名瀬・阿久和・上野庭など十二ヶ村を数えると記されています(『風土記稿』『所領役帳』)。地名は柏尾川の支流馬洗川(現在の平戸永谷川)沿いに延びた谷戸をナガヤ(長い谷)と呼称したことにちなみ、縄文期の遺跡も多く発見されている地域です。戦国期は宅間氏領で、江戸期は旗本峰屋氏・鈴木氏・彦坂氏の所領と伝わります(『所領役帳』)。

前岡郷(まいおか)
鎌倉期から戦国期にみえる郷名です。舞岡とも書きます。鎌倉期の前岡郷(舞岡郷)には地頭として舞岡兵衛が領していました。延慶2年(1309年)南條時光譲状に「山内庄まいおかのかう」とあるのが史料上の初見で、山内荘内の郷であったことがうかがえます。戦国期には東慶寺領で、天正2年(1574年)には北條氏による検地が行われ田畠216貫753文が記録されています。正保年間(1645〜1648年)に前岡から舞岡に改称されたといわれています(『風土記稿』)。

野庭郷(のば)
鎌倉郡野庭郷は上野庭邑・下野庭邑など野庭一帯の地域をさします。古くは山内荘永谷郷に属しました。明治22年(1889年)4月1日に野庭村は永谷村と平戸村の飛地と合併し、永野村がなりたちました(永谷の「永」と野庭の「野」)。昭和11年(1936年)10月1日には鎌倉郡から横浜市に、ついで中区・南区と編入され昭和44年(1969年)10月1日に港南区に編入されました。

富塚郷(とづか)
戸塚とも書きます。建久2年(1191年)に源頼朝が「相模国村岡郷内并富塚内ノ田畠屋敷」七町五反を鶴岡香象院に寄進した記録が史料上の初見で、『供僧次第』にも富塚地域には鶴岡八幡宮領が散見されます。円覚寺の塔頭雲頂庵領も所在していました。暦応3年(1340年)足利義詮寄進状写に「山内荘富塚郷内」と記され、富塚郷が山内荘の一部であったことがうかがえます。戦国期には北條家臣山角正定(山角刑部左衛門)が知行していました(『所領役帳』)。

倉田郷(くらた)
鎌倉期から戦国期にみえる郷名です。蔵田とも書きます。仁治元年(1240年)『北條泰時下文写』に北條泰時が「山内庄倉田郷」を證菩提寺阿弥陀堂に寄進したものの供米の納入がなく代替として山内庄岩瀬郷を新阿弥陀堂に寄進したと記されています。北條氏の支配下であった戦国期には伊豆衆の吉原氏や足軽衆の富島氏らのほか円覚寺塔頭の済蔭軒が倉田郷の一部を所領としていました(『所領役帳』)。

長沼郷(ながぬま)
柏尾川沿いの長い湿地帯から地名がつきました。鎌倉期の長沼郷の地頭として長沼宗政(長沼五郎)の名が残っています。永禄2年(1559年)の『所領役帳』に安田大蔵丞が「東郡長沼郷」を知行した記載が初見です。天正18年(1590年)7月17日『鶴岡八幡宮領指出(後藤家文書・埼玉県史)』に「拾九貫文 長沼郷之内 但毎月三ヶ度小御供領」と長沼郷の一部が鶴岡八幡宮領であった記載があります。

俣野郷(またの)
鎌倉郡俣野郷は現在の藤沢市西俣野から横浜市戸塚区俣野町・東俣野町にまでおよぶ地域で、大庭御厨の一部となり高座郡に属すようになりました。平安時代末期の治承・寿永の乱において鎌倉党の俣野景久は平氏側につき石橋山合戦など各地で転戦し最後は信濃国飯山で戦死。俣野氏の没落で鎌倉期以降は荒廃し村岡郷に属しました。正中2年(1325年)俣野領内の極楽寺(廃寺)跡地に清浄光寺(遊行寺)を俣野景平が再興(開基)したと記録に残っています。

金井郷(かない)
鎌倉期には長尾郷金井邑に鎌倉党の金井氏が領しており(『平群系図』)、金井氏の居館が金井堀内にありました(『永正六年寺領注文』)。応永26年(1419年)ころ沢辺氏が雲頂庵領への年貢納入を請け負うことについて長尾景仲へとりなしを依頼した金井氏の記録があります。天正18年(1590年)に徳川氏の所領となり、寛文11年(1671年)10月には徳川氏旗本佐橋佳武(佐橋治部左衛門)が所領したことが記録されています。

長尾郷(ながお)
長尾郷台邑(栄区長尾台町)を中心とする一帯で、戦国時代に越後国を領した上杉謙信を排出した鎌倉五平氏である長尾氏の発祥地です。長尾氏塁蹟として伝えられてきた長尾台遺跡の発掘調査で五輪塔や板碑などの中世遺物が発掘され裏づけされました。『相承院文書』正安3年(1301年)に長尾郷の地頭として加世長親(加世孫太郎)の名がに残っています。天正18年(1590年)に徳川氏の所領となり、天正19年(1591年)5月に徳川氏旗本富士市十郎が所領したことが記録されています。

玉輪郷(たまなわ)
玉縄とも書きます。天養2年(1145年)2月3日の官宣旨案に大庭の四至として「東玉縄御庄堺俣野川」とあり、平安期には玉輪荘が俣野川を境として大庭御厨と接していたことが確認できます。荘域は現在の大船・玉縄付近を中心とした地域と推定されています。永正9年(1512年)に伊勢盛時が三浦氏攻略のために堅固さを誇る玉縄城を築城したことで東相模最大の拠点となりました。

岡本郷(おかもと)
古くから村岡郷岡本邑として記録が残っています。岡本郷は岡本を中心とする地域で、村岡郷の衰退や玉輪荘が廃されたことによって勢力を広げ、江戸期には玉縄・植木・城廻・関谷・長尾・東俣野などをも含む一帯にまで広がりました。奈良・平安期の横穴古墳がみられる地域で、地名の由来は「高台の裾(岡の本)」に位置することと伝えられています。

村岡郷(むらおか)
武蔵国熊谷村岡の村岡良文(平良文)が居城(村岡城)を築城したことが地名の由来です。建久2年(1191年)11月22日源頼朝寄進状写に「相模国村岡郷内」とあるのが初見です。鎌倉市北部・藤沢市東部・原宿・深谷・汲沢・高谷・小塚・村岡宮前・弥勒寺・東俣野・柄沢・城廻・関谷・植木・岡本・渡内・山谷新田を「村岡十五ヶ村」とする広大な地域でした。元弘3年(1333年)5月の新田義貞の鎌倉攻めで「飽間宗長(飽間孫三郎)、於相州村岡、十八日(5月18日)討死」と記された重文の板碑があり、村岡で合戦が行われたことがうかがえます。

尺度郷(さかと)
奈良期・平安期の郷名です。酒土・坂戸などとも書きます。『風土記稿』では「佐加土」と訓み現在の藤沢市坂戸町を遺名としています。『正倉院文書』天平7年(735年)「相模国封戸租交易帳」に「尺度郷五十戸」とあるのが郷名の初見です。ほかの諸郷にくらべて田数も多く開発が進んだ地であったことが推定されます。『和名類聚抄』では鎌倉七郷の1つにあげられます。『日本地理志料』『大日本地名辞書』は「佐賀登」と訓み、現在の山内・小坂・戸塚南東部(柏尾川流域)とする説を記しています。

藤沢郷(ふじさわ)
南北朝期からみられる地名で、鎌倉時代に藤沢清親が奉行していた記載があります。正中2年(1325年)に呑海が大鋸西(現在の西富)にあった遊行道場を現在の地に移転し、清浄光寺(遊行寺)が創建されてから門前町として発展しました。藤沢御殿は慶長5年(1600年)に徳川家康が宿泊したほか、将軍上洛の際の宿所として利用されました。江戸期には大久保・坂戸・大鋸からなる藤沢宿が東海道の伝馬宿として発展し、江島詣・大山詣の中継地点として大いににぎわいました。

土甘郷(とがみ)
砥上・石上とも書きます。奈良時代に烏森皇大神宮を中心に形成された郷名で、湘南砂丘地帯と称される海岸平野をさします。天平7年(735年)「相模国封戸租交易帳」に「土甘郷」とあるのが郷名の初見です。境川の渡し場として発展し、延喜5年(905年)には鵠沼邑・辻堂邑・大鋸邑・西邑なども含まれる広域となりました。弘安8年(1285年)の記録には「石上郷、鎌倉の法華堂領となる」とあります。現在の鵠沼石上1丁目にある砥上公園が遺名です。鎌倉時代よりいくつかの和歌で「砥上ヶ原」が詠まれてきました。

鵠沼郷(くげぬま)
平安時代末期からみられる郷名です。鵠沼の地名はかつて沼地だったころに鵠(白鳥)が多く飛来していたことにちなむとされています。奈良時代に烏森皇大神宮を中心とした土甘郷内に鵠沼邑が発祥し、平安時代末期には鎌倉景政によって拓かれました。伊勢神宮に寄進された荘園大庭御厨の一部となり、鵠沼郷と呼ばれるようになりました。時代によって鎌倉郡と高座郡のいずれかに含まれる境界地帯です。

方瀬郷(かたせ)
方瀬郷は奈良期にはみえる郷名です。片瀬・固瀬・堅瀬・肩瀬などとも書きます。天平勝宝元年(749年)に納められた布の墨書に「鎌倉郡方瀬郷戸主大伴首麻呂布一反」と記載されているのが初見です。嘉禎元年(1235年)以降の四角四鏡祭で西境として固瀬河の地が記されており、中世都市鎌倉の西の入口でした。しばしば刑場としても使用されていました。
 

山碕郷(やまざき)
室町期にみえる郷名で、現在の山崎周辺の地域と推定されます。山城国山崎(京都府大山崎町)の宝積寺を模してこの地にも宝積寺を創建したことから山崎という地名がつけられたと伝えられています。もとは洲崎郷内にありました。享徳6年(1457年)足利成氏證判黄梅院領知行注文で、円覚寺塔頭の黄梅院領当知行の1つとして「相州山内庄山碕郷」と郷名がみられます。

洲崎郷(すさき)
南北朝期からみられる郷名で、須崎・瀬崎などとも書き「すざき」とも訓まれます。現在の町屋・寺分を中心に山崎・梶原・常盤などにおよぶ広域をさし『所領役帳』に「須崎あたみ(山崎)」「須崎梶原」など残ります。元弘3年(1333年)5月の新田軍と北條軍とが激戦した古戦場として名高く、富士塚小学校入口付近(上陣出)に「洲崎古戦場碑」があります。深沢荘に含まれ『郡村誌』に「深沢庄洲崎ノ郷内」「北深沢ノ荘洲崎郡」など記録が残り、深沢荘が廃されて以後は深沢郷内の一村となり永禄10年(1567年)円覚寺帰源院所蔵の釈迦如来像胎内札銘に「相州小坂郡深沢郷須崎村霊松山大慶禅寺」と記録が残ります。

深沢郷(ふかさわ)
鎌倉期から戦国期にみられる郷名です。現在の深沢地域を中心とした一帯です。古くは深沢荘として現在の台・山崎・寺分(洲崎)・梶原・常盤・長谷・笛田・津などの地域に広がる広大な荘園でした。『鏡』養和元年(1181年)9月16日條の「不被入鎌倉中、直経深沢、可向腰越(源頼朝足利俊綱の首を持参した桐生綱元(桐生六郎)に対して鎌倉入りを拒み深沢を経由して腰越に向かうよう指示した)」が地名の初見です。深沢郷は鎌倉期には南北に分けられ、嘉暦3年(1328年)8月12日関東下知状に「相模国北深沢郷」・元久2年(1205年)2月22日関東下知状に「相模国南深沢郷」とみえます。

梶原郷(かじわら)
平安期にみえる郷名で、もとは小松郷に属していました(『風土記稿』)。梶原郷は『和名類聚抄』で鎌倉七郷の1つにあげられているのが初見で、『日本地名志料』は「加知波良」と訓んでいます。梶原景通が領して以降(梶原景時の変が起こるまで)は梶原谷を中心に笛田・手広・寺分・常盤・山崎などの一帯にまで広がりました。戦国期には洲崎郷に属し『所領役帳』に太田豊後守が「東郡須崎梶原」を知行したと記録されています。

手広郷(てびろ)
田広とも書きます。中世は津郷に属していました(『風土記稿』)。鎮守の熊野神社や青蓮寺・宝積院などを中心とした一帯で、「手を広げたような地形」が地名の由来とされています。天正19年(1591年)「徳川家康寺領寄進状案」で「東郡手広之内二十五石」を青蓮寺に与えている記載が初見で、「手広村」「手広郷」「深沢之庄手広村」などの記録が残っています。藤沢宿の助郷伝馬役をつとめたほか、鷹捉飼場があったとされています。

津郷(つ)
初見は『鏡』建仁2年(1202年)2月20・21日條の「相模国積良」です(『鎌倉志』)。津・腰越のほぼ中央を流れる神戸川が中世期に水量豊富で舟船が往来し、物資の運搬などに便宜をあたえた湊津があったことに由来しており、津郷は鎌倉西方の軍事および水陸交通の重要地帯でした。『社務職次第』は津郷(津村郷)を鎌倉郡谷七郷の1つにあげています。三浦和田氏和田重茂の一族が鎌倉時代に領していました。

埼立郷(はしたて)
『鎌倉志』に長谷邑と隣接する橋立邑が遺名と記されています。埼立郷は長谷・坂下・極楽寺にわたる地域と推定されます。また片瀬・腰越のほか常盤・寺分・町屋・山崎・台・小袋谷・大船なども含まれるとする説もあります。『和名類聚抄』に鎌倉七郷の1つとしてあげられているのが初見ながら、「今郡中に其遺名とおぼしき所だになし」とされています。『日本地理志料』では「波之多天」と訓がつけられ、「はのたて」「さきだて」と訓む場合もあります。

星月郷(ほしつき)
星月夜とも書きます。坂ノ下の虚空蔵堂前にある星ノ井を中心とした極楽寺を含む地域の郷名です。「堀河院後度百首」「北国紀行」などに地名や枕詞として記されています。井戸の前を通る極楽寺切通は鎌倉・江島間の往来に多く使われ、星ノ井は通行の人人にとって貴重な清水でした。木田重朝が暦仁元年(1238年)11月23日に「相模国鎌倉星月之里中村」の鎌倉三熊野権現を勧請し関ヶ原に八幡神社を鎮座したとの記録があります。
 

長谷郷(はせ)
長谷の地名は天平8年(736年)に長谷寺が建立されたことにちなむとされています。梵鐘の文永元年(1264年)銘に「新長谷寺」とあることから大和国長谷寺に対して新たに建立された「長谷観音信仰」東国における一拠点だったことがうかがえます。地名としては元弘3年(1333年)12月29日足利尊氏充行状の押紙に「相模国山内庄長谷郷事」とみえるのが初見です(『大日本古文書』『上杉家文書』)。

甘縄郷(あまなわ)
和銅3年(710年)に染屋時忠が山頂に甘縄神明社・山麓に円徳寺を建立したことにはじまり、甘縄神明社を中心に形成された地域をさします。海士縄とも書きます。治承4年(1180年)12月20日に源頼朝が「安達盛長甘縄之家」に御行始として渡御したと記されているのが初見です。源頼朝をはじめ将軍家による甘縄神明社への参詣はたびたび催されており、甘縄の地をいかに重要視していたかがうかがわれます。甘縄郷には安達氏のほか千葉氏など多くの御家人が居住していました。

笹目郷(ささめ)
鎌倉七谷の1つ笹目谷を中心とした現在の笹目町地域です。佐々目・佐々目ヶ谷ともみえます。『鏡』寛元4年(1246年)閏4月2日條に第4代執権北條経時が「佐々目山麓」に葬られたと記されているのが初見です。大町の安養院は源頼朝の菩提を弔うために夫人北條政子が笹目谷に建立した長楽寺が前身と伝えられ、当時の笹目郷は笹目谷の西方の長楽寺ヶ谷をも含む範囲と考えられています。

由比郷(ゆい)
由比郷は鎌倉期にみえる郷名で、鎌倉郡の海岸一帯は由比浦・由比ガ浜・前浜などと呼ばれていました。由井・由伊・湯井などとも書きます。相互に援けあう漁業労働の組織「結」がみられた地域であったことのに由来します。『鏡』治承4年(1180年)10月12日條に「由比郷」が記されており、源頼義が由比に石清水八幡宮を勧請したことを伝えています。

鎌倉郷(かまくら)
鎌倉郷は奈良・平安期にみえる郷名です。『正倉院文書』天平7年(735年)「相模国封戸租交易帳」に鎌倉郡鎌倉郷とみえるのが文献史料上で郷名の初見です。御成小学校校庭から発掘された天平5年(733年)の年紀が記された木簡に「鎌倉郷長丸子氏」とも記されており、御成小学校付近が鎌倉郷であったことや鎌倉郡の郡衙があったことが推定されます。『和名類聚抄』に鎌倉七郷の1つにあげられ、「加万久良」と訓まれています。鎌倉郡鎌倉郷鎌倉村は鎌倉大町・鎌倉小町に別れ、鎌倉時代における最大の商工業地域でした。
 

山内本郷(やまのうち)
山内本郷は平安時代に立荘された山内荘を中心とした広大で肥沃な一大穀倉地帯です。中心地域は「本郷」の公田周辺で、鎌倉時代に「小菅谷」へ遷移したとみられ、軍事・経済的にも重要な拠点でした。源義家の家人首藤資通の孫山内俊通が地名「山内」を姓にし山内荘を本領としていましたが、鎌倉時代には北條氏領となり、山内荘内に常楽寺・建長寺・円覚寺・浄智寺・東慶寺など各禅院が建立されたことで中心は小坂郷に遷移し、小坂郷に山内の地名がつくとともに山内荘は小坂郡と呼ばれるようになっていきました。

梅沢郷(うめざわ)
もとは山内荘梅沢郷で、上野村にある浄土宗の光明寺を中心とした地域です。光明寺は小菅谷から移転した寺で山号を梅沢山といい、香りよく花の雨が降る山で、花のかたちが梅に似ていることから梅沢山と号され、梅沢の里といわれるようになったといわれています。初見は『証菩提寺文書』建武2年(1335年)條に「梅沢」とあるほか、『光明寺領検地帳』慶安2年(1649年)條に「梅沢小谷」、『風土記稿』に上之村の小名として「梅沢」がみえます。

岩瀬郷(いわせ)
「ユワセ」とも訓まれます。砂押川流域をはさんで低い丘陵に囲まれた谷間の地域です。『北條泰時下文写(証菩提寺文書)』仁治元年(1240年)3月7日條の「山内新阿弥陀堂料所岩瀬郷」が初見です。『証菩提寺文書』正和2年(1313年)に岩瀬郷を矢田盛忠が領していたことが記録されています。『風土記稿』には源頼朝が奥州で捕えた岩瀬与一太郎が居住したと伝えるほか、正平7年(1351年)正月10日に足利尊氏が勲功の賞として島津忠兼に岩瀬郷を与えたなどの記録が残っています。

粟船郷(あわふね)
鎌倉期から戦国期を通じてみえる郷名です。青船とも書きます。『鏡』寛元元年(1243年)6月15日條で「山内粟船御堂」で北條泰時一周忌が行われた記載が粟船の初見です。文安3年(1446年)11月條に「粟船郷」の記載もみられます。正保元年(1644年)「正保国絵図」に「大舟村」とみえ、大舟(大船)と改称されたことが確認できます。

小坂郷(おさか)
『社務職次第』では鎌倉郡谷七郷の1つにあげられ、「遠佐可」と訓まれています。小坂郡とも称され、山内荘を中心とした鎌倉郡の大部分の広域に広がりました。南は小坪郷に「小坂郷小坪」・北は倉田郷に「小坂郡倉田」などと記録が残り、『風土記稿』に二十八ヶ村が相当されると記されているほどの広域におよんでいます。小坂郷としての中心は山内と推定され、小坂小学校や小坂郵便局など地名として遺っています。

巨福呂郷(こぶくろ)
巨福呂坂から建長寺門前・山内・市場・岱までの地域をさします。巨福礼・小福礼・巨福路・小袋などとも書き、中世山内荘の一部です。『鏡』仁治2年(1241年)條で北條泰時が山内の巨福礼の別居に渡御したという記載が初見です。建長寺の山号「巨福山」は巨福呂郷から名づけられています。弘安7年(1284年)に巨福呂の一部の小畠が円覚寺領となったことで円覚寺を境に西方を市場邑・東方を山内邑と分けたことで巨福呂谷(現在の小袋谷)の地名が飛び地で残ったとされています(『鎌倉志』)。

小林郷(こばやし)
小林郷は現在の雪ノ下付近を中心とする鶴岡八幡宮領地周辺地域で、鎌倉期にみえる郷名です。『鏡』治承4年(1180年)10月12日條に「点小林郷之北山、構宮廟、被奉遷鶴岡宮於此所」とあり、源頼義が由比郷に勧請した石清水八幡宮を源頼朝が小林郷に遷したと記されています。『社務職次第』は小林郷を鎌倉郡谷七郷の1つにあげています。

大蔵郷(おおくら)
大蔵郷は鶴岡八幡宮から東は朝比奈切通まで、南は滑川、北は大蔵山の山麓瑞泉寺までを境とする広域的な地域をさします。源頼朝が大蔵(清泉女学院小学校付近を中心とする区域)に幕府を置いたことで鎌倉郡の郡衙ともなり、北條政子北條義時北條時房をはじめ金沢実時足利義氏比企宗員二階堂行政など有力御家人の館も多く置かれ、中世鎌倉の政治的中心地でした。

荏草郷(えがや)
荏草郷は荏柄天神社を中心とする地域です。奈良・平安期にみえる郷名です。『正倉院文書』天平7年(735年)の相模国封戸租交易帳に「荏草郷」とみえるのが初見です。『和名類聚抄』は鎌倉七郷の1つにあげ「エカラ」と訓んでいます。『日本地理志料』では「衣加夜」と訓んでいます。『風土記稿』では「エガヤ」がのちに転じて「エガラ」となったとしています。荏柄天神社の初見は『鏡』建仁2年(1202年)9月11日條の「荏柄社祭」と記され源頼家が奉弊使として大江広元を派遣したとの記載です。

二階堂郷(にかいどう)
文治5年(1189年)8月に源頼朝が奥州凱旋ののち中尊寺大長寿院の二階堂を模して永福寺を建立したことに由来し二階堂という地名となりました。『鏡』元仁元年(1224年)正月4日條に北條政子が方違のため二階堂行政の子二階堂行村の「二階堂の家」に赴こうとしたことが記されています。天正18年(1590年)4月「豊臣秀吉禁制」の宛所に「鎌倉二階堂郷中」と郷名がみえます。はじめ荏草郷以北に位置していましたが、荏柄天神社・杉本寺などを含む広域に広がりました。

十二郷(じゅうに)
十二郷は十二所を中心とする地域で、鎌倉時代には大蔵郷に含まれていました(大蔵郷十二所邑)。『鎌倉志』に「十二郷ヶ谷」と郷名がみえます。十二所の地名は光触寺境内にあった熊野十二所権現社(現在の十二所神社)に由来しています。熊野十二所権現社は「大蔵の熊野堂」と称された大堂(『攬勝考』)で、鎌倉における熊野信仰の拠点の1つでした。
 

小坪郷(こつぼ)
小壺・小壷・小窪とも書きます。鷺浦は小坪浜ともいわれています。『平家物語』『源平盛衰記』の治承4年(1180年)8月「小壷坂合戦事」が初見。『吾妻鏡』寿永元年(1182年)條に源頼朝が寵愛した愛妾亀前中原光家の屋敷にかくまわれていた記録があります。『吾妻鏡』元仁元年(1224年)條に、鎌倉の南境として陰陽道における除災の儀式「四角四境鬼気祭」が行われたと記されています。永正年間(1504〜1521年)に三浦義同が三浦半島を統一すると小坪郷は三浦郡に属しました。

豆師郷(づし)
治須・逗子・豆子・厨子・辻子とも書きます。初見は元弘3年(1333年)ころの比志文書「足利尊氏・足利直義所領目録」の「相模国治須郷 泰家跡」とされ、天正18年(1590年)3月7日「北條家朱印状写」の「豆師」など様様な文献で記載が確認されます。古東海道沿いで鎌倉から三浦へ通じる岐路にある歴史上重要な地であり、北條氏や三浦氏が代代祈願所とした「づしでら」と称された延命寺や鎮守である亀岡八幡宮などがあります。

久野谷郷(くのや)
久根谷とも書きます。古くは岩殿・岩戸・岩田ともいわれていました(風土記稿・村明細書)。郷内には猿江や柏原などの邑名が記録に残っています。坂東一番礼所の杉本寺から観音巡礼道を越えて二番礼所の岩殿寺に多くの参拝者が訪れました。久野谷の西端を鎌倉から横須賀へ通じる「浦賀道」が貫通しています。『吾妻鏡』建保元年(1213年)條の和田義盛代官として「久野谷弥次郎」の名が記されているのが初見。明治7年(1874年)に久野谷の「久」と柏原村の「木」偏とをとり久木村ができました。

池子郷(いけご)
現在の逗子市池子を中心とする地域。田越川支流の池子川途上の「大池」にちなみます。「子」は北のことで、大池の北という意味ともいわれています。もとは鎌倉郡で、南北朝期に三浦郡となりました。『所領役帳』永禄2年(1559年)條で「太平寺殿 拾貫文 三浦池子」が初見です。『桂林集』天正3年(1575年)條に「相州三浦郡池子里にしるよしして行けるに」と見えます。

沼浜郷(ぬはま)
現在の逗子市沼間を中心とする地域。奈良期から平安期にみえる郷名です。天平勝宝元年(749年)調庸として進納された布の墨書に記載されているのが初見。『和名類聚抄』の鎌倉七郷の1つで「奴末波万(ぬまはま)」と訓まれています(日本地理志料)。『吾妻鏡』建仁2年(1202年)2月29日條に、源義朝の「沼浜御旧宅」が壊されたという記載があります。戦国期には沼間郷と呼称され、北條家臣西脇外記が一部を知行していました(『所領役帳』)。

端山郷(はやま)
葉山とも書きます。文和2年(1353年)に平氏の一族が「相模国葉山郷内おり田大」を総鎮守森戸大明神に寄進したという記録が初見です。『社務職次第』には鎌倉郡谷七郷の1つにあげられています。

六浦郷(むつら)
六連・六面とも書きます。「金沢文庫古文書」の文和2年(1353年)11月2日「村上貞頼書状写」によれば製塩が古くから行われていたことがうかがえます。『吾妻鏡』元仁元年(1224年)6月6日條で七瀬祓が「六連」で、元仁元年(1224年)12月26日條および嘉禎元年(1235年)12月20日條で四角四境祭が「六浦」で行われた記録があります。鎌倉の東の境として位置していましたが、宝治元年(1247年)には「武蔵国六浦庄」と見えます。六浦津という交易港や浦賀道・朝比奈切通などがあり、鎌倉時代の流通や戦略上の要地で、北條氏の一族金沢氏が所領としていました。

金沢郷(かねさわ)
畠山重忠の所領でしたが、元久2年(1205年)に畠山重忠が謀殺されると北條義時の所領となり、北條泰時の弟北條実泰に与えて三浦氏や千葉氏を牽制させました。北條実泰の子北條実時の居館で営まれた持仏堂が後に称名寺となりました。北條実時から四代にわたり金沢氏を称し、金沢文庫を創設して学僧らと仏法の興隆や興学に尽力しました。

釜利谷郷(かまりや)
蒲里谷とも書きます。かつては富田郷と呼ばれ、金沢郷の西南に位置しています。嘉元3年(1305年)の瀬戸橋造営棟別銭注文案に「一貫三百十文 蒲里谷分」とあるのが初見です(金沢文庫文書)。朝比奈切通が開通される前は釜利谷を通る白山道が鎌倉と金沢とを結ぶ要衝の交通路でした。明治9年(1876年)に赤井・宿・坂本の3ヶ村を合併し釜利谷村ができ、昭和11年(1936年)より現在の町名となりました。

村名・小字

飯島(いいじま)
もとは鎌倉郡長沼郷(山内荘)飯島村。証菩提寺文書「新阿弥陀堂供僧以下料田坪付注文」建武2年(1335年)條に「山内荘内の飯嶋」とあるのが初見です。円覚寺塔頭の雲頂庵領の一部として近世には戸塚宿の助郷役を負う地でした(『雲頂庵文書』)。明治22年(1889年)に新たにつくられた村名の豊田村の大字となり、昭和14年(1939年)には現町名を称しました。
   

植木(うえき)
永正9年(1512年)10月に伊勢盛時が築城した玉縄城の防衛のために樹木を多く植えたことに由来するといわれています。植木の小名には相模陣・山居(平戸山)・柳小路・六反目・八反目・申ヶ久保・峯下前・玉ノ前・割土腐・植木上町などがあります。暗殺された源実朝の首級をもって逃亡した七騎の侍にちなむ「七騎ヶ谷(龍宝寺境内)」の伝承もあります。龍宝寺はもとは大応寺と称していた北條氏の菩提寺です。

打越(うちこし)
城廻の小字名です。城廻の東側一帯で、植木字植谷戸と関谷字下坪に接する地域をいいます(『風土記稿』など)。「打」は狭い谷や崖、「越」は麓などの意味で、台地や山を越えて反対側に出られるような場所などにある地名です。山崎の北部の台字戸ヶ崎に接する部分や大仏切通周辺にも地名として残るほか、辻堂や遠藤に「打越(おっこし)」「打越谷戸」などが散見されます。
 

㹨川(いたちがわ)
㹨河・鼬川・出立川とも書きます。㹨川は現在の横浜市栄区長倉町の横浜自然観察の森(八軒谷)や瀬上沢を水源とし、庄戸・上郷・中野・桂・小菅ケ谷・笠間と流れ柏尾川(戸部川)に注ぐ全長7.2kmの水流で、㹨川にかかる現在の新橋付近は鎌倉街道の戸塚道(中ノ道)と弘明寺道・保土谷道(下ノ道)とが合流していた交通の要衝でした。鎌倉公方が武蔵国に向かうときにこの川辺で休憩するのが例となり「出立川(いでたちかわ)」の別称を残しています。初見は『吾妻鏡』元仁元年(1224年)條で、七瀬祓が行われた霊所として記されています。

笠間(かさま)
古くは藤沢湾と鎌倉湾が深く遠くへと入り込み、大庭入江・藤沢入江・粟船入江があって鎌倉は大部分が水底しており、奥行10kmを超える大きな粟船入江のなかで笠間や田立などは島をなしていました。笠間は北に山王神社、東に法安寺、南に青木神社を中心とする島(丘)になった地域の小字です。藤和ライフタウン周辺が最も高い標高53kmで、丘は現在の大船駅笠間口付近まで細くのびていました。笠間を鎌倉街道が通り、㹨川を渡ると戸塚道(中ノ道)と弘明寺道・保土谷道(下ノ道)とが合流するため、交通の要衝地でした。

田立(ただち)
古くは笠間と同じように島でした。「たりゅう」「たりょう」「たたて」「ただて」などとも訓みます。現在の横浜市立笠間小学校(神奈川県横浜市栄区笠間3丁目)付近を中心とする島(丘)になった地域の小字です。「笠間田立町内会」や「バス停田立て前」が遺名となっています。田立と笠間の間に小さな島(丘)があり、鹿島神社が鎮座してきました。鹿島神社は田立の民の鎮守で、田立民11軒の連盟による手洗鉢があります。

今泉(いまいずみ)
今泉の白山神社を中心とする地域です。泉が湧水する瑞祥地名で、弘法大師が止錫して水が湧き出したことによると伝えられています。『北條氏綱制礼写』大永2年(1522年)3月7日條に「相州岩瀬郷の内今泉村」とあるのが初見です。江戸期は旗本加藤氏の知行でした。慶応3年(1867年)に大船と岩瀬の水不足を補うために今泉村に溜池を設け散在ヶ池と称し、現在は鎌倉湖と呼ばれています。今泉一帯には小泉・七久保・福泉・吉ヶ沢・芋ヶ谷・滝ノ入などの小字があります。
   

離山(はなれやま)
常楽寺の西側の地域をいいます。『大草紙』享徳4年(1455年)6月條で幕府方に攻められた関東公方足利成氏らが離山などで防戦して敗れたと記されています。『風土記稿』には「長山」「腰山」「地蔵山」の総称を離山というと記され、道興自著の『廻国雑記』文明18年(1486年)條に「はなれ山といへる山有、まことにつづきなる尾上もみえ侍らねば」と記され、江戸時代初期の『玉舟記』に「大道の左にあり、平時宗此処に出て、大覚禅師を迎ると也」と記されています。

市場(いちば)
享保20年(1735年)に領主別所氏が石清水八幡宮を勧請し、この地の守護神として八幡神社を建立しました。八幡神社は台の鎮守で、地元では「小八幡さま」と称されています。「市場」はこの八幡神社付近を中心とする地域の小字です。毎月5日・10日に「紅花の市」が開かれていたといわれています。現在の「市場公会堂」はかつて鎌倉郡三十三所の1つ亀井堂(観音堂)があった跡地で、聖観音と地蔵像が安置されていました。宿場としても記録に残っており、「北條家朱印状写(風土記稿)」天正14年(1586年)12月25日條に「市場新宿」とみえます。

岱(だい)
現在の北鎌倉女子学園(台山)を中心とする地域の小字で、敵からの襲撃があった場合や洪水などの天災にそなえて都合のよいように正面に河川や海をもち、背後に山や丘陵がある場所として「岱」と称され、いつしか「台」という文字に転訛しました。『風土記稿』や『黄梅院文書』応永33年(1426年)條に記載があるほか、『所領役帳』では北條氏の馬廻衆関弥次郎松田助六郎らの所領として「台之村」がみえます。近世では幕府旗本の別所氏・石野氏が領地としました。

瓜谷(うりがやつ)
北鎌倉駅から南西に広がる谷名です。東瓜谷と西瓜谷とでなります。『沙弥道貞避状』正慶2年(1333年)5月16日條に「山内瓜谷口屋地事」とあるのが初見です。「ウリガ谷」「瓜ヶ谷」「瓜谷口」「うりが谷」など散見されます。瓜谷口の山上に昭西堂があり、「古教妙訓証文」文安3年(1446年)10月2日條に昭西堂の跡地に名越花谷から木束寺が移建されたと記されています。瓜谷には円覚寺塔頭の海会庵や景福庵、観蓮寺などがあったほか、鎌倉市指定史跡「瓜が谷やぐら群」があります。小名には稲荷台・足洗場・舞台畑・木戸わき・滝ヶ谷・池ノ谷・中ノ谷などがあります。

阿多見(あたみ)
山崎の小字です。享徳元年(1452年)12月円覚寺黄梅院領として作成された『北深沢郷年貢算用状案』に地頭除分として「洲崎阿多見」とみえるのが初見。戦国期『所領役帳』に川瀬左市郎の領地として「須崎あたみ」とあり、『風土記稿』に山崎村の小字「熱海」から鉱泉が沸き出たとあります。

大慶寺(だいけいじ)
現在の寺分を中心とする一帯のことです。『鎌倉志』は「テラワケ」と訓みます。『風土記稿』は「古は大慶廃寺の域内たりしを以て、大慶寺分と云ひしを…上略して今の地名となりしならん」と記し、「(大慶)寺分であったところ」という意味で、廃絶した大慶寺の寺名を省略して「寺分」となりました。関東十殺(鎌倉十殺)の1つであっ霊照山大慶寺は廃寺となり、塔頭の方外庵を興して大慶寺の名を復しました。『北條氏康判物』天文16年(1547年)11月21日條で「須崎大慶寺分」とあるのが初見です。『風土記稿』は陣出・寺入・寺小路・峯・向坂・延命丸山入・覚華軒(かっけん)・本町・天神下・川端・津村町・道下・指月軒(ひげつ)・てんだい・大堂庵・鐘つき堂・堂尻など小名を伝えています。

梅谷(うめがやつ)
梅ヶ谷とも書きます。「ムメガヤツ」とも訓みます。扇谷の小字名で、化粧坂へ登る途中の右方の谷の名です。谷名は新阿弥陀堂の古梅によるといわれています(『風土記稿』)。梅谷山を山号とする向陽院(向陽庵)があったともされ、化粧坂登り口に「向陽庵大悲堂碑」があります。鎌倉七谷の1つと称され景勝の地でもありました(『玉舟記』)。源頼朝の忠臣武田信光の屋敷(武田屋敷)があったともいわれています(『鎌倉志』)。

扇谷(おうぎがやつ)
扇ヶ谷とも書きます。扇谷は海蔵寺のある谷をさす狭小な地名です(『鎌倉志』)。海蔵寺の山号として「扇谷山」が残っています。『吾妻鏡』に「扇谷」の地名はなく、この地域の総称は「亀谷」でした。室町時代に関東管領上杉定正が亀谷に住み「扇谷殿」と称されたことから亀谷の名がすたれ、華光院・浄光明寺・薬王寺・英勝寺・寿福寺付近にも扇谷の名が広がり、現在では「扇谷」の地名は化粧坂や亀谷坂などをへて鎌倉入りした付近一帯の総称となりました。

会下(えか)
「えげ」「えが」とも訓みます。扇谷のあった辺りの地名を会下といいます。会下谷は応永元年(1394年)に上杉氏定開基の扇谷山海蔵寺のある谷をさし、扇谷の別名とされています。鎌倉宮から覚園寺へ向かう道沿いの東側一帯も会下という地名が残っています。『関東合戦記』永享の乱の條で海老名上野介が「扇ヶ谷会下海蔵寺」で自害したと記され、『鎌倉年中行事』応永の乱の條で「扇谷会下海蔵寺」で施餓鬼が行われたと記されています。「相州鎌倉之図」にも海蔵寺のところに「ゑげが谷」と注記されています。

亀谷(かめがやつ)
現在の寿福寺のある谷を中心とする一帯の地名です。亀返(かめかえり)とも書き、「かめがへ」「かめがや」「かめがいのやつ」などとも訓みます。『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月7日條の「左典厩(源義朝)の亀谷御旧跡(寿福寺)」が初見です。土屋義清中原親能らの「亀谷堂」があったほか、正治2年(1200年)閏2月13日條に「亀谷地」が栄西に寄進され寿福寺が創建されたことが記されています。寿福寺の山号「亀谷山」や「亀谷坂(亀谷切通)」が遺名です。かつては源氏山は亀谷山といわれ、亀谷坂を降って左方の岡が鶴亀山で亀谷山とは向かいにあったといわれています。亀谷坂や化粧坂にも通じ、「亀谷辻」が鎌倉七町の1ヶ所に含まれ相当のにぎわいを呈していたと思われます。
   

泉谷(いずみがやつ)
浄光明寺が所在する谷をいい、地名としてもみられます。かつては巨福呂坂(巨福呂切通)へ通じていたといわれています。浄光明寺の山号「泉谷山」や、鎌倉十井の1つ「泉ノ井」があり、谷名の由来とされています。『吾妻鏡』建長4年(1252年)5月19日・5月26日・7月8日・9月25日條に「泉谷」「泉谷亭」とみえるほか、文永2年(1265年)6月10日條に「亀谷并泉谷所所山崩」と記されています。「浄光明寺敷地絵図」「扇谷村絵図」などにもみられます。

雪下(ゆきのした)
現在の神奈川県立鎌倉近代美術館別館あたりの地名で、二十五坊(御谷)の1つで南谷にあった静慮坊(南谷屋敷)を中心とした狭い区域の地名です。五寸(およそ18cm)ほど積もった雪見のため源頼朝が訪れ、長櫃に山辺の雪を入れた「氷室」をつくらせて夏の暑さ対策をさせたといわれています。ただし初見は『吾妻鏡』建保元年(1213年)正月4日條の「雪下本坊」に源実朝が入ったという記事で、『大草紙』応永24年(1417年)1月條には「上杉禅秀の乱」で上杉禅秀の子快尊の「雪下御坊」に足利満隆らが籠って自害したと記されています。

鶯谷(うぐいすがやつ)
鶴岡八幡宮の西側にあり、馬場小路と丸山(聖天山・鶯谷山)との狭い谷間の地名です。馬場町と呼ばれた時期もありました。『風土記稿』の「飯山権現社(鶯谷内道場)銅鏡裏銘」嘉吉3年(1443年)6月條に「再葬鶯谷尼堂の庭上」とあるのが初見です。鶴岡八幡宮神主の大伴氏の屋敷があったほか、「鎌倉絵図」元禄16年(1703年)刊に馬場小路から巨福呂坂沿いに多くの家屋が描かれ、志一稲荷社の北に「鶯谷やしき」と記されています。

赤橋(あかはし)
鶴岡八幡宮境内入口付近の小字です。赤橋は源平池にかかる反橋(太鼓橋)をいい、この付近の地名となりました。北條義宗が屋敷をかまえ赤橋北條氏を称し、赤橋守時の代に鎌倉幕府最期の執権となりました。『吾妻鏡』建保元年(1213年)5月3日條に和田義盛の乱で和田側の土屋義清が「若宮赤橋」で流れ矢にあたり戦死したと記され、戦国期の『権律師快元覚書』永正17年(1520年)條に「赤橋頽落」したのを橋本宮内丞が再建したと記されるほか、散見されます。

宇都宮(うつのみや)
若宮大路の東側で、現在のカトリック雪ノ下教会や鎌倉彫資料館などの一帯をさします。鎌倉幕府御家人の宇都宮氏が屋敷を構えていたことから「宇都宮」「宇都宮辻子」などの地名につながりました。『吾妻鏡』嘉禄元年(1225年)10月に幕府移転の敷地が諮問され、「宇津宮辻子」に移すことが決定し、鎌倉幕府は「宇津宮御所」と表記されました。現在は「宇津宮稲荷社」が遺名として残っています。
 

犬懸(いぬかけ)
現在は浄明寺の小字で、犬懸ヶ谷を中心とする一帯の地名です。犬駈・犬掛・衣掛・絹掛とも書きます。『源平盛衰記』治承4年(1180年)條で畠山氏と三浦氏の小坪合戦において和田小次郎が「犬懸坂」を馳せ越して名越に出たと記されています。「犬懸坂」は坂東三十三観音礼所第一番の杉本寺から衣張山を越えて第二番岩殿寺へ向かう巡礼道としても使われました。犬懸ヶ谷は関東管領にも任じた上杉四氏の1つ犬懸上杉氏の屋敷があったとされています。

詫間(たくま)
現在は浄明寺の小字で、詫間ヶ谷を中心とする一帯の地名です。宅間・琢磨・沢間とも書きます。報国寺のある奥深い谷間を詫間ヶ谷といい、報国寺の本尊ほかの諸尊が宅間法眼の作だったことで「比辺を宅間が谷と云うなり」と『鎌倉志』には記され、報国寺は俗に「宅間寺」と称されていたといわれています。『日工集』永和4年(1378年)4月17日條には、管領上杉能憲が没したため義堂周信が急ぎ「琢磨谷(詫間谷)」の上杉能憲宅をたずね弔意を示したと記されています。犬懸坂と同じように坂東三十三観音巡礼道である岩殿寺への路が残っています。

青砥(あおと)
浄明寺五丁目付近の小字です。青砥藤綱の館があったことから青砥といわれています。現在も滑川に青砥橋がかかっています。青砥藤満の子青砥藤綱は上総国青砥荘の出身で、28歳のときに二階堂氏の推薦により執権北條時頼に仕え評定の末席に連なり、権力者に媚びない公平な裁判と慈悲深い人柄により多くの所領をたまわった人物といわれています。

明石(あかし)
十二所の小字です。現在も滑川支流の明石川が流れ、明石橋がかかっています。明石谷の背後に明石山があり、久木・池子地域へ通じる往来道(稲荷坂)がありました(『鎌倉志』)。『社務職次第』元弘3年(1333年)9月4日條に「一心院明石本坊」、『供僧次第(乗蓮坊)』建武2年(1335年)11月28日條に「社務代明石本坊」などとみえます。『鎌倉年中行事』『社務記録』『桂林集』『風土記稿』などにも「明石」「明石谷」「あかし」「あかし口」などの地名が散見されます。

鑪(たたら)
十二所村の小字です。十二所神社の東側で、十二所やぐら群の南側からはじまる谷(鑪ヶ谷)の辺りです。鑪場があったことから地名となりました。『風土記稿』に十二所村内の小名として「多々羅ヶ谷」とあるのが初見で、三浦郡(現在逗子市)と接すると記されています。『鎌倉志』の理智光寺のところに「鑪場西の方にあり…云々」と、鉄不動を鋳造した鑪場の存在を記しています。鑪ヶ谷に製鉄関連の遺跡があったと考えられます。

宇佐(うさ)
光触寺のある谷の小字名です。六浦路を流れる滑川をはさんで東側に宇佐小路という小路があり、宇佐八幡社への参道とされています。「うさの宮下」「うさ宮」「うさ小路」といった地名の記録が残っています。北に鑪谷(たたらがやつ)、西は稲荷小路・二ツ橋、南は明石谷となります。

朝比奈(あさいな)
朝夷・朝夷奈・朝日奈とも書きます。鎌倉郡峠村の小字で、現在の横浜市金沢区朝比奈です。鎌倉七切通の1つで国史跡の「朝夷奈切通」があり、鎌倉と六浦を結ぶ軍事・経済上の要路でした。和田義盛の三男朝夷奈義秀が一夜で切り拓いたという伝承があります。

峠(とうげ)
現在の横浜市金沢区朝比奈町および東朝比奈の一部です。『風土記稿』には峠に朝夷奈切通があって、十二所側を「大切通」、金沢側を「小切通」と呼んだと記されています。また、鼻欠地蔵について「是より東方わずかに一間許を隔て武相の国界なり」とし、『鎌倉志』は鼻欠地蔵を「界地蔵」としています。寛政元年(1789年)刊『鎌倉名所記』に「あさひな一はい水、同切通し、たうげ村」と記されています。
 

田辺(たなべ)
七里ガ浜の旧名です。現在は田辺池・田辺ヶ池として鎌倉市七里ガ浜一丁目に小さく残っているのが遺名です。文永8年(1271年)に旱魃を憂いた執権北條時宗が極楽寺の忍性に雨乞い祈祷を命じました。忍性がこの池で雨乞いの祈祷を行ったものの効果が全くなく、かわって日蓮が法華経を唱えるとたちまち大雨が降りだしたという伝承が残っています。田辺池は別名「雨乞いの池」といわれています。「日蓮雨乞いの霊跡」を管轄するために昭和32年(1957年)に日蓮宗龍王山霊光寺は寺格を与えられました。
   

姥谷(うばがや)
姥ヶ谷・姥ヶ懐とも書きます。江ノ電稲村ガ崎駅の西方にある聖福寺谷西の支谷の名で、稲村の小字名です。現在のバス停「姥ケ谷(鎌倉市稲村ガ崎3丁目)」に名が残っています。元弘3年(1333年)鎌倉攻めのときに、新田義貞が姥谷に兵を隠したいい伝えがあります。

稲(いな)
現在は稲村ガ崎といわれています。極楽寺切通へ通じる稲村ガ崎の岬つけ根辺りの村落を稲村と称したことに由来します(『鎌倉志』)。かつてはこの稲村の岬の東側を「霊山ヶ崎」、西側を「稲村ヶ崎」と呼びました。『源平盛衰記』『海道記』などに記述があるほか、『太平記』元弘3年(1333年)5月條の新田義貞による鎌倉攻めで、新田義貞の一族大舘宗氏ら11人が極楽寺口で討死したと記され、慰霊のために十一人塚(鎌倉市史跡)の碑が建てられたほか、「稲村ガ崎」が新田義貞徒渉の伝説地として国史跡に指定され、公園に新田義貞の記念碑も建てられました。

坂下(さかのした)
戦国時代にみえる地名です。『風土記稿』によれば、極楽寺切通の坂下にあることから名づけられたとされます。鎌倉郡星月郷にあり、鎌倉十井の星ノ井があるほか、鎌倉景政が祀られる御霊神社があります。昭和47年(1972年)2月1日に「坂ノ下」という新しい町名が誕生しました。

魚町(いおまち)
大町の小字です。「いよまち」「うおまち」とも訓みます。『吾妻鏡』文永2年(1265年)3月5日條に鎌倉幕府が許可した町屋の1つに名が見えます。「朽木文書」からは甘縄神明社付近と推測されていますが、嘉永3年(1850年)版「鎌倉一覧之図」には大町四つ角の南に「魚町橋」と注され、『風土記稿』にも大町(米町の東)にあったと記されており、いずれも鎌倉期に栄えた商業地です。
   

新居(あらい)
材木座五丁目付近の小字です。荒井・荒居・新井とも書きます。滑川河口の東方、海岸橋と九品寺の中間海側の辺です。『鎌倉年中行事』享徳3年(1454年)條に「浜の新居閻魔堂 円応寺と号す 応永大乱の亡魂を弔うため海蔵寺に施餓鬼を命じた」とあるのが初見。建長2年(1250年)ころに甘縄郷見越岩に創建された閻魔堂を、『修造勧進状』に「荒居鯨海」とあり足利尊氏が新居に移しました。海辺ゆえ度度津波や大風の被害を受け(『攬勝考』)、元禄16年(1703年)の大地震で堂・寺橋・尊像などすべて破損し、建長寺向かいに移り新居山円応寺と称しました(『福山日記』)。旧地の新居には荒井閻魔堂跡碑があります。

和賀(わが)
材木座六丁目付近の地名で、材木座の古称です(『風土記稿』)。鎌倉時代に北條泰時の支援のもと飯島岬の先に港湾施設として造られた石積の防波堤「和賀江の築島(『東関紀行』)」は和賀江嶋・飯嶋の津ともいわれ、日本で唯一最古の築港遺跡として昭和29年国史跡に指定されました。金沢湊と並ぶ鎌倉二大港として中国・東南アジアとの交易が行われ、『海道記』貞応2年(1223年)條に「数百艘の舟 とも綱をくさりて大津の浦に似たり 千万宇の宅 軒をならべて大淀のわたりにことならず」と海岸地区の繁栄ぶりが記されています。和賀江の関所(飯嶋関所)管理は極楽寺が行っていました(『足利尊氏書状写』)。

名越(なごし)
『吾妻鏡』天福元年(1233年)8月18日條の「名越坂」が初見です。越え難いという意味から「難越」とよばれた険路でした。現在の大町付近で、古東海道の三浦方面に抜ける出入口です。北條時政が御所をかまえていたことで名越殿と呼ばれ、北條義時の子北條朝時からはじまる名越氏が代代本拠としました。問注所執事の三善康信ら鎌倉幕府の有力者の居所が名越山付近には散見されます。

飯嶋(いいじま)
材木座六丁目付近の小字です。西浜・飯島とも書きます。材木座海岸南東に位置し、鎌倉市と逗子市の境界にあります。和賀江嶋が造られたことで商業地域として発展しました。『吾妻鏡』寿永元年(1182年)11月10日條に源頼朝の愛妾亀前伏見広綱の「飯島家」のもとに身を寄せていたところ北條政子牧宗親伏見広綱の館(飯島家)を破却させたというのが初見。

田越(たごえ)
多古江・多胡江・多古恵・手越とも書きます。田越川は御最後川・御菜川ともいわれました。「手で綱を引き舟を送り越す」という意味から手越(たごし)と名づけられました。『吾妻鏡』建久5年(1194年)8月26日條に「多古江河辺」とあるのが初見です。『吾妻鏡』寛喜2年(1230年)11月13日條に七瀬祓を「多古恵河」で行ったと記されています。建久9年(1165年)2月に平維盛の嫡子六代御前が田越川で斬首されたため(『平家物語』)、六代墓(逗子市史跡)が残るほか、承久の乱で敗れ三浦胤義の子5人が「手越の河端」で殺されたことを伝える「忠臣三浦胤義遺孤碑」が清水橋付近に建っています(『承久記』)。
 

江島(えのしま)
荏島・榎島・画島・絵島・江嶋とも書きます(『鎌倉志』)。江島神社の弁才天信仰で古くから栄えました。『吾妻鏡』寿永元年(1182年)4月5日條「腰越辺江嶋」が初見です。源頼朝が奥州藤原氏の調伏祈願を行うため弁才天を勧請しています。建保4年(1216年)正月に地震で陸つづきとなり人々が群参したといいます。明治期に神仏分離が断行され三ヶ坊(岩本院・上之坊・下之坊)の僧侶は復飾し神主となり、江島全体から仏教は一掃されました。
   

影取(かげとり)
影取池が地名となりました。『新編相模風土記稿』によれば山谷新田の小名で、かつて池のなかに住みついた大蛇(怪魚)が空腹のあまり池に映る旅人の影を飲み込むようになり、景を取られた人は数日のうちに命を落とすという噂が広がったため村人が鉄砲の名人に退治をさせました。影取池のすぐ近くには鉄砲宿という地名も残っていて、鉄砲の名人が泊まった小屋があったとされています。

庵野原(いほのはら)
現在の原宿一帯をさす地名で、原宿の旧名です。鎌倉郡村岡郷に属し、永禄年間(1558〜1570年)以前は玉縄城主北條氏勝の領地でした。天正5年(1577年)に原宿村と改められ、天正18年(1590年)に徳川氏の所領となり、彦坂小刑部成瀬五左衛門らが所領としました。庵野原には下ノ谷堀・反目橋・弘法池・八幡山・浅間神社・大運寺などがあったと記されています。
 

大鋸(だいぎり)
室町時代中期のころから大鋸引(おがびき)という材木から板をつくる職人たちが遊行寺の門前付近に住んでいたことから大鋸という地名となりました。鎌倉郡藤沢郷に属しましたが、土甘郷に属した時代もあったようです。棟梁の森一族をはじめとした職人たちの家々がおよそ300軒近く軒を並べていたといわれています。戦国時代に北條氏直属の職人衆として城造りや修理に重要な役割をはたし、関東各地の築城や修理に大鋸を担いではるばる藤沢から出かけていたと記されています。

大鋸西(だいぎりにし)
現在の西富のことで、もともとは大鋸村の一部でした。平安時代『更級日記』に見える地名です(『古典大系』)。大鋸のなかでも西方に位置していたことから西大鋸といわれ、徳川氏が治めた江戸時代の初期に西村という一村に独立しました。村岡氏・大庭氏・長尾氏・俣野氏らが所領とし、戦国時代には北條氏が治めました。江戸時代初期の徳川氏が治めるころまでは鎌倉郡(東郡)に属していましたが、その後は高座郡に属すようになりました。明治4年(1871年)に西村から西富町に改名され、昭和44年(1969年)藤沢市の町名となりました。

山谷新田(さんやしんでん)
鎌倉郡村岡郷の一部で、荒原の地を開墾して新しい畠地とし、慶安3年(1651年)11月の検知で山谷新田という地名となりました。嘉永5年(1852年)に徳川氏代官の井伊掃部頭、安政元年(1854年)に細川越中守、文久3年(1863年)に堀田鴻之丞が所領としました。

大谷(おおたに)
現在の御幣公園を中心とした地域一帯をいい、御幣山ともいわれました。『新編相模国風土記稿』『鎌倉市史』『藤沢市史』などに桓武平氏の流れをくむ渋谷氏の一族である大谷氏の館(御所谷)や大谷城(御幣山砦)などがあったと記されています。城主大谷公嘉(大谷帯刀左衛門)は北條氏に仕え二十将衆の1人に数えられ、永禄12年(1569年)に籠城し武田晴信に攻め落とされ、天正18年(1590年)に上野国西牧城で討死しました(『北條記』『城と古戦場』)。大谷氏は川名も所領としており、「大谷筑前邸址」「殿屋敷」などの地名が残ります(『風土記稿』『日本城郭大系』)。

大塚(おおつか)
現在の藤が岡中学校付近を中心とした地域一帯の地名です。わずかに「大塚下」という地名が残るだけとなっています。『新編相模国風土記稿』に「大塚、東南の山上、松林中にあり、北條氏分国のころ玉縄城より小田原城へ急を告げるとき号火を放つがために築しところといい伝ふ」と記され、かつてあった大塚烽火台跡に藤が岡中学校が建設されました。
 

大庭(おおば)
現在の藤沢市立大庭城址公園を中心とする一帯の地名です。長治元年(1104年)ころに鎌倉景政が大庭御厨を開拓し、伊勢神宮に寄進したもので伊勢新宮の荘園でした。御伊勢宮・神台・隠里・城下(たてしな)などの地名が残っています。鎌倉景政の子孫大庭景宗が大庭城を築いたことから「城(たて)」と呼ばれる地名が多く残っています。

八的(やまと)
現在の辻堂一帯の地名です。八松とも書きます。八的ヶ原・八松ヶ原・やつまと・八松原など記されています。平安時代までは鎌倉郡土甘郷(砥上郷)に属し、大庭御厨が成立したころに高座郡に含まれたものと思われます。辻堂は北條氏康による永禄2年(1559年)『小田原衆所領役帳』が初見です。辻堂は鎌倉道の十字路にあった寺「四ツ辻のお堂」が転訛したものとされています。

羽鳥(はとり)
現在の藤沢市羽鳥一帯の地名です。平安時代までは鎌倉郡土甘郷(砥上郷)に属し、長治元年(1104年)ころに鎌倉景政が大庭御厨を開拓し、高座郡の一部となったとされています。中国や朝鮮半島からの渡来人が多く住み、秦氏を中心とした渡来人が大和朝廷に仕え機織りの職業である服部(はとりべ)をしていたことが転訛したものとされています。

善行寺(ぜんぎょうじ)
現在の藤沢市善行一帯の地名です。善行寺があったことから地名となりました。鎌倉郡尺度郷(坂戸郷)に属し、江戸時代には藤沢坂戸町の枝郷善行寺村といわれました。大正時代に善行寺の「寺」が省け現在の善行という地名となりました。小字には善行・唐池・渋沢・椎名谷・乾塚・中原・本入・大原・石原谷・石名坂・伊勢山辺・白旗廻・立石・庚申塚・亀井野・石川・大庭などがありました。

立石(たていし)
現在の藤沢市立石一帯の地名です。鎌倉郡尺度郷(坂戸郷)に属し、江戸時代には藤沢坂戸町の枝郷立石村といわれました。立石神社(山神宮)の御神体として立石を大山から運んだことが地名の由来とされています。かつて橋がなかった時代に川を歩いて渡るときの目印として立石が置かれたことから全国各地にある地名で、片瀬(片瀬中学校)にも同じ地名が残っています。