鎌倉と囃子

鎌倉と囃子

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鎌倉だけにかかわらず、各地方に祭囃子は伝承されてきました。
囃子は、「囃す」人やその役割のことをいい、「栄やす」とも同語源です。
そのルーツを探っていきたいと思います。

古代律令軍制と指揮具としての鼓吹(囃子)

かつて古代の大和朝廷の律令軍制では、戦は太鼓と笛の音を合図に行われていました。音楽が戦や宗教に用いられたのは日本だけではありません。
律令軍制を導入する契機となったのは、天智2年(663年)の白村江の戦いでの敗戦でした。中国大陸・朝鮮半島との緊張関係から軍事力の整備をはからなければならない過程において律令軍制は導入され、大宝元年(701年)に大宝律令が施行されたことで本格的に成立しました。律令軍制の本質的な目的は、唐・新羅に対抗することができる軍事力を整えることにありました。

律令軍制下において軍団兵士制がしかれ、当時の人口およそ600~700万人に対して、総兵力およそ20万人を保有したといわれています。律令軍制「養老令」の規定によれば、兵は50人で1隊を構成し、騎兵・歩兵に分けられました。組織的な軍団編成は律令軍制により規定・運用されたことにより全国画一であり、太鼓と笛の合図で軍を動かし歩兵集団戦を行うことが律令軍制の特徴でした。
歩兵による集団戦闘は全国共通の「陣法式」に基づいて行なわれ、指揮具である鼓吹の音情報により行動が統一されていました。多数の軍団兵士が統一行動をするためには、集団戦闘の訓練を徹底する必要がありました。「陣太鼓」などの言葉もこうした戦に太鼓が用いられたことの名残です。

日本の古代国家は、兵士の軍団編成や武具生産の管理を行うほか、雅楽寮を置き音楽や舞踊を所管していました。

 

雅楽と俗楽

囃子は、日本の伝統文化でありユネスコ無形文化遺産でもある能楽の演奏形式の1つともされていますが、能楽じたいは明治時代以降の文化です。明治時代に能楽として成立する以前には猿楽(能)・狂言などがありました。
しかし、猿楽(能)や狂言を調べてみると、それら芸能のなかで囃子の要素が定着し発展していくのはやはり江戸時代以降のようです。

さらに猿楽(能)を調べていくと、ルーツとして飛鳥時代から奈良時代にかけての日本の伝統演劇の1つ伎楽(ぎがく)、奈良時代の大衆芸能である散楽(さんがく)という2つの芸能がありました。伎楽は滑稽味をおびた無言劇。散楽は物真似や軽業・曲芸・奇術・幻術・人形まわし・踊りなど大衆芸能(演芸)で、囃子との直接的な接点はありません。江戸時代にかけて接点が生まれていくわけです。

散楽と伝統音楽である雅楽(ががく)は朝廷に保護されるほどの文化となっていきます。それが庶民のあいだにも広がり、物まねなどを中心とした滑稽な笑いの芸・寸劇に発展していったのが猿楽(能)です。猿楽(能)の滑稽味を洗練させた笑劇も発展し江戸時代に狂言が確立し、五穀豊穣を祈る農村行事から生まれた式三番も芸能として江戸時代に発展していきます。猿楽(能)・狂言・式三番の3つが現在「能楽」と総称されるものです。

つまり、能楽の演奏形式の1つである囃子は、能・狂言・歌舞伎・長唄・寄席演芸など江戸時代以降に発展していく各種芸能のなかで、拍子をとり、または気分を出すために奏する音楽を指しますが、江戸時代以降の発展にともない主に融合されていったものであって、囃子じたいの起源・伝統は別にあるわけです。

雅楽はアジア大陸の諸国からもたらされた音楽や舞と日本の文化が融合してできた音楽で、正確には「雅正の楽舞」といわれました。多くは器楽曲で宮廷音楽として継承され、大規模な合奏形態で演奏される伝統音楽としては世界最古の様式とされています。大宝元年(701年)の大宝令によってつくられた雅楽寮が所管した音楽や舞踊をルーツとし、宗教的かつ儀式的・貴族的(国家的)な音楽です。

宗教的かつ儀式的・貴族的な音楽であるという特徴は雛人形の「五人囃子」に残っています。雛人形は全体的には朝廷そのものを示したもので、親王(男雛・女雛)を頂点に、三人官女・随臣(右大臣・左大臣)・仕丁など平安貴族が身分階級ごとに並んでいます。朝廷に仕え世話をする官人たちを侍といい、彼らが雛人形においては「五人囃子」に位置しています。官人たちのなかにいる武官たちは平安時代末期に臣籍降下や国衙軍制により各地方で武士となっていきます。

平安時代末期に官人(侍)たちが各地に土着し在地で武士となり、鎌倉時代では太鼓・笛・鉦などが武士のたしなみとして奏でられ、雅楽と対の「俗楽」として音楽や舞踊が庶民にも広がり、現代の祭囃子として受け継がれてきたわけです。つまり囃子は神社などで伝わる「雅楽的囃子(神楽)」としての流れと、それ以外の庶民に伝わる「俗楽的囃子(祭囃子)」としての流れ、そして能楽のような芸能的囃子の3つに別れ、江戸時代以降の文化で一部の芸能でまた融合していくわけです。

 

国衙軍制による武士の成立とたしなみとしての鼓吹(囃子)

律令国家が王朝国家へと変質し、朝廷から地方行政(国衙・受領)へ行政権を委任する過程で国衙軍制は成立しました。国衙軍制は清和源氏・桓武平氏・藤原秀郷ら軍事貴族を発生させ、彼らは兵(つわもの)の家として在地で武士となっていきます。彼らはもともと律令軍制下の官人(貴族)であり武芸を世襲していました。そして同時に、雅楽寮で鼓吹をはじめとした音楽も世襲していました。武士は太鼓・笛・鉦をたしなみとして奏で、俗楽として庶民に広がり祭囃子となっていきます。
武士が奏でた俗楽には「鎌倉」「矢隊・羽矢(早矢)」「鎌倉国固め」「鎌倉攻め」などがあり、鎌倉時代に武士たちがたしなみとして、あるいは戦の陣中で奏でていました。現在は祭囃子として伝承されています。

 

五人囃子

雛人形の五人囃子は、太鼓・大鼓・小鼓・笛を奏でる4人に、謡(うたい)を1人加えて五人囃子です。
笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・火焔太鼓・羯鼓(かっこ)などの場合もあるそうです。
親王(男雛・女雛)・三人官女・随臣(右大臣・左大臣)・仕丁など雛人形の格好は、平安装束です。五人囃子が烏帽子に刀を携えているあたり、非常に興味深く、いわゆる「侍」です。侍というのは、本来の意味は朝廷に仕え世話をする官人たちのことでした。なかには武官もおり、それが平安時代末期に在地で武士となっていくわけです。

囃子の演目に「仕丁目」というのがあります。まさに雛人形にいる仕丁のことで、平安時代以降に貴族に仕えた雑役(下男)です。雛人形の仕丁たちが「箒」「塵取」「熊手」といった掃除道具を持っている理由です。仕丁については律令制でもあったもので、囃子との関連性も実に興味深いです。

また、囃子の演目にある「昇殿」は、平安時代以降に、家格や功績によって宮中の清涼殿にある殿上の間に昇ることを許されることをいいます。つまり、雛壇にいる人たちのことです。

「昇殿」や「仕丁目」などは俗楽ではなく雅楽でありながらも、現在は祭囃子として伝承されています。

 

囃子の曲目

鎌倉 治承4年(1180年)に源頼朝が鎌倉郡大蔵郷に御所(大蔵御所)を建設し、鎌倉時代の幕開けとなりました。曲目の「鎌倉」は鎌倉に新たな武家政権が成立したことを表現するものとされています。
矢隊 現在は「屋台」「早矢」「羽矢」などの字があてられます。平安・鎌倉時代には戦いは弓矢隊・騎射隊・弩手隊が主流でした。弓矢は幸福をあらわすと同時に霊力を持つ狩猟具でもありました。早矢は戦で最初に放たれる矢のことで鏑矢ともいわれました。「矢隊」はその名のとおり戦いのテーマ曲だとされています。
鎌倉攻め 元弘3年(1333年)5月に新田義貞が鎌倉を攻め、北條軍を追い鎌倉幕府を滅亡へと追い込みました。元弘の乱のことです。新しい時代の幕開けを意味する曲目です。
鎌倉国固め 元弘3年(1333年)5月に新田義貞によって攻められた鎌倉では七つの切通で鎌倉幕府軍(北條軍)が守備し、新田軍を迎え撃ちました。甚大な被害をもたらしながらも、最後まで七つの切通は抜かれることなく守りきったとされています。決死の覚悟をあらわした曲目とされています。
昇殿 平安時代に、家格や功績によって宮中の清涼殿(殿上の間)に昇ることを許されたことをあらわし、朝廷への憧れをあらわした曲目です。
仕丁舞 平安時代に朝廷に仕え世話をしていた仕丁たちの舞です。現在では「仕丁目」「四丁目」「七丁目」などともいわれています。
御田 律令制のころから官司所属の直営田で、朝廷(皇室)や寺社が所有する領田のことを御田といいました。現在は「神田」の字があてられ「神田丸」という曲目となっています。「丸」の字は魔除けとして用いられた言葉です。

 


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