鎌倉七町

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鎌倉七町屋・鎌倉七御免所・鎌倉七商ともいわれます。鎌倉の商工業地域をさす名数です。
『鏡』には、幕府が許可した町屋として、建長3年(1251年)條で「大町」「米町」「亀谷辻」「和賀江」「大倉辻」「気和飛坂山上」が記され、同じく文永2年(1265年)條では「大町」「魚町」「穀町」「武蔵大路下」「須地賀江橋」「大倉辻」が記されており、中世鎌倉の中心的な商工業地域が分かります。


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いずれにも含まれている「大町」は現在の大町を中心として材木座・由比ヶ浜にいたる一帯をさします。鎌倉を横断する古東海道は下下馬で若宮大路を横断して名越・逗子を経由して横須賀方面に通じていました。そして大町大路と小町大路が交差する地点一帯が鎌倉時代における最大の商業地域とされ、大町大路沿いに町屋が多く立ち並んでいたとされています。
『風土記稿』では「鎌倉繁栄のころは、此辺悉買区」であり、小町大路の夷堂橋を境として、以北を小町、以南を大町と称したと記されています。

「米町」は「穀町」とも記され、『鏡』の仁治2年(1241年)12月27日條に「若宮大路東頬米町前」とあるほか、明応年間(1492~1501年)ころの『善宝寺寺地図(津久井光明寺蔵)』には若宮大路と大町大路が交わる東北の家並みに「米町」の注があります。幕府が許可した町屋の1つとして『鏡』の建長3年(1251年)12月3日條に「穀町」が記され、文永2年(1265年)3月5日條にも「米町」と記されています。夷堂橋の下流を「炭売川」というなど、鎌倉時代に繁盛した商業地域を物語っています。

「魚町」についても『鏡』に幕府が許可した町屋の1つとして名がみえます。『朽木文書』の嘉暦3年(1328年)6月11日「平宗度譲状」に「鎌倉甘縄魚町東頬地一円事」とあって甘縄神明社付近にも名が確認できますが、嘉永3年(1850年)版「鎌倉一覧之図」には大町四つ角の南に「魚町橋」と注されているほか、『風土記稿』も「魚町」は大町にあり、米町の東側にあると記しています。いずれにしても鎌倉期に栄えた商業地です。

「武蔵大路下」については、鶴岡八幡宮赤橋前から西に亀ヶ谷を通り、仮粧坂をへて山内道または深沢道を通過して武蔵に向かう道が武蔵大路でした。「亀谷坂」も「仮粧坂」も鎌倉七口の1つであり、「亀谷辻」や「気和飛坂山上」を含めた「武蔵大路下」は主要道として鎌倉期には大変な賑わいだったとされています。

「和賀江」は、鎌倉の二大港の1つ和賀江嶋港のことです。また石蔵・舟入石蔵などともいわれました。由比ヶ浜の東南の飯島岬の先に港湾施設としてつくられた石積みの防波堤で、「和賀江の築島」ともいわれました(『東関紀行』より)。鎌倉時代のわが国唯一最古の築港遺跡として遺っています。昭和29年(1954年)に国史跡に指定されました。『海道記』には由比ヶ浜の情景として「数百艘の舟。とも綱をくさりて大津の浦に似たり。千万宇の宅、軒を並べて大淀のわたりにことならず」と、海岸に近い地区の繁栄ぶりが記述されています。『鏡』の建長6年(1254年)4月29日條に「唐船5艘以上置くべからず」と定めているので、唐船が入港していた可能性もあります。和賀江嶋の維持管理や関米をとる権利は極楽寺にあり、和賀江関所を管理していました。
鎌倉の二大港のもう1つは金沢湊で、ともに中国・東南アジア地域との公益港でした。

「筋違橋」は、鎌倉十橋の1つです。筋替橋・須地賀江橋・筋海橋・折違橋などとも記されます。道が斜めに交わっているところを意味しています。『金兼藁』の万治2年(1659年)條では橋板を斜めに両岸にかけていたためと記されています。元禄16年(1703年)以前作成の『相州鎌倉図』には「すじかいはし」と記されているほか、『風土記稿』のころには石橋だったと記されています。昭和28年(1953年)から行われた道路拡幅工事にともない現在まで暗渠となり、傍らに石碑が橋のあったことを伝えているのみです。

「大倉辻」は、源頼朝が大倉幕府をおき、源氏三代将軍家のほか、北條政子北條義時北條時房金沢実時足利義氏比企宗員二階堂行政など有力御家人の宿館も多くあって中世鎌倉の政治的中心地でした。


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