鎌倉七谷

鎌倉七谷

HOME > 鎌倉名数-鎌倉七谷ページ

江戸初期に来鎌した京都大徳寺186世玉舟の『玉舟記』は「梅ガ谷」「笹目ガ谷」「扇ノ谷」「雪ノ下ガ谷」「亀ガ井ノ谷」「弁子ノ谷」「花ノ谷」をあげて鎌倉七谷としました。


より大きな地図で 鎌倉七谷 を表示

梅ガ谷

梅ガ谷は、化粧坂をのぼる途中の右方の谷です。古くはムメガヤツといわれていました。谷名はこの谷にあった新阿弥陀堂の古梅によるといわれています。『風土記稿』に「其庭前なる古梅の薫り諸木に勝れし故、来住の人足を留て香を慕ひしかば、おのづから梅谷と呼びなし」と記されています。
梅ガ谷には、源頼朝の忠臣武田信光の宅跡(武田屋敷)があったと『鎌倉志』に記されています。
勝景の地で、様様な文献に残されています。
初見は元享元年(1321年)12月の金沢文庫古文書『聖教奥書』に「梅谷、爲甲斐亡室」とあり、嘉慶2年(1388年)2月の『供僧次第(頼印譲状写)』に「一 同所梅谷新阿弥陀堂供僧職事」とあります。梅谷供僧は頓学坊智円、文恵坊良安頼印相覚重純らのことです。
文明18年(1486年)に鎌倉を訪れた道興准后は『廻国雑記』で「冬枯の木立さびしき梅が谷 もみぢ花もおもかげぞなき」と詠み、寛永10年(1633年)11月に来鎌した沢庵宗彭が『順礼記』で「むかしたが軒そばにさきし梅がやつ わすれぬ宿の匂ふらん」と詠じました。
天明5年(1785年)2月銘の海蔵寺門前の石柱に「梅谷 向陽院」とあり海蔵寺塔頭梅谷山向陽禅庵のことが記され、寛政元年(1789年)10月銘の海蔵寺金鉢に「鎌倉梅谷山向陽庵慈穏代求之」とあり、化粧坂登り口「伝平景清(梶原景清)土牢」の傍に「向陽庵大悲堂碑」があり、梅ガ谷について記されています。

 

笹目ガ谷

笹目ガ谷は、佐助と長谷の間にある谷で、佐々目ヶ谷とも記されます。
『鏡』寛元4年(1246年)閏4月2日條に、第4代執権北條経時が「佐々目山麓」に葬られたと記されているのが初見で、また宝治元年(1247年)5月14日に将軍藤原頼嗣室が「佐々目ヶ谷故武州墳墓之傍」に葬られたと記されています。
笹目ガ谷には宝治2年(1248年)3月29日に佐々目谷堂が建立され、北條経時の三回忌が行われています。
北條政子が夫源頼朝の菩提を弔うために佐々目ヶ谷に建立した長楽寺は現在は大町に安養院(祇園山長楽寺安養院)として移されており、笹目ヶ谷の西方に位置する長楽寺ヶ谷を含めた広い範囲がかつては笹目ガ谷と呼ばれていたものと思われます。笹目ガ谷には長楽寺のほか、遺身院の名もみられます。

 

扇ノ谷

扇ノ谷は、扇ガ谷のことでかつては亀ヶ谷と呼ばれていました。『鎌倉志』によれば鎌倉後期から扇谷の名はみられ、海蔵寺・華光院・英勝寺付近の谷をさし狭小な地名であったといわれています。室町時代に管領上杉定正がこの地に住み「扇谷殿」と称されたことで亀ヶ谷の名が廃れ扇ガ谷の地名が拡大したといわれています。
正中3年(1326年)ころの『金沢貞顕書状』に「去夜亥刻計二、扇谷の右馬権助(大仏)家時門前より火いてき候て…浄光明寺西頬までやけて候」と記されているのが初見で、『太平記』巻第十の元弘3年(1333年)條に新田義貞の鎌倉攻めで「天狗堂ト扇ヶ谷」で合戦があり馬煙おびただしく見えたと記されています。
『常楽記』には貞和3年(1347年)2月に足利尊氏妻の姉扇谷禅尼が他界したと記され、『大草紙』では応永23年(1416年)の「上杉禅秀の乱」で三浦一族が気生坂(化粧坂)に布陣し、上杉氏定父子らは扇ヶ谷に布陣し両軍は対陣したと記されています。
文明18年(1486年)に鎌倉を訪れた道興准后は「扇ヶ谷にて 秋たにもいとひし風を折しもあれ 扇ヶ谷は名さへすさまし」と詠んだと『廻国雑記』に記されています。『海蔵寺修造勧進状写』の永正7年(1510年)條に「相州鎌倉扇谷山海蔵寺」とあり、海蔵寺は現在も扁額「扇谷山」を掲げています。

 

雪ノ下ガ谷

雪ノ下の地名は、五寸(およそ18cm)ほど積もった雪見のため鶴岡別当坊に渡御した源頼朝が、山辺の雪を長櫃に入れて北向の山陰に「氷室」をつくらせ「炎暑を消すべきの由」と話したことによるといわれています。二十五坊(御谷)の南谷にあった静慮坊(南谷雪屋)辺りのことで、現在の神奈川県鎌倉近代美術館別館辺りのことです。
『鏡』建保元年(1213年)正月4日條で、将軍源実朝が鶴岡若宮別当定暁の「雪下本坊」に入御したと記されているのが初見です。
かつての雪下は、「南谷雪屋」を中心とした下方一帯の狭い区域で、時代がくだるに従い地名の範囲は拡大していきました。
『大草紙』には応永24年(1417年)1月條に鎌倉公方足利持氏に攻められた反逆者足利満隆らは上杉禅秀の子上杉快尊の「雪下御坊」に立て籠って戦い自害したと記されています。
『終焉日記』で連歌師宗長は文亀2年(1502年)6月に鎌倉を訪れたとき鶴岡八幡宮に詣で「鶴が岡のなぎさの松 雪の下のいらか」は石清水八幡宮にも勝ると記しています。『北国紀行』では文明19年(1487年)3月に鎌倉を巡った堯恵が「春ふかき跡あはれなり苔の上の花に残れる雪の下道」と詠んでいます。

 

亀ノ井ガ谷

亀ノ井は、山内と市場の境にある地名です。台の亀井公園などが遺名となっています。
現在の市場公会堂はかつて鎌倉郡三十三所の1つ亀井堂があった跡地となっています。巨福呂坂は鶴岡八幡宮西方の雪ノ下から建長寺前・円覚寺前を通り現在の小袋谷まで長い切通になっていたといわれています。雪ノ下から小袋谷までが巨福呂谷と呼ばれており、現在のJR横須賀線の南側に位置しています。現在のJR横須賀線北側に市場公会堂は位置しており、亀井ガ谷を線路が通っています。

 

弁子ノ谷

弁ヶ谷・紅ヶ谷・別ヶ谷ともいわれており、材木座の光明寺北方の谷戸一帯をさします。
『風土記稿』に嘉暦2年(1327年)10月5日條の崇寿寺鐘銘に「飯嶼之良、鎌倉之巽、弁谷霊区」と記されているのが初見です。崇寿寺は北條高時開祖の臨済宗の寺院でした(現在は廃寺)。
文明18年(1486年)に鎌倉を訪れた道興准后は『廻国雑記』で「べにが谷をとおりて 化はい坂を越とて」として「顔にぬる へにかやつより うつりきて 早くも越る けはい坂哉」と詠じています。
『鎌倉志』は弁ヶ谷に千葉介の館があったと記し、『攬勝考』は佐竹氏の屋敷があったと記しています。

 

花ノ谷

現在調査中です。


▲ページトップに戻る