鎌倉七口

鎌倉七口

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鎌倉への出入り口は「鎌倉七口」と呼ばれて7つあり、出入り口として整備されました。
室町時代中期の記録にみえる「京都七口」を模した鎌倉名数の1つとされ、鎌倉七切通ともいいます。
三方を山で囲まれ要害の地だった鎌倉は、外の地域との行き来には、険しい峠を越えなければなりませんでした。
「切通」とは文字通り、山や丘陵を切り開いて通した道のことです。
交通の要路であると同時に、外敵の侵攻から鎌倉を守るための防御拠点ともなりました。
防御拠点としての切通には「切岸」「平場」など様々な人工的な仕掛けが施され、馬がやっと通れるほどに道幅を狭め、わざと見通しのきかない道にしました。往来する旅人には通りにくい道です。
「切岸」は山の斜面を垂直に削り取って人工的に崖にしたものです。
「平場」は山頂や山腹につくられた平な場所のことです。
非常時にはここから眼下を通る人馬を監視して、必要とあれば上から矢を射ったり、投石して攻撃したと考えられます。


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名越切通

名越坂切通ともいいます。名越切通は、鎌倉から三浦方面に通じる要路です。
現在の名越トンネルの上を通っています。
道が険しく難路であったため「難越」から「なごえ」という名がついたといわれています。
「大切岸」「平場」など、複雑な防護の跡が残されています。
お猿畠とも呼ばれる日蓮ゆかりの法性寺のある山腹には、段状に岩が削りとられた300mにわたる大切岸があります。国指定史跡です。


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朝比奈切通

鎌倉と金沢を結ぶ切通です。
六浦口とも呼ばれ、鎌倉の東側の守備と考えられ、七口のなかで当時の姿を最も今に伝えています。
仁治元年(1240年)11月、鎌倉幕府は鎌倉と六浦のあいだに道をひらくことを決めました。
仁治2年(1241年)4月に着手し、5月には3代執権北條泰時が指揮を執り率先して工事にあたったことが『吾妻鏡』に記されていますが、鎌倉幕府の侍所の初代別当(長官)となった和田義盛の三男で豪傑だった朝比奈義秀(朝比奈三郎)が一夜にして切り開いたとの伝承が存在し、朝比奈峠の名の起こりとなっています。
建長2年(1250年)6月に六浦道が土石で埋もれたため再度工事を行っています。六浦には良港・製塩地があったことから、鎌倉が消費都市化するにともない、北條氏がこの道筋をいかに重視したかがうかがえます。
建武4年(1337年)12月に北畠顕家が鎌倉に侵攻したときに一軍が朝比奈切通を越え、杉本城で合戦となりました(『社務記録』)。
明治年間まで往来者は多く、道路改修工事もしばしば行われ、延宝3年(1675年)に亡くなった浄誉向入も改修を行いましたが(『鎌倉志』)、元禄16年(1703年)の大地震では37間(およそ6.6m)にわたり崩壊しました(『楽只堂年禄』)。道沿いの石塔には安永9年(1780年)・文化9年(1812年)など普請供養塔が残っています。
国指定史跡です。


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巨福呂坂切通

鶴岡八幡宮の裏手から北鎌倉へ抜ける現在の小袋坂は明治になってひらかれました。
旧道は北條泰時がつくったといわれ、鶴岡八幡宮脇から西側の尾根を越えて圓應寺(円応寺)の前から建長寺へ出る道でした。
現在は途中で寸断されています。国指定史跡です。


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亀ヶ谷坂切通

扇ヶ谷と山ノ内地区を結ぶ道で、岩船地蔵堂から北へ登る坂が亀ヶ谷坂で、ここを越えると長寿寺の脇で巨福呂坂に出ます。
その名の由来には、亀もひっくり返るほどの急勾配の坂だったからなどの説が伝えられています。
現在でも生活道路として使用されています。国指定史跡です。


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化粧坂切通

その名の由来にはいくつも説があります。
たとえば平家の大将の首をこの坂で化粧して首実験したから、辺りに娼家があって化粧した女性たちがいたから、また、辺りの樹木が勢いよく生い繁っていたので木生えや気勢といわれていたから、などです。
『吾妻鏡』の建長3年(1251年)12月3日条に「気和飛坂」という記載があります。
藤沢を経て武蔵方面に通じる戦略上極めて重要な拠点だったことは、元弘3年(1333年)に新田義貞が鎌倉攻めの際に、この化粧坂に軍の主力を向け、激戦地となったことからも推測されます。
それ以降も化粧坂は、様々な戦いの舞台となりました。
史跡は源氏山西北麓、扇ヶ谷4丁目と佐助2丁目の境界付近です。国指定史跡です。


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大仏坂切通(深沢切通)

現在の大仏坂トンネルの上を通り常盤のバス停「火の見下」辺りまでで、梶原・山崎をへて藤沢方面につながる道でした。
険しい山道で、江戸時代から明治時代にかけて何度か整備されてきました。国指定史跡です。


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極楽寺坂切通

坂ノ下から極楽寺の門前までつづく坂道で七里ヶ浜・腰越・片瀬をへて東海道へと通じる鎌倉・京都往還の出発点でした。
極楽寺の開山忍性によって切りひらかれたと伝えられています。
当時の道は、坂の途中にある成就院の山門前の少し下方を通っていたようで、今よりもはるかに急傾斜の狭い峠道でした。
新田義貞の鎌倉攻めのとき、この近くの霊山で激戦が行われました。


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そのほかに釈迦堂口切通・小坪切通・住吉切通・逗子切通・高野切通・長窪切通・谷戸坂切通などがあります。
釈迦堂切通は、釈迦堂ヶ谷と大町・名越を結びます。鎌倉内にある切通のためか七口には数えられていません。
掘削された時期は不明です。
近世の地誌にも記されておらず、近世の掘削の可能性もあります。
辺りには元仁元年(1224年)に3代執権の北條泰時が父北條義時を弔うために建てた釈迦堂があったといわれることからこの名がつきました。
現在は土砂崩れの危険があるため、通行禁止になっています。
住吉切通は、『新編相模風土記稿』にみられる切通で、「元禄国図」に住吉切通と書かれている坂のことですが、正確な位置ははっきりとされていません。
永正9年(1512年)に戦いに敗れて三浦に退去する三浦道寸(三浦義同)が、この切通で伊勢盛時軍と合戦になったといわれています。

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