鎌倉もののふ風土記-坂東と関東

鎌倉もののふ風土記-坂東と関東

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前九年合戦で源頼義に従った精兵たちは「会坂以東の弓馬の士」と記されていました。
会坂以東とは坂東のことだとされています。坂東あるいは関東といった言い方がありますが、どのような意味なのでしょうか。

坂東とは坂の東、関東とは関の東です。

坂東は、奈良時代の律令制において足柄坂(駿河国・相模国境の足柄峠)より東の東海道を「坂東」といい、碓氷山(信濃国・上野国境の碓氷峠)より東の東山道を「山東」といいました。
後に「坂東」と「山東」を一括して「坂東」といわれるようになります。
坂東とは相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国の8ヶ国のことになります。後に信濃国・甲斐国も含まれ10ヶ国と数えることもありました。

関東は、飛鳥時代後期に畿内防御ため、東海道に鈴鹿関、東山道に不破関、北陸道に愛発関の三関が置かれ、これより東を関東という地域概念が発生ました。平安中期に愛発関に代わり逢坂関が三関に加えられました。
源頼朝は鎌倉幕府を「畿内近国」の西国方に対する東国方として「関東方」と称しました。それから「関東」は公式な呼称として定着していきます。
鎌倉幕府により「関東」といわれる地域範囲は幕府の支持基盤である遠江国・信濃国・越後国以東となりました。室町幕府においては、鎌倉公方の管轄する相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国の「坂東」8ヶ国と伊豆国・甲斐国をあわせて「関東」と認識されるようになりました。後には陸奥国・出羽国も鎌倉公方の管轄下となり奥羽両国も「関東」と数えられることもありました。

『吾妻鏡』には「関西38国、関東28国」という記述があり、「東日本」全体を指す意味でも用いられていたようです。江戸幕府の時代には江戸を防御する箱根関・小仏関・碓氷関より東が「関東」と認識され「関八州」と呼ばれていました。


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