鎌倉の名数-鎌倉上杉四家(関東管領)

鎌倉の名数-鎌倉上杉四家(関東管領)

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鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による「建武の新政」がはじまり、鎌倉には4歳の皇子成良親王を奉じて足利尊氏の弟である足利直義が下向してきました。
しかし建武2年(1335年)に北條高時の遺児北條時行が幕府復活をはかって信濃国で挙兵し、足利直義軍を武蔵国で撃破して鎌倉に入りました(中先代の乱)。
このとき足利直義は鎌倉に流されていた後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王を殺害してから鎌倉を脱出しています。
足利直義敗北の報をうけた足利尊氏後醍醐天皇の許可を得ないまま、京都を発して東下し、鎌倉を奪回しました。
足利尊氏のもとへは建武の新政に不満をもつ多数の武士が参集したといいます。
これに対して後醍醐天皇は、足利尊氏を討つため新田義貞を派遣しましたが、足利尊氏はこれを撃破して上洛し、その後も合戦はつづきました。
最終的には足利尊氏が勝利し、室町幕府を開きました。

鎌倉府

足利尊氏は、幕府を開くにあたって鎌倉も候補地としてあげるなど、鎌倉を武家政治の要地として考えていました。
このため鎌倉府をおいて子の足利基氏を長官(鎌倉公方)として、いわゆる関東8ヵ国に甲斐国・伊豆国をあわせた10ヵ国を統治させました。
のちに10ヵ国に加え陸奥国・出羽国も含めて統治させています。

関東管領

鎌倉公方の補佐役を関東管領といい、貞治2年・正平18年(1363年)に上杉憲顕が任じられてから以後は、上杉氏が世襲しました。
上杉氏は、犬懸上杉氏・山内上杉氏・扇谷上杉氏・詫間上杉氏の4家あり、当初は犬懸上杉氏・山内上杉氏、のちに山内上杉氏が任じられました。
当初は関東執事と呼ばれていました。
鎌倉公方の下部組織でありながら、任命権などは将軍にありました。

鎌倉公方
堀越公方
名前
在任期間
名前
在任期間
斯波 家長 1336~1337年
上杉 憲顕 1338年
高 師冬 1339~1344年
上杉 憲顕 1340~1351年(再任)
高 重茂 1344~1349年
高 師冬 1350~1351年(再任)
畠山 国清 1353~1361年
高 師有 1362~1363年
上杉 憲顕 1366~1368年(再再任)
上杉 能憲 1368~1378年
上杉 朝房 1368~1370年
上杉 憲春 1377~1379年
上杉 憲方 1379~1392年
上杉 憲孝 1392~1394年
上杉 朝宗 1395~1405年
上杉 憲定 1405~1411年
上杉 氏憲 1411~1415年
上杉 憲基 1415~1418年
上杉 憲実 1419~1439年
上杉 憲忠 1447~1454年 上杉 教朝 1457~1461年
上杉 房顕 1455~1466年 渋川 義鏡 1457~1466年
上杉 顕定 1466~1510年 上杉 政憲 1461~1487年
上杉 顕実 1510~1515年
上杉 憲房 1515~1525年
上杉 憲寛 1525~1531年
上杉 憲政 1531~1561年
長尾 景虎 1561~1578年

上杉四家

上杉の四家は、ともに鎌倉の地名から生まれた家です。


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扇谷上杉家
上杉憲房より上杉家は台頭してきます。上杉憲房には兄上杉重顕がおり、上杉重顕から扇谷上杉家がはじまっています。上杉重顕の子上杉朝定は室町幕府の裁判機関・引きつけ方の頭人を勤めました。扇谷上杉家は永享の乱(1438年)以降、山内上杉家と関東の覇権を争いました。鎌倉扇谷(英勝寺一帯)に居をかまえていました。

山内上杉家
上杉憲房の三男上杉憲顕は建武元年(1334年)に足利直義によって関東相番に任じられてからは、一貫して足利直義派でした。父上杉憲房の死後、上野の守護を継いで関東管領に就任しました。もう一方の関東管領職の高師冬を討ってからは上杉家の主流となり、山内(明月院入口の東側)に住み山内上杉を名のりました。

犬懸上杉家
上杉憲顕の兄上杉憲藤の系統です。嫡男上杉朝房は、上杉能憲とならびもう一方の関東管領職となりましたが、後に上洛して幕府出仕となりました。しかし、弟上杉朝宗、その子上杉氏憲(上杉禅秀)は2代にわたり関東管領職となりました。応永23年の禅秀の乱を起こし敗死し、その後は犬懸上杉家は衰えました。杉本寺南の犬懸谷に居をかまえていました。

詫間上杉家
上杉憲顕の兄上杉重能の系統です。上杉憲顕の子上杉能憲を養子に迎えますが、上杉能憲の山内上杉家復帰もありその後はふるいませんでした。報国寺のある詫間谷に居をかまえていました。


wikipedia「関東管領」 wikipedia「上杉憲顕」

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