鎌倉もののふ風土記-鎌倉の町並み

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町並み

鎌倉が世に広く知られるようになるのは、源頼朝が武家政権の本拠を鎌倉に定め、鎌倉幕府をひらいた1180年ころからです。
現在に残る寺社や道路のおおよその配置が定まってきたのは、北條執権時代に入って、武家の都としての地位がゆるぎなくなったころといえます。
町の特徴としてあげられるのは、三方が山・一方が海にひらいた地勢をうまく生かしたこと、という点です。
源氏の守護社である鶴岡八幡宮から由比ヶ浜までまっすぐに延びる若宮大路は、神聖なる参道としてつくられました。
大路はいまも町の「顔」といえる中心的街路です。
周囲の丘陵には、「鎌倉七口」と呼ばれた切通が特徴的な旧跡として現在も残っています。
「鎌倉七口」には、化粧坂や亀谷坂、名越切通や朝比奈切通、大仏切通、巨福呂坂、極楽寺切通があげられます。
鎌倉駅や若宮大路の周辺は、中心的な市街地です。
北側の巨福呂坂を越えた山ノ内には禅宗寺院の建長寺や円覚寺があり、市街の西側には鎌倉大仏で有名な高徳院や長谷寺・極楽寺、東側には荏柄天神社・杉本寺・瑞泉寺などがあります。
南側は相模湾に面し、由比ヶ浜を中心に東側が材木座、西側には坂ノ下・稲村ヶ崎がつづきます。
稲村ヶ崎を越すと七里ヶ浜が長く延びて腰越にいたります。
開府からおよそ150年間、鎌倉は日本の中心的な都市として栄えました。
しかし、鎌倉公方足利利氏が古河に逃れると鎌倉は急激に衰退しました。
そして江戸時代には、江戸周辺の遊覧地という性格ももつようになりました。
明治時代になると、鎌倉は海浜保養地、さらに別荘地として東京の華族や名士、横浜の富商らの別荘が建つハイカラな町となりました。
明治22年(1889年)に横須賀線が敷かれ、また明治43年(1910年)には江ノ島電鉄が藤沢から鎌倉まで通じ、町の発展を促しました。
昭和に入り、横須賀線で東京に通勤・通学する人も増えていきました。
戦後の高度成長期に、歴史や自然が豊かで、東京まで電車で1時間圏内の文化都市とあって人気を呼び、宅地開発が盛んに行われました。
昭和35年(1960年)ごろからは、七里ヶ浜や今泉などの大規模な宅地造成によって多くの緑が失われました。
宅地化の影響は貴重な旧跡にもおよぶようになり、昭和30年代後半には鶴岡八幡宮の裏山、かつて八幡宮寺の御坊があった御谷を宅地開発する企てがもちあがりました。
それに対し作家大佛次郎ら文化人も加わった市民による開発反対、旧跡・緑地の保全運動が起きました。
こうして日本初のナショナルトラスト運動として鎌倉風致保存会が誕生し、土地を買収することによって緑が守られました。
この運動をきっかけに、昭和41年(1966年)に議員立法の「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(古都保存法)」が国会をとおり、鎌倉・京都・奈良の三古都の重要な旧跡周辺の環境を保全するため、国や地方のはたす役割が定められました。
具体的には、都市計画によって「歴史的風土特別保存区域」を定め、殊に重要な区域は「歴史的風土特別保存地区」として、許可なく現状変更することを不可能にしました。
「歴史的風土特別保存区域」とは、歴史的に意義ある建造物や遺跡などが周囲の自然環境と一体となって古都の環境を形成している区域のことです。
現在、鎌倉市の緑地は鎌倉市の面積のおよそ40%です。
市民の緑保全の意識は高く、広町(48.1ヘクタール)、台峯(28.7ヘクタール)、常盤山(18ヘクタール)の三大緑地などを行政が法的に保全するとりくみも行われ、成果をあげています。
鎌倉は歴史だけの町ではありません。
年間およそ1900万人の観光客を受け入れる観光都市でもあります。
鎌倉の古都としての価値を証明する一例として、国が指定した史跡の数と面積の大きさをあげることができます。
鶴岡八幡宮や鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)、鎌倉大仏のある高徳院、覚園寺・瑞泉寺・明月院・荏柄天神社など名の知られた寺社の境内はみな国指定史跡とされています。
指定範囲には裏山も含まれているため、鎌倉市内の史跡エリアの全体を合算すると182ヘクタールに達し、鎌倉市全域の4.6%になります。
現在、官民一体となって、鎌倉の世界遺産登録に向けて活動しています。
質量ともに豊かな国指定史跡の存在と保護を前提に、「武家の古都・鎌倉」を目指しています。

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