いざ鎌倉プロジェクト-鎌倉もののふ雑記
鎌倉時代がどんな時代だったのか、鎌倉もののふ雑記です。
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6月22日(火) 津波について
津波(河川遡上) 津波で鎌倉も大船ものみこまれる。 と、思っているのは私だけなのだろうか。 鎌倉市にはなぜ河川遡上を踏まえたハザードマップがないのだろうか。 滑川をはじめ鎌倉にはいくつもの河川がある。河口から河川に侵入した津波が、1mの津波でも5kmは遡上するといわれている。 埼玉県がやっていて、なぜ海に面している鎌倉市が対策をしていないのだろうか? 画像は、何年か前に私がエクセルでつくった縄文時代の鎌倉の入江。 粟船入江は現在の柏尾川。かつて入江だったこれらはいまでも河川として残っている。つまり、津波が起これば遡上して大きな被害を出す可能性がある。 津波が起こったときには、海岸から離れればいいわけではない。河川からも離れなければのみこまれる可能性がある。 ちなみに、2012年に神奈川県が掲載した「明応型地震による津波浸水予測図」では、やはり鎌倉駅周辺や鎌倉大仏まで、逗子や片瀬や鵠沼も完全に津波にのみこまれている。ただし、この予測図でさえ、河川遡上のことには全く触れていない。 鎌倉市、これでいいのか? |
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5月28日(木) いろは歌について
いろは歌 ※お煎餅の話ではありません(^▽^;) 日本文学史上、古代の傑作といえばこの「いろは歌」をあげる人も少なくないと思います。 【金光明最勝王經音義】 【いろは歌(原文)】七五調での48文字 【読み方と内容(「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」)】 いろはにおえど ちりぬるを 【現代語訳】 あでやかに色づく桜の花も やがては散ってしまう 現在「いろは歌」がつくられた時代も作者も正確には分っていません。 「いろは歌」はもともと真言宗系統の学僧のあいだで学問的用途に使われていたことにより世間に流布しました。 ①空海(弘法大師)の生没年は774~835年であり、初見(現存する最古の「いろは歌」が書かれている)である1079年の「金光明最勝王経音義(こんこうみょうさいしょうおうぎょうおんぎ)」の写本との年代の差がありすぎる点。 さて、 エヴァンゲリオンでお馴染みの高橋洋子さんのいろはうた |
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5月27日(水) 髭(ひげ)について
髭(ひげ) 第8回は髭について。鎌倉時代にはどんな髭だったのか、非常に気になります。 皆さんは、口の周りに生えている毛はすべて髭(ひげ)だと思っていませんか? 男性の口の上(鼻の下)いわゆる口ヒゲを髭(し)と書き、顎(あご)のヒゲを鬚(しゅ)と書き、頬(ほお)のヒゲを髯(ぜん)と書きます。 古来から、武士はヒゲを蓄えることは当然とされ、ヒゲのない武士は嘲笑されました。そのためヒゲの薄い者はつけ髭をつけたとまでいわれています。ヒゲがない武士は片輪面(かたわづら)などともいわれました。 薄い口ヒゲは動物の名を借りて泥鰌(どじょう)ひげ、頬から顎にかけて生える厳ついヒゲは豪快な姿の鍾馗(しょうき)からとって鍾馗ひげと称するなど、ヒゲの呼び名はたくさんあります。 ちなみに、私は現在、八文字髭です。 |
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5月27日(水) 髪型について
総髪(髻) 何回目かもはや分からなくなってしまったので、家紋につづいてとりあえず第7回目です。今回は髪型について。 なぜ丁髷(ちょんまげ)をしないのか、なぜ月代(さかやき)を剃らないのかとよく聴かれます。 室町時代までの男性の一般的な髪型で、戦国時代の末期になると兜をかぶるときに頭が蒸れないようにと月代(さかやき)を剃る習慣が出てきて、江戸時代になると一般風俗として月代が定着します。時代劇などで頭に剃りを入れて前頭から頭頂部にかけてハゲているのは江戸時代ならではなのです。 ちなみに、ゝ髷(ちょんまげ)というのは、髪の少なくなった老人が結う小ぶりな髷のことであって、髷(まげ)すべてをゝ髷(丁髷)というわけではないようです。 いずれにしても、烏帽子なり兜をかぶるときは、しっかりと結えるぐらいまで伸ばさないといけないようです。頑張ろう(^▽^) |
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5月18日(月) 北鎌倉緑の洞門について
北鎌倉緑の洞門 JR北鎌倉駅の脇にある素掘りトンネル。崩落の危険性が高いとして通行禁止となった。このトンネルが掘られたのはおよそ80年前で、横須賀線が開通したのが120年以上前なので、その後に掘られたことになる。つまり、この景観は80年の歴史がある(80年しかないと言ってもいい)。 画像は明治13年(1880年)のもの。どこがその北鎌倉緑の洞門かお分かりになるだろうか? 80年親しまれてきた景観、確かに壊すのはもったいない。私個人の考えは、危険性がないように補修できるのであればした方がいいと思うけれど、補修できないのであれば壊した方がいいと思う。とにかく安全第一で、残すために何かできることが具体的にあれば、その方法が知りたい。 あくまで個人的な考え、1人の戯言として以下の考えを綴る。 横須賀線は、日本海軍の軍港都市として知られた横須賀への連絡を目的として建設された路線であり、現在の北鎌倉駅付近では円覚寺境内を横切り、また鎌倉駅付近では鶴岡八幡宮の段葛を寸断して線路が敷設されるなど、用地買収も比較的強引に行われた。 北鎌倉駅はそもそも円覚寺の境内にある。北鎌倉駅周辺でいえば紅花弁才天社をはじめ、坂東三十三箇所の亀井観音堂をつぶし、長勝寺や薬師堂、十王堂といった円覚寺の塔頭跡をことごとくぶち壊し、尾藤谷や法泉谷など通ることさえもできない。路線は寺院の多い谷間を通すため、なくなった跡地や史跡も少なくないだろう。 何が言いたいか分かるだろうか…。 以前この問題で、「鎌倉時代からある景観を壊していいものか」と問われたことがあり、その場ではコメントを差し控えたけれど、隣の線路をあるいは周りをよく観てほしい。どこに鎌倉時代からの景観なんて残っているのか。 80年の歴史が浅すぎるといっているわけではないし、残せるなら残してほしいけれど、あたかも古代からある景観を守れという声や強引な署名活動には疑問を感じる。 |
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5月18日(月) 家紋について
家紋 「鎧に家紋を入れないのですか?」とよく尋ねられます。 家紋というのは「日本固有の紋章のこと」とWikipediaにあります。日本固有とありますが、「エンブレム」「シンボル」「ブランド」という3つの言葉にも非常に近いものがあります。また、馴染みの浅い言葉ではありますが「クレスト(Crest)」も近い言葉です。 どういった点で日本固有といえるのか。 1つとしては、名字との関係性。「名字を表す紋章としての要素が強い」点は日本特有といえる1つだと思います。 武士集団というのは、よく「やくざ」と例えられることがあります。「ファミリー」というとピンとくる方もいるかもしれませんね。縄張りを守りあるいは広げ、血のつながり以上に結束力の強さが感じられます。海賊旗に描かれる「マーク」も近いものがあるかもしれません。 平安時代末期、貴族である西園寺氏が「鞘絵」「木瓜」などを、菅原氏が「梅紋」などを家紋にしたことからはじまり、鎌倉時代にかけて遅れて武家にも家紋という文化が広がっていき、鎌倉時代中期にはほとんどの武士が家紋をもっていたといわれています。 画像は、鎌倉一族の家紋。鎌倉党といわれる氏族は鎌倉氏・梶原氏・大庭氏・村岡氏・長尾氏・香川氏・長江氏・俣野氏・豊田氏などいますが、すべて家紋は異なります。 |
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3月16日(月) 鬨の声について
鬨の声 鬨の声 戦(いくさ)で、士気を高める目的で多数の人が一緒に叫ぶ声のこと。 鬨をつくること三ケ度…(中略)…味方にも鬨の声をぞあはせたる(『平家物語』) 中国では三国時代(208年赤壁の戦い)から戦法として行われていた。日本では平安時代に用いられた文献が残っており、それ以前は分からない。 隊将を中央に周囲を弓矢・旗・差物で固め、全軍は法螺貝を吹き太鼓鳴らし、戦はじめのときには「鬨は三度」行うとし、戦後の「勝ち鬨は一度 はじめは強く 終わりは細かるべし」と記される。 『広辞苑』 鎌倉で、1,000人以上が鬨の声をあげたらどうなるだろう(^0^) |
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3月15日(日) 閑吟集について
夜中は 地櫓裏に 巣刳る ちろりちろり 何と裳 男矢綯う 何とも なやなう 浮き夜は夫婦の射地葉よ 何と裳 男矢綯う 何とも なやなう 人生刺地自由 古来稀なり ただ男尼事も かごとも 夢間穂ろ刺や 見ずの吾和 笹の葉に置く 露の間に 吾地木無の(き)夜や 夢幻や 男無産法 来巣む人は 試られぬ 夢の夢の夢の夜を 有筒顔して 何せうぞ 来巣んで 一期は夢よ ただ刳るへ ————————————————————————– 世の中は ちろりに 過ぐる ちろりちろり 何ともなやなう 何ともなやなう うき世は風波の一葉よ 何ともなやなう 何ともなやなう 人生七十 古来希なり ただ何事も かごとも 夢幻や 水の泡 笹の葉に置く 露の間に あじきなの世や 夢幻や 南無三宝 くすむ人は 見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して 何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ ————————————————————————– 【意味】 ————————————————————————– 17年前からの私の座右の銘…そして、いま34歳。 最後の一文は、よく座右の銘にする方が多いけれど、真の意味を知っている人は少ない。 |
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2月26日(木) 敦盛について
思えば此(この)の世は常の住処(すみか)にあらず 草葉(くさば)に置く白露(しらつゆ) 水に宿る月より猶(なほ)あやし 金谷(きんこく)に花を詠(えい)じ 榮花(えいぐわ)は先立つて無常の風に誘(さそ)はるる 南楼の月を弄(もてあそ)ぶ輩(ともがら)も 月に先立つて有為(うゐ)の雲に隠れり 人間(じんかん)五十年 化天(げてん)のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生(しょう)を享(う)け 滅せぬもののあるべきか 是(これ)を菩薩の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ ————————————————————————– ただし、この一節の、真の意味を理解している人はあまりいないかもしれません。 |
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12月6日(日) 村岡と實方について
たみもまた にぎわいにけり あきのたの かりておさむる かまくらのさと 長徳年間(995~999年)に藤原実方が村岡の御霊神社前(宮前)の村岡忠家の屋敷(固館)周辺を散策して詠んだ和歌。 この前にも実方が詠んだ詠があります。鎌倉時代になる前から、「鎌倉」はよく詠まれたようですね。 かきくもり なとか音せぬ ほととぎす かまくら山に みちやまとへる 鎌倉を詠んだ和歌は、 相聞の部に 「ま愛しみさ寝に吾は行く鎌倉の美奈の瀬河に潮満つなむか」 「忘れ草かりつむはかりなりにけり 跡も留めぬ鎌倉の山」 「なかめ行心の色も深からん 鎌くら山の春のはなその」 「宮ばしらふとしく立て萬代に 今もさかふる鎌倉のさと」 「昔にも立こそまされ民の戸の 烟にきはふ鎌倉の里」 「十とせあまり五とせまても住なれて なを忘られぬ鎌倉の里」 「都思ふ春の夢路もうちとけず あなかまくらの山の嵐や」 「古いえの跡とひ行は山人の たき木こるてふかまくらの里」 なども知られています。 |
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