いざ鎌倉プロジェクト-鎌倉もののふ雑記

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鎌倉時代がどんな時代だったのか、鎌倉もののふ雑記です。
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6月22日(火) 津波について

津波(河川遡上)

津波で鎌倉も大船ものみこまれる。

と、思っているのは私だけなのだろうか。
最近、鎌倉市内の津波ハザードマップ、洪水ハザードマップ、土砂災害ハザードマップなどを見ていて、
プロがつくっているのだから、正しいデータに基づいてつくられているのだろうけど、どうも信じられない。

鎌倉市にはなぜ河川遡上を踏まえたハザードマップがないのだろうか。

滑川をはじめ鎌倉にはいくつもの河川がある。河口から河川に侵入した津波が、1mの津波でも5kmは遡上するといわれている。
河川を遡上する津波は伝播速度が速くなり遡上距離も長くなる。2011年東北地方太平洋沖地震で宮城県(北上川)で河口から49km離れた町まで津波が到達し大規模洪水を起こし、旧北上川では津波を避けて避難していた小学生たちを遡上した津波がのみこむ悲惨なできごとも起きている。
利根川40km、多摩川13km、荒川28kmなど関東の深部まで到達していることから海に面していない埼玉県でも津波被害に対応する防災計画がはじめられている。

埼玉県がやっていて、なぜ海に面している鎌倉市が対策をしていないのだろうか?

画像は、何年か前に私がエクセルでつくった縄文時代の鎌倉の入江。
大昔の話ではあるが、鎌倉はかつては鎌倉湾が荏柄付近まで、佐助も笹目も長谷も鎌倉湾の入江として深く浸水していた。
粟船入江は10kmを超える入江で平戸(現在の東戸塚)までつづき、粟船(現在の大船)は笠間や田立など島をなし完全に浸水していた。

粟船入江は現在の柏尾川。かつて入江だったこれらはいまでも河川として残っている。つまり、津波が起これば遡上して大きな被害を出す可能性がある。
私が住む深沢の地には、柏尾川から新川、手広川、笛田川、大塚川と、かつて入江が深く入り浸水していたところに河川がある。が、深沢の住民で津波による被害があると感じてる人はいないかもしれない。

津波が起こったときには、海岸から離れればいいわけではない。河川からも離れなければのみこまれる可能性がある。
鵠沼、由比ガ浜は完全にのまれ、藤沢から鎌倉まで江ノ電はあっという間に流され、河川遡上がはじまると鎌倉駅も大船駅も大規模な洪水被害にあうかもしれない。
日本での津波の最大波高は38.2mだが、波高がわずか2mでも柏尾川の河川遡上は大船駅を超え、波高3mで戸塚駅を超えて柏尾へ到達する。
明応7年(1498年)9月20日の明応地震で鎌倉大仏の殿舎が流されたのもこの地図からは当然のように思われる。近年まで戸塚区の上倉田村と下倉田村は河川の氾濫がもとでたえず争いが起こっていたことも考えればこの問題は鎌倉市内だけにとどまらず横浜市だって危険。
それが鎌倉市の津波ハザードマップにも洪水ハザードマップにも全く触れられていない。いまのハザードマップ、本当に正しいのだろうか。

ちなみに、2012年に神奈川県が掲載した「明応型地震による津波浸水予測図」では、やはり鎌倉駅周辺や鎌倉大仏まで、逗子や片瀬や鵠沼も完全に津波にのみこまれている。ただし、この予測図でさえ、河川遡上のことには全く触れていない。

鎌倉市、これでいいのか?

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5月28日(木) いろは歌について

いろは歌 ※お煎餅の話ではありません(^▽^;)

日本文学史上、古代の傑作といえばこの「いろは歌」をあげる人も少なくないと思います。
七五調の48文字(現在は47文字が一般的)でできています。

【金光明最勝王經音義】
以呂波耳本へ止
千利奴流乎和加
餘多連曽津祢那
良牟有為能於久
耶万計不己衣天
阿佐伎喩女美之
恵比毛勢須

【いろは歌(原文)】七五調での48文字
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそえ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

【読み方と内容(「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」)】
色は匂へど 散りぬるを(諸行無常)
我が世誰そ 常ならむ(是生滅法)
有為の奥山 今日越えて(生滅滅已)
浅き夢見じ 酔ひもせず (寂滅為楽)

いろはにおえど ちりぬるを
わがよたれそ つねならん
ういのおくやま きょうこえて
あさきゆめみじ えいもせず

【現代語訳】
実は現代語訳は定まりません。解釈が様様です。
これを小学校や中学校で意味まで教えるのはかなり難しいのではないかと思います。
最後を「浅き夢見じ」と訓むか「浅き夢見し(見きと同義)」と訓むかによってもかなり意味が変化します。

あでやかに色づく桜の花も やがては散ってしまう
この世で誰が いつまでも勢い盛んでいられようか いや誰もいない
欲や名誉・名声にとらわれるような儚い夢をみることなく
人生 「いま」を倖せに生きよう

現在「いろは歌」がつくられた時代も作者も正確には分っていません。

「いろは歌」はもともと真言宗系統の学僧のあいだで学問的用途に使われていたことにより世間に流布しました。
真言宗においてまず有名な僧侶といえば空海(弘法大師)であることから、空海(弘法大師)によってつくられたという説がありますが、「いろは歌」は空海(弘法大師)がつくったものだという可能性はほぼありません。

①空海(弘法大師)の生没年は774~835年であり、初見(現存する最古の「いろは歌」が書かれている)である1079年の「金光明最勝王経音義(こんこうみょうさいしょうおうぎょうおんぎ)」の写本との年代の差がありすぎる点。
②970年に成立した源為憲の著書である「口遊」に字母歌「たゐに」と字母歌「あめつち」のことに触れていながら「いろは歌」について触れていない点。
③空海(弘法大師)の存命中に七五調の短歌がつくられたことは考えにくい(今様形式の歌謡が存在しなかった)点。
ほかにも否定する要素はいくつかありますが、上記のいくつかの理由によります。

さて、
いろはにほへと…一度は聴いたことあるフレーズからはじまりますよね。奥深い意味があるなんて知りませんでした。
皆さんはどんな訳(解釈)をされますか?

エヴァンゲリオンでお馴染みの高橋洋子さんのいろはうた

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5月27日(水) 髭(ひげ)について

髭(ひげ)

第8回は髭について。鎌倉時代にはどんな髭だったのか、非常に気になります。

皆さんは、口の周りに生えている毛はすべて髭(ひげ)だと思っていませんか?
実は、すべてが髭(ひげ)なわけではないのです。
髭・鬚・髯とどれも「ひげ」と訓みますが、それぞれ意味が異なります。

男性の口の上(鼻の下)いわゆる口ヒゲを髭(し)と書き、顎(あご)のヒゲを鬚(しゅ)と書き、頬(ほお)のヒゲを髯(ぜん)と書きます。

古来から、武士はヒゲを蓄えることは当然とされ、ヒゲのない武士は嘲笑されました。そのためヒゲの薄い者はつけ髭をつけたとまでいわれています。ヒゲがない武士は片輪面(かたわづら)などともいわれました。

薄い口ヒゲは動物の名を借りて泥鰌(どじょう)ひげ、頬から顎にかけて生える厳ついヒゲは豪快な姿の鍾馗(しょうき)からとって鍾馗ひげと称するなど、ヒゲの呼び名はたくさんあります。
戦国時代になると武士・公家(くげ)ともにその威厳を示すために競ってヒゲを蓄えたといわれています。
ことに一文字髭を後世、天神髭と称し、頬ヒゲは、中国の三国時代の関羽のような勇壮な姿を感じさせるところから、武士たちは頬ヒゲを好んだといわれています。画像は武士が憧れた関羽(横山光輝氏の絵)です。

ちなみに、私は現在、八文字髭です。
どれほど中国の影響があったか、日本人がどれだけ中国が好きだったか、憧れていたか、髭の文化から感じることができます。

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5月27日(水) 髪型について

総髪(髻)

何回目かもはや分からなくなってしまったので、家紋につづいてとりあえず第7回目です。今回は髪型について。
たまに話題になるのですが、平安時代や鎌倉時代の武士の髪型は総髪(そうはつ)というものです。画像はWikipediaの「総髪」です。
冠や烏帽子のなかに束ねる髪型あるいはその束ねたところを髻(もとどり)ともいいました。

なぜ丁髷(ちょんまげ)をしないのか、なぜ月代(さかやき)を剃らないのかとよく聴かれます。
それは、丁髷も剃りも鎌倉(鎌倉時代)にはなかったからなのです。

室町時代までの男性の一般的な髪型で、戦国時代の末期になると兜をかぶるときに頭が蒸れないようにと月代(さかやき)を剃る習慣が出てきて、江戸時代になると一般風俗として月代が定着します。時代劇などで頭に剃りを入れて前頭から頭頂部にかけてハゲているのは江戸時代ならではなのです。

ちなみに、ゝ髷(ちょんまげ)というのは、髪の少なくなった老人が結う小ぶりな髷のことであって、髷(まげ)すべてをゝ髷(丁髷)というわけではないようです。

いずれにしても、烏帽子なり兜をかぶるときは、しっかりと結えるぐらいまで伸ばさないといけないようです。頑張ろう(^▽^)

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5月18日(月) 北鎌倉緑の洞門について

北鎌倉緑の洞門

JR北鎌倉駅の脇にある素掘りトンネル。崩落の危険性が高いとして通行禁止となった。このトンネルが掘られたのはおよそ80年前で、横須賀線が開通したのが120年以上前なので、その後に掘られたことになる。つまり、この景観は80年の歴史がある(80年しかないと言ってもいい)。

画像は明治13年(1880年)のもの。どこがその北鎌倉緑の洞門かお分かりになるだろうか?
道はないし洞門らしきものも当然ない。

80年親しまれてきた景観、確かに壊すのはもったいない。私個人の考えは、危険性がないように補修できるのであればした方がいいと思うけれど、補修できないのであれば壊した方がいいと思う。とにかく安全第一で、残すために何かできることが具体的にあれば、その方法が知りたい。
※「通りたい」あるいは「通れないと困る」人がいることが前提の話なので、「安全」と「保存」の両立が目的ならいっそのこと完全封鎖(行き止まり)にして道をなくしてしまうのも1つの手だ。線路脇が通れないところなんていっぱいあるのだから。

あくまで個人的な考え、1人の戯言として以下の考えを綴る。

横須賀線は、日本海軍の軍港都市として知られた横須賀への連絡を目的として建設された路線であり、現在の北鎌倉駅付近では円覚寺境内を横切り、また鎌倉駅付近では鶴岡八幡宮の段葛を寸断して線路が敷設されるなど、用地買収も比較的強引に行われた。

北鎌倉駅はそもそも円覚寺の境内にある。北鎌倉駅周辺でいえば紅花弁才天社をはじめ、坂東三十三箇所の亀井観音堂をつぶし、長勝寺や薬師堂、十王堂といった円覚寺の塔頭跡をことごとくぶち壊し、尾藤谷や法泉谷など通ることさえもできない。路線は寺院の多い谷間を通すため、なくなった跡地や史跡も少なくないだろう。

何が言いたいか分かるだろうか…。
私から言わせれば、破壊に破壊を重ねた結果のトンネルだ。

以前この問題で、「鎌倉時代からある景観を壊していいものか」と問われたことがあり、その場ではコメントを差し控えたけれど、隣の線路をあるいは周りをよく観てほしい。どこに鎌倉時代からの景観なんて残っているのか。

80年の歴史が浅すぎるといっているわけではないし、残せるなら残してほしいけれど、あたかも古代からある景観を守れという声や強引な署名活動には疑問を感じる。

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5月18日(月) 家紋について

家紋

「鎧に家紋を入れないのですか?」とよく尋ねられます。
私がつくっている鎧は、平安時代から鎌倉時代にかけて(特に鎌倉初期のころ)なので、鎧などに家紋を入れる文化はないことから、入れてきませんでした。
漫画やドラマなどで、直垂に家紋が描かれていることがよくありますが、あれも実は誤りで、「大紋」という衣服は南北朝時代以降の文化です。

家紋というのは「日本固有の紋章のこと」とWikipediaにあります。日本固有とありますが、「エンブレム」「シンボル」「ブランド」という3つの言葉にも非常に近いものがあります。また、馴染みの浅い言葉ではありますが「クレスト(Crest)」も近い言葉です。

どういった点で日本固有といえるのか。

1つとしては、名字との関係性。「名字を表す紋章としての要素が強い」点は日本特有といえる1つだと思います。
自分たちがどういった氏族なのか区別をはかるために土地の名前などを自分の家名(屋号)とし、それが後に苗字になっていきます。氏族という意味で代表的なのが「源平藤橘」ですが、家紋は直接的に氏族と直結するものではなく(必ずしも「血統」に重きをおかず)、「家(土地)」に重きをおいています。
よい例が、「家(土地)」のために、自分のこどもを殺して養子を迎えたり、親子で争ったりといった点です。

武士集団というのは、よく「やくざ」と例えられることがあります。「ファミリー」というとピンとくる方もいるかもしれませんね。縄張りを守りあるいは広げ、血のつながり以上に結束力の強さが感じられます。海賊旗に描かれる「マーク」も近いものがあるかもしれません。

平安時代末期、貴族である西園寺氏が「鞘絵」「木瓜」などを、菅原氏が「梅紋」などを家紋にしたことからはじまり、鎌倉時代にかけて遅れて武家にも家紋という文化が広がっていき、鎌倉時代中期にはほとんどの武士が家紋をもっていたといわれています。
戦場における自分の働きを証明したり、名を残す自己掲示のため、「名を上げるために家紋を使用する必要」が出てきたことが発端なので、鎌倉時代にはまだ旗や鎧などには紋章を描く文化はなく(あってもほんのわずか)、鎌倉時代以後、特に戦国時代にかけて定着していきました。

画像は、鎌倉一族の家紋。鎌倉党といわれる氏族は鎌倉氏・梶原氏・大庭氏・村岡氏・長尾氏・香川氏・長江氏・俣野氏・豊田氏などいますが、すべて家紋は異なります。
同じ氏族でも家紋が異なるのは、「名字(土地)ごとに形成されたファミリーのマーク」だからで、隣の土地に住んでいる兄弟と領地争いになることもしばしばあるわけで、その区別のためなのです。

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3月16日(月) 鬨の声について

鬨の声

鬨の声 戦(いくさ)で、士気を高める目的で多数の人が一緒に叫ぶ声のこと。

鬨をつくること三ケ度…(中略)…味方にも鬨の声をぞあはせたる(『平家物語』)
三千余騎にて鬨をどつとつくりければ(『平治物語』)

中国では三国時代(208年赤壁の戦い)から戦法として行われていた。日本では平安時代に用いられた文献が残っており、それ以前は分からない。

隊将を中央に周囲を弓矢・旗・差物で固め、全軍は法螺貝を吹き太鼓鳴らし、戦はじめのときには「鬨は三度」行うとし、戦後の「勝ち鬨は一度 はじめは強く 終わりは細かるべし」と記される。
隊将もしくは副将の前進激励「鋭(えい)!!鋭(えい)!!」というかけ声に、「応(おう)!!」と呼応して軍勢が一同に声をあわせた。

『広辞苑』
合戦のはじめに全軍で発する叫び声。味方の士気を鼓舞するとともに、敵に向かって戦いの開始を告げる合図としたもの。敵味方相互に発し合い、隊将が「えいえい」と2声発すると、一同が「おう」と声をあげてあわせ、3度繰り返すのを通例とした。

鎌倉で、1,000人以上が鬨の声をあげたらどうなるだろう(^0^)

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3月15日(日) 閑吟集について

夜中は 地櫓裏に 巣刳る ちろりちろり

何と裳 男矢綯う 何とも なやなう 浮き夜は夫婦の射地葉よ

何と裳 男矢綯う 何とも なやなう 人生刺地自由 古来稀なり

ただ男尼事も かごとも 夢間穂ろ刺や 見ずの吾和 笹の葉に置く 露の間に 吾地木無の(き)夜や 

夢幻や 男無産法

来巣む人は 試られぬ 夢の夢の夢の夜を 有筒顔して

何せうぞ 来巣んで 一期は夢よ ただ刳るへ

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世の中は ちろりに 過ぐる ちろりちろり

何ともなやなう 何ともなやなう うき世は風波の一葉よ

何ともなやなう 何ともなやなう 人生七十 古来希なり

ただ何事も かごとも 夢幻や 水の泡 笹の葉に置く 露の間に あじきなの世や

夢幻や 南無三宝

くすむ人は 見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して

何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ

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【意味】
夜は幸寝て過ごすに限る ぬるりぬるりと
タコ壺が竿をワラのように綯うと 何とも良い気持ちじゃ 夫婦の幸寝は浮き夜になるよ
桃が良く楽しませてくれるよ とは言え 人生で多くの女を楽しむことは 昔から稀なことよ
男を抱くことを夢見ても 適った夜はないわ 幸寝た種水が私の桃に付くこともない つまらなぬ夜ばかり続いているわ
男なしで産む方法は 夢まぼろしに過ぎないわ
夢の妻を求めて 呼合いに来たが またもはかない 夜の夢だったよ
一生抱けないなら いまのうちにたくさん抱いておけ

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17年前からの私の座右の銘…そして、いま34歳。

最後の一文は、よく座右の銘にする方が多いけれど、真の意味を知っている人は少ない。
『閑吟集』は恋愛をうたったものが多く、この節も例外ではない。真の意味を知ったら、ほとんどの方が座右の銘にはしないかもしれない。

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2月26日(木) 敦盛について

思えば此(この)の世は常の住処(すみか)にあらず

草葉(くさば)に置く白露(しらつゆ)

水に宿る月より猶(なほ)あやし

金谷(きんこく)に花を詠(えい)じ 

榮花(えいぐわ)は先立つて無常の風に誘(さそ)はるる

南楼の月を弄(もてあそ)ぶ輩(ともがら)も 

月に先立つて有為(うゐ)の雲に隠れり

人間(じんかん)五十年

化天(げてん)のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり

一度生(しょう)を享(う)け 滅せぬもののあるべきか

是(これ)を菩薩の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

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一般にいう『敦盛』です。
出家して世を儚む平直実の詠。
平直実がわずか16歳の平敦盛を討ちとったことをずっと苦悩しつづけたことから詠まれたもの。

ただし、この一節の、真の意味を理解している人はあまりいないかもしれません。

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12月6日(日) 村岡と實方について

たみもまた にぎわいにけり あきのたの かりておさむる かまくらのさと
(民もまた 賑ひにけり 秋の田を かりておさむる かま倉の里)

長徳年間(995~999年)に藤原実方が村岡の御霊神社前(宮前)の村岡忠家の屋敷(固館)周辺を散策して詠んだ和歌。
1000年以上前のいまの時期の鎌倉をしのばせますね。村岡、そして実方(戸塚区上倉田)…馴染み深い地なだけに心にしみいります。

この前にも実方が詠んだ詠があります。鎌倉時代になる前から、「鎌倉」はよく詠まれたようですね。

かきくもり なとか音せぬ ほととぎす かまくら山に みちやまとへる
(かき曇り などか音せぬ 郭公 鎌倉山に 道やまどゑ努)

鎌倉を詠んだ和歌は、
万葉集巻十四東歌の譬喩歌(萬葉十四讀人しらぬ歌)に
「薪樵る鎌倉山の木垂る木を松と汝が言はば恋ひつつやあらむ」
(多伎木許流タキギコル 可麻久良夜麻能カマクラヤマノ 許太流木乎コタルキヲ 麻都等奈我伊波婆マツトナガイハバ 古非都追夜安良牟コヒツツヤアラム)
薪樵るは鎌で伐るので鎌倉山の枕詞、松は待つの掛詞。

相聞の部に
「鎌倉の見越しの先の岩崩の君が悔ゆべき心は持たじ」

「ま愛しみさ寝に吾は行く鎌倉の美奈の瀬河に潮満つなむか」

「忘れ草かりつむはかりなりにけり 跡も留めぬ鎌倉の山」
(藤原公任)
ただしこれは比叡山神蔵山をうたったもので鎌倉ではない。

「なかめ行心の色も深からん 鎌くら山の春のはなその」
(慈鎭和尚)

「宮ばしらふとしく立て萬代に 今もさかふる鎌倉のさと」
(『續古今』鎌倉右大臣)

「昔にも立こそまされ民の戸の 烟にきはふ鎌倉の里」
(『夫木』後藤基綱)

「十とせあまり五とせまても住なれて なを忘られぬ鎌倉の里」
(宗尊親王)

「都思ふ春の夢路もうちとけず あなかまくらの山の嵐や」
(『北國紀行』堯惠法師)

「古いえの跡とひ行は山人の たき木こるてふかまくらの里」
(『東國陣道記』玄旨法印)

なども知られています。

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