鎌倉もののふ風土記-鎌倉の歴史

鎌倉もののふ風土記-鎌倉の歴史

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旧石器時代

鎌倉の地に最初に人が住みはじめたのは、今から1万年以上前の後期旧石器時代のころと推測されています。
当時の生活の営みを示す石器としては、昭和29年(1954年)に大船小袋谷で採集された黒曜石片などがあります。
この時代は火山活動が活発な時期で、富士や箱根の山が盛んに噴煙を上げていました。


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縄文時代

縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6つに時代区分されています。
そのうち早期の土器のわずかな破片が葛原ヶ岡などのかなり高い丘の上から採集され、前期の土器片や石器・黒曜石の鏃(やじり)が二階堂の荏柄天神社の近辺などから出土しています。
縄文時代前期ごろまでは海進期で、海岸線は今よりかなり陸地の奥深くまで入り込んでいたとみられています。
鎌倉の湾も現在の鶴岡八幡宮の前や二階堂の荏柄天神社の下辺りまでおよんでいたとされています。
また、北部の大船入江は、藤沢から横浜市戸塚区・栄区の奥深くまで入り込んでいました。
縄文時代の中期には、土器は厚くなり、大型の円筒形や深鉢形なども登場しました。
この時代の土器は大船をはじめ鎌倉の各所で出土し、遺跡数が最も多いことから、温暖な気候のもと、人口も増加して居住範囲も広がってきたことが推測されます。
縄文時代後期ごろから再び気候は寒冷化し、海も後退して陸地が広がりました。
注口土器や香炉形土器など、複雑な形のものがつくられるようになりますが、このころの土器は関谷東正院・横浜国大付属小学校・中学校校庭などから発見されています。
縄文時代晩期の遺物は、鎌倉では発見されていません。
これは生活の場が台地上から低湿地近くに移ったためと思われています。


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弥生時代

弥生時代に鎌倉の海岸線はさらに後退し、現在の位置に近いところまで下がったと思われます。
鎌倉で稲作と金属器使用をともなう弥生時代の文化が確認されるのは、出土した土器からみて弥生中期ころからです。
宮ノ台式土器と呼ばれるもので、薄いつくりで赤みが強く、縄文土器に比べると模様も造形性もおとなしいものです。
遺跡では、昭和55年(1980年)雪ノ下の大蔵・南御門一帯で、滑川沿いの海抜10mほどの南向き平野部に何軒もの住居跡が発見され、大きな集落があったことが分かっています。
また、台山藤源治遺跡(北鎌倉女子学園構内)の調査で、弥生時代後期から平安時代の集落が見つかっています。


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古墳時代

古墳時代前期に盛行した前方後円墳は鎌倉市域では見られませんが、由比ヶ浜の砂丘地帯には、かつて古墳時代後期の古墳群「向原古墳群」がありました。
明治20年(1887年)に道路工事のためこの古墳群のなかの采女塚という円墳が壊され、女子像・男子像・馬・円筒などの埴輪が出土した記録があります。
古くは無常堂塚と呼ばれていた和田塚は、向原古墳群のなかで現在まで残っている唯一の高塚古墳です。
また、古墳時代後期になると、山腹や丘陵の横腹に墓穴が掘られるようになりますが、鎌倉にはこの横穴墓が多く残っています。
そのほか、古墳時代後期では山崎の水道山戸ヶ崎遺跡からかまどのついた竪穴住居も発見され、食器の種類も多くなってきたことが確認されています。


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奈良時代

奈良時代、鎌倉郡の所在する相模国の国府は現在の平塚市にあり、国分寺は現在の海老名市にあったと考えられています。
「鎌倉」の地名が記された最も古い文献は『古事記』とされています。
日本最古の歌集『万葉集』には「ま愛しみさ寝に吾は行く鎌倉の美奈の瀬川に潮満つなむか」「鎌倉の見越の崎の岩崩の君が悔ゆべき心は持たじ」「薪樵る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋ひつつや在らむ」と鎌倉が詠まれています。
また、正倉院文書にも「鎌倉郡鎌倉郷」が登場します。
昭和60年(1985年)には、御成町の御成小学校の敷地内の今小路西遺跡から「天平5年(733年)」と記された木簡が発見されており、
鎌倉郡の役所である鎌倉郡衙が所在していたことが確認されています。
奈良時代に建立されたという伝承をもつ寺社に、長谷の甘縄神明神社と長谷寺、二階堂の杉本寺があります。
鎌倉郡について詳しくは歴史・旧跡-鎌倉郡を参照ください。


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平安時代

平安時代の百科辞書である『倭妙類聚抄』によると、鎌倉郡は沼浜郷・鎌倉郷・埼立郷・荏草郷・梶原郷・尺度郷・大島郷の7つの郷からなっていたとされます。
また平安末期の文書集『天養記』に玉輪荘、鎌倉幕府関係者が編纂したといわれている歴史書『吾妻鏡』には山内荘の名が見え、鎌倉郡のなかには荘園が成立していました。
平安時代に建立されたという伝承をもつ寺社には、手広の青蓮寺、坂ノ下の御霊神社、二階堂の荏柄天神社があります。
御霊神社は、鎌倉景政(鎌倉権五郎)を祭神としています。
源氏と鎌倉の関係は、源頼義からはじまります。
源頼信源頼義父子が長元4年(1031年)に房総半島の平忠常の乱を平定したときに、それ以前に乱の平定に失敗していた桓武平氏の平直方源頼義の武芸を認めて、源頼義を娘婿に迎え鎌倉の屋敷を譲ったといいます。
これによって平直方に従属する相模国の武士たちも、源頼義と緊密な関係を結ぶことになります。
その後、陸奥守に任じられた源頼義は康平5年(1062年)に、長年にわたって抵抗をつづけた陸奥の豪族安倍氏を討ち(前九年の役)、翌年、由比郷に由比若宮(現在の元八幡)を創建しました。
これは源頼義が陸奥国におもむくにあたって勝利を祈願した源氏の氏神である山城国(京都府)の石清水八幡宮を勧請したものです。
永保元年(1081年)、この由比若宮の社殿を修理したのが源頼義平直方の娘との間に生まれた源義家でした。
翌々年、源義家は奥羽地方の豪族清原氏の内紛に介入して出兵(後三年の役)しました。
『奥州後三年記』にはこのとき鎌倉景政(鎌倉権五郎)源義家に従って出陣し活躍した話が見えます。
合戦後、朝廷から恩賞が出なかったため、源義家が従軍した坂東武士たちに私財から恩賞を与えたことで、彼らの信頼をさらに深めたといわれています。
天養元年(1144年)、源義家の曾孫源義朝が現在の藤沢・茅ヶ崎一帯にあたる大庭御厨へ侵入するという事件が起こっています。
当時、源義朝は「鎌倉之楯(寿福寺付近にあった居館)」を拠点に東国で活動していたのです。
源義朝が鎌倉を委ねた長男源義平は、三浦郡を本拠とする有力武士三浦義明の娘との間に生まれた子で、「鎌倉悪源太」と称したと伝えられています。
保元元年(1156年)、京都では後白河天皇崇徳上皇、さらには摂関家(藤原氏)内部の対立から保元の乱が起こりました。
このとき、源義朝平清盛とともに後白河天皇方について勝者となりましたが、3年後には後白河院の近臣藤原信頼と結んで兵を挙げ、平清盛軍と戦って敗死しました(平治の乱)。
源義平も斬首されました。
源義朝の挙兵については、保元の乱での恩賞をはじめ、何かにつけて平氏に後れをとっていた源義朝の不満からといわれていましたが、藤原信頼源義朝の拠点の1つ武蔵国の国守であったことなど両者の深い関係が注目されています。


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鎌倉時代

治承4年(1180年)8月、源義朝の子源頼朝が配流先の伊豆国(静岡県)で打倒平氏の兵を挙げます。
先の平治の乱のさいに捕えられ、伊豆国へ流されてから20年後のことでした。
源頼朝は、石橋山合戦で平氏方の大庭景親に敗れはしたものの、海路で安房国(千葉県)に渡り、房総地方で千葉氏や上総氏を味方につけました。
武蔵国をへて鎌倉に入った源頼朝は、同年12月に新築の大蔵御所(現在の清泉小学校校内)に移り、関東武士たちから「鎌倉の主(『吾妻鏡』)」と仰がれました。
源頼朝のもとへの彼らの参集は、祖父以来の清和源氏とのつながりもありますが、何よりも平氏政権下で互いに勢力争いをくりひろげていた武士団によって、源頼朝が新たな権威とみなされたからでした。
元暦2年(1185年)、平氏を滅ぼした源頼朝は、4年後には彼と不和となって奥州平泉にかくまわれていた弟源義経藤原泰衡に討たせ、ついで藤原泰衡を滅ぼした(奥州合戦)のち、建久3年(1192年)には征夷大将軍に任ぜられました。
また源頼朝は、各国に御家人を統率する守護を設置し、没収した敵方の武士の領地には地頭を置きました。
源頼朝の鎌倉入り以後、同地を本拠地とする武家政権の鎌倉幕府は、こうして成立していきました。
鎌倉は、武家政権の中心地として、元弘3年(1333年)に北條氏の嫡流の家督である得宗(北條義時の法名徳崇に由来)の北條高時らが滅亡するまでのおよそ150年間繁栄しました。
源頼朝が鎌倉を選んだ理由は、源氏と深いつながりをもち、一方が海にひらけて三方が山に囲まれた防禦に適した地形であることなどがあげられます。
源頼朝は、由比若宮を小林郷に移し、鶴岡八幡宮を町の中心に据えて、若宮大路を整備しました。
また、御家人を統率する侍所、政務を担当する公文所(のちに政所の一部局となる)、訴訟を担当する問注所が設置され、大蔵幕府の周辺には御家人の居館が配置されました。
そのほか宗教関係では、源頼朝によって、父源義朝の菩提を弔うための勝長寿院と内乱の戦死者を鎮魂するための永福寺が建立されています。
建久10年(1199年)に源頼朝が死去し、2代将軍となった長子源頼家は、妻の父である比企能員との関係を強め、幕政の主導権を握ろうとする祖父の北條時政や母の北條政子と対立しました。
このため建仁3年(1203年)、北條時政は比企氏を滅ぼすとともに、源頼家を将軍職から引退させ、翌年、幽閉先の伊豆国の修禅寺で暗殺しました。
源頼家に代わって弟源実朝が3代将軍になると、母の北條政子と叔父の北條義時が政治を補佐しました。
政所の別当(長官)で、執権と呼ばれた父北條時政のあとを継いだ北條義時は、建暦3年(1213年)、侍所別当の和田義盛を滅ぼして(和田合戦)、両別当を兼ね、確実に地位を固めていきました。
建保7年(1219年)、前年に右大臣に任じられた将軍源実朝が、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀式のさい、甥の公暁(源頼家の子)によって暗殺されるという大事件が起こりました。
事件の黒幕としては、公暁を将軍職につけて北條氏にとってかわろうとした公暁の乳母の夫三浦義村、または源氏の断絶をはかった北條義時など様々な説があります。
源実朝暗殺により源氏将軍が3代で断絶したあと、「尼将軍」と呼ばれ、幕府の実質的指導者であった北條政子は、将軍後継者として源頼朝の遠縁にあたる藤原道家(九條道家)の子三寅(藤原頼経)を鎌倉に迎えました。
源実朝は、藤原定家に師事して和歌に親しみ、家集『金槐和歌集』を編むなど、京風文化の摂取に積極的で、また後鳥羽上皇とも親密な関係にありました。
このため、源実朝の死は朝廷・幕府関係に大きな影響をもたらすことになり、承久3年(1221年)には、後鳥羽上皇が二代執権北條義時追討の命令を発して挙兵し、承久の乱が起こりました。
戦いは幕府軍の勝利で終結しましたが、御家人たちの結束を訴えた北條政子の呼びかけは有名です。
嘉禄元年(1225年)に北條政子が死去すると、3代執権北條泰時は、元服させた藤原頼経を将軍に任官させるとともに、将軍御所を大蔵郷から宇都宮辻子に移しました。
北條泰時は、最初の武家の法典である御成敗式目(貞永式目)の制定や和賀江嶋の築港の支援、巨福呂坂や朝夷奈切通などの整備を行いました。
北條泰時の政治の特色は、執権の補佐役である連署をおき、有力御家人や実務官僚11人を評定衆として重要政務や裁判の判決にあたらせるなど、合議制を採用したことにありました(執権政治)。
孫の5代執権北條時頼北條泰時の政治を受け継ぎ、裁判の迅速化のために引付衆をおきましたが、一方で、宝治元年(1247年)に有力御家人の三浦泰村を滅ぼすなどして(宝治合戦)、
その政治はしだいに北條氏独裁の傾向を帯びるようになっていきました。
また北條時頼は、藤原将軍(摂家)にかえて後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を将軍に迎えました。
これ以後、幕府は滅亡まで親王を将軍としました。
8代執権北條時宗の時代には、文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の二度にわたり、元の軍隊(モンゴル軍)が日本列島に襲来しました(文永の役・弘安の役)。
元は二度とも撤退していきました。その合戦の様子は『蒙古襲来絵巻』に詳しく描かれています。
なお、文永の役の翌年に北條時宗は元の死者である杜世忠らを龍口で斬っています。
この時期、ますます独裁色を強めていた北條氏は、幕府の重要政務を、得宗である北條時宗を中心とした「深秘の沙汰」「寄合」と呼ばれる会議で決定するようになっていました(得宗専制政治)。
北條時宗が死去し、若年の9代執権北條貞時があとを継ぐと、北條貞時の外戚で、積極的な政治改革を進めていた安達泰盛北條貞時の家臣である平頼綱が対立し、
弘安8年(1285年)、平頼綱により安達泰盛が滅ぼされるという霜月騒動が起こりました。
しかし、正応6年(1293年)、成長した北條貞時によって平頼綱も滅ぼされました。
鎌倉時代の後半には、三度目のモンゴル来襲に備えた西国の防備などのために、御家人の経済負担が増えたため、御家人の間に幕府への不満が高まりました。
元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の倒幕運動に呼応して、足利尊氏の子千寿王(足利義詮)を擁した新田義貞らにより鎌倉は攻撃され、洲崎や極楽寺坂での激しい攻防戦ののちに、
得宗の14代執権北條高時ら北條氏の一門と家臣が自害して鎌倉は陥落しました。
京都では、六波羅探題が足利尊氏によって攻撃されました。こうして鎌倉幕府は滅亡しました。
紀行文『東関紀行』には、二階堂と呼ばれた永福寺や鶴岡八幡宮、大仏などについての記述がみられます。
また、東の六浦、南の小坪、西の稲村ヶ崎、北の山内が鎌倉の四境とされ、いわゆる七口と呼ばれる切通(極楽寺坂・大仏坂・化粧坂・巨福呂坂・朝夷奈坂・名越坂・亀ヶ谷坂)が出入口として利用されました。
鎌倉の海岸部は、紀行文『海道記』に、由比ヶ浜には「数百艘の船がつながれていて、近江国の大津浦のようである」、また「千万の家が軒を並べていることから、木津・宇治・桂の三川が合流する大淀渡のようである」などと記されており、
繁栄した様子がうかがえます。
貞永元年(1232年)の和賀江嶋の築港により、ますます海上交易は盛んに行われるようになりました。
中国大陸から伝えられた禅宗は、武家社会に広く受容されました。
臨済宗を伝えた栄西は、北條政子の発願により建立された寿福寺の開山になっています。
中国大陸出身の渡来僧も鎌倉で活動しており、蘭渓道隆北條時頼が建立した建長寺の開山に、無学祖元北條時宗が建立した円覚寺の開山となっています。
また、日蓮宗を開いた日蓮は、文応元年(1260年)に、法華経の信仰や念仏の禁止による国土の安穏を説いた『立正安国論』を北條時頼に提出しましたが、その献策は幕府に受け入れられませんでした。


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室町時代

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による「建武の新政」がはじまり、鎌倉には、4歳の皇子成良親王を奉じて足利尊氏の弟足利直義が下向してきました。
しかし建武2年(1335年)に北條高時の遺児北條時行が幕府復活をはかって信濃国で挙兵し、足利直義軍を武蔵国で撃破し鎌倉に入りました(中先代の乱)。
このとき、足利直義は鎌倉に流されていた後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王を殺して鎌倉から脱出しています。
足利直義敗北の報を受けた足利尊氏は鎌倉を奪回します。足利尊氏のもとへは建武の新政に不満をもつ多数の武士が参集したといわれます。
これに対して後醍醐天皇は、足利尊氏を討つために新田義貞を派遣しましたが、足利尊氏は新田軍を撃破して上洛しました。
その後も合戦はつづきましたが、最終的には足利尊氏が勝利し、室町幕府を開きます。
足利尊氏は、幕府を開くにあたって鎌倉も候補地としてあげるなど、鎌倉を武家政権の要地と考えていました。
このため鎌倉府をおいて、子の足利基氏を長官(鎌倉公方)とし、いわゆる関東八ヶ国に甲斐国・伊豆国をあわせた10ヶ国を統治させました(のちに陸奥国・出羽国を含めた)。
鎌倉公方の補佐役を関東管領といい、貞治2年/正平18年(1363年)に上杉憲顕が任じられてから以後、上杉氏(犬懸・山内・扇谷・宅間の4家のうち、当初は犬懸・山内氏が任じられました)が世襲してきました。
武士政権の本拠地が京都に移ってからも、鎌倉府がおかれていたことにより、鎌倉は東国の中心としてにぎわっていました。
商工業は依然として盛んで、材木座・博労座などいくつかの座もあったようです。
また鎌倉府が行った年中行事などを記した『鎌倉年中行事(殿中以下年中行事)』などからは、6月の鎌倉祇園会の様子もうかがうことができます。
鎌倉府の体制が確立すると、鎌倉公方はしだいに自立性を強め、京都の将軍と鋭く対立するようになりました。
両者の緊張関係が頂点に達したのは、応永23年(1416年)におこった前関東管領の「上杉禅秀(上杉氏憲)の乱」鎮圧後、権力を強めていった鎌倉公方足利持氏と、これも京都において専制政治を行っていた将軍足利義教の時代です。
永享10年(1438年)に足利持氏がそれまで鎌倉と京都の調停にあたってきた関東管領上杉憲実を討とうとしたとき、将軍足利義教が上杉氏支援の軍勢を派遣し、翌年、足利持氏を二階堂にあった永安寺で自害させ(永享の乱)、対立は終わりました。
永享の乱後、長らく鎌倉公方は空位になっていましたが、文安4年(1447年)に幕府は足利持氏の遺児足利成氏を鎌倉公方に就任させ、また上杉憲実の子上杉憲忠を関東管領としました。
しかし、享徳3年(1454年)、足利成氏上杉憲忠を謀殺したことをきっかけに、鎌倉公方軍と上杉軍との攻防が関東各地に拡がり(享徳の乱)、関東はいち早く戦国の世に入りました。
戦乱のなかで、足利成氏は下総国古賀に本拠を移し、古河公方よ呼ばれました。
これに対して将軍足利義政は、弟の足利政智を関東に派遣しましたが鎌倉に入ることができず、足利政知は伊豆国の堀越にとどまって堀越公方よ呼ばれるようになりました。
鎌倉は関東管領上杉氏が支配していたものの、すべて東国の政治の中心としての役割を果たせず衰退していくことになります。

 

戦国時代

鎌倉は、扇谷上杉氏に従った三浦氏(鎌倉幕府の有力御家人三浦氏の子孫)に支配されました。
伊豆国の堀越公方足利政知の子足利茶々丸を滅ぼした伊勢盛時は、小田原城を本拠に相模進出をはかりました。
永正9年(1512年)に北條盛時三浦義同を住吉城に敗走させ、鎌倉を支配下におさめました。
翌年、伊勢盛時は三崎の新井城で三浦義同を滅ぼしています。
鎌倉は、小田原北條氏(後北條氏)に支配されるようになりました。
鎌倉に入った伊勢盛時は「枯る樹にまた花の木を植ゑそへてもとの都になしてこそみめ」と鎌倉の復興の意思を詠んだといいます。
伊勢盛時の子伊勢氏綱は、鶴岡八幡宮の再建を行っています。
小田原北條氏は、玉縄城を築き、一族を城主として配置しました。
玉縄城は、三浦半島や武蔵国に通じる主要な城として重視されました。
大永6年(1526年)には、安房国の里見義堯が海路を利用して鎌倉を攻めて、北條氏綱(伊勢氏綱)と合戦しています。
永禄4年(1561年)には、越後国の長尾景虎が関東に侵攻して小田原城を包囲しましたが、長尾景虎は鎌倉に入り、鶴岡八幡宮で山内上杉氏の家名と関東管領を継承しました。
この時代の鎌倉には、鍛冶や大工などの職人が多数活動していたといいます。
小田原北條氏は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉によって滅ぼされました。
玉縄城主の北條氏勝(福島氏勝)も降伏し、城を明け渡しています。
豊臣秀吉は、小田原北條氏の旧領地を徳川家康に与え、鶴岡八幡宮に参詣して再建を命じました。

 

江戸時代

天正18年(1590年)8月、江戸城に入った徳川家康は、その翌年、中世以来の法灯を誇る寺社の多く存在する旧鎌倉の村々(雪ノ下・扇谷・長谷・大町・小町・西御門・浄明寺・二階堂・十二所・乱橋・材木座・極楽寺・坂ノ下・山内の14ヶ村)の大部分を、
鶴岡八幡宮や建長寺・円覚寺・東慶寺などの有力寺社に寄進し、残余を徳川氏の直轄領としました。
一方、旧鎌倉の周辺の村々(岡本・植木・城廻・関谷・津・常盤・笛田・手広・梶原・寺分・上町屋・山崎・大船・台・腰越・小袋谷・今泉・岩瀬の18ヶ村)は、大半が直轄領や旗本領などに宛がわれました。
玉縄城落城後、本多正信松平正綱が入り、一時城下の村々は預かり地となりましたが、元和5年(1619年)に玉縄城が廃城となり、旗本領や大名領などに転じました。
また、植木村が正徳元年(1711年)に新井白石の知行地に、山崎村が元禄年間(1688~1704年)に柳沢吉保の所領に設定されたこともありました。
鎌倉は江戸に近く寺社が多いことから、金沢八景や江の島、大山とともに物見遊山の地として知られ、
江戸時代中期ごろから多くの参詣者や巡覧者が訪れました。
このため、地誌や案内誌・絵図などが多数刊行されて、さらに鎌倉が喧伝されました。
鎌倉の寺社の多くは、将軍の朱印状によって寺社領地を保証されて経営を進めましたが、大社寺をのぞき、大半の寺社はその領地が零細でした。
このため堂祠の再建費や修復費の捻出のため、鎌倉の寺社は諸国勧化や江戸の出開帳を競って開催しました。
江戸時代の後半になると、相模湾にも異国船が出没するようになって鎌倉の地も緊迫しました。
幕府は江戸湾・相模湾の沿岸防備を、会津藩や川越藩などに命じたため、鎌倉の村々は両藩の藩領地となったり、
また彦根藩の預かり地となるなど幕末期に所領が転変としました。
安政6年(1859年)の横浜開港後、鎌倉を訪れる外国人の往来が増え、元治元年(1864年)にはイギリス人が下馬付近で浪人に殺傷される事件も起きました。

 

明治時代

明治維新により、鎌倉は明治元年(1868年)、神奈川県に属しました。
新政府が公布した神仏分離に関する布告と廃仏毀釈によって神仏混淆であった鶴岡八幡宮では、多宝塔などの仏教関係の御堂や伽藍が破壊されるなどしました。
各寺社もまた上知令によって境内以外の土地を失い、疲弊していきました。
明治22年(1889年)に町村制が施行され、現在の鎌倉市地域は鎌倉郡に編入となり、東鎌倉村・西鎌倉村・腰越津村・小坂村・深沢村・玉縄村の6つの村になりました。
さらに東鎌倉村と西鎌倉村が合併して鎌倉郡鎌倉町となったのは明治27年(1894年)のことです。
ドイツ人の医学者ベルツは明治13年(1880年)に「鎌倉は保養地として最適な地である」と紹介し、日本の衛生行政の充実に力を尽くした長与専斎も「海水浴場として理想的な海である」と紹介したことから、
保養地・別荘地としての鎌倉が全国的にも知られるようになりました。
明治22年(1889年)、大船と横須賀間に横須賀線が開通し、鎌倉は保養地・別荘地としてさらに発展していきました。
明治35年(1902年)、江ノ島電気鉄道が藤沢から片瀬まで開通し、明治43年(1910年)には鎌倉までの全線が完成しました。

 

大正・昭和時代(戦前)

当時の町の発展に大きな貢献をした鎌倉同人会は大正4年(1915年)に発足しました。
鎌倉の貴重な文化道産の保護・保存をはじめ、街灯の設置、駅や郵便局・鎌倉国宝館などの公共施設の整備・設置などの事業活動を行っています。
また、鎌倉青年会(鎌倉青年団)も、大正6年(1917年)から、鎌倉の文化遺産を市民や観光客に分かりやすく紹介するため、市内の大蔵幕府跡などに旧跡案内の石碑を建てる活動を行い、およそ80基建立しました。
同年、鎌倉ではじめてタクシーとバスの営業がはじまりました。
大正9年(1920年)に行われた第1回国勢調査での鎌倉町の人口はおよそ18,252人、戸数3,716戸でした。
大正12年(1923年)に起こった関東大震災では、大きな打撃を受けました。
『鎌倉震災誌』によれば、およそ3,000戸が全半壊し、火災と津波により500戸あまりが流出・焼失し、死者は412人、重傷者341人にのぼりました。
寺社も被害を受け、これをきっかけに貴重な文化財を守るために鎌倉国宝館の建設が計画され、昭和3年(1928年)に開館しました。
昭和5年(1930年)、鎌倉町の人口は26,645人となりました。
翌年、腰越津村が腰越町になり、昭和8年(1933年)には、小坂村と玉縄村が合併して大船町が誕生しました。
このころから市制施行へ向けての準備がはじまり、昭和14年(1939年)、鎌倉町と腰越町が合併して鎌倉市が誕生しました。
昭和9年(1934年)には、作家久米正雄大佛次郎らをはじめ文化人を中心とした「鎌倉カーニバル」がはじまり、「海の銀座」とまでいわれた鎌倉の浜辺と同様に、
鎌倉の夏の風物詩として全国的に知られるようになります。
久米正雄は町議も務めました。また大佛次郎は鎌倉女学校(現鎌倉女学院)の教壇にも立ちました。
昭和11年(1936年)には、久米正雄大佛次郎里見弴などの鎌倉在住の作家によって鎌倉ペンクラブ(会長久米正雄)も結成されました。
また、大船には東京の蒲田から松竹撮影所が移転し、松竹大船撮影所として発展しました。
「大船調」といわれる多くの作品がつくられるようになりました(松竹大船撮影所は平成12年(2000年)に閉所しました)。
このころから大船には軍需工場も建てられるようになり、昭和16年(1941年)には第二次世界大戦がはじまりました。
軍需物資の供給には寺院の梵鐘なども集められました。
昭和20年(1945年)の5月には横浜大空襲がありましたが、鎌倉はさいわい空襲を免れ、8月に戦争は終わりました。

 

昭和・平成時代(戦後)

戦後間もなく、昭和21年(1946年)、地域社会・経済の立て直しのために鎌倉商工会議所が創立されました。
昭和23年(1948年)、鎌倉市は深沢村と大船町を編入して人口80,000人の都市となりました。
昭和27年(1952年)にはササリンドウが市章に制定されました。
昭和30年代に入ると、東京への通勤圏として、宅地造成が盛んに行われ、人口も増加しました。
鎌倉市は、大船・深沢地域に積極的に工場を誘致して工業化を促すなど市の発展をはかりましたが、
そのために緑が失われ自然環境が破壊されて悪化するなど環境面での対策が急務となりました。
昭和33年(1958年)には、世界の恒久平和を願い、多くの歴史的遺産と文化的遺産をもつ平和都市であることをうたった平和都市宣言を行いました。
昭和39年(1964年)には鎌倉風致保存会が発足しました。
昭和41年(1966年)には「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(以下「古都保存法」)」が成立し、
歴史的風土保存区域での建築物の新築・増築や土地の造成工事などの行為は届け出制になり、
歴史的風土特別保存地区では厳しい許可制になりました。
「古都保存法」の制定が実現するきっかけになったのは、「御谷騒動」と呼ばれる鶴岡八幡宮の後背部の緑地開発をめぐっての開発側と反対派の攻防でした。
運動には、大佛次郎ら著名人をはじめ多くの市民が加わりました。
風致保存会は昭和39年(1964年)、御谷騒動の舞台となった緑地を買いとりました。
これが日本ではじめての「ナショナルトラスト運動」となりました。
昭和48年(1973年)には、自然環境と歴史的遺産を保護する文化都市として発展することを願い、市民憲章が制定されました。
昭和60年(1985年)には鎌倉文学館が、平成5年(1993年)には、大船に鎌倉芸術館が開館しました。
平成元年(1989年)には、市制50周年にあたり、多くの文化財の公開や講演会などのイベントが行われました。
日本で最初のナショナルトラスト運動の地として、自然景観や風土・歴史・文化遺産の保護と育成に力を入れているなか、
鎌倉市は現在官民一体となって、「武家の古都・鎌倉」としてユネスコの世界遺産への登録へ向けて積極的な働きかけを行っています。
21世紀、「古都としての風格を保ちながら、生きる喜びと新しい魅力を創造するまち(第三次鎌倉市総合計画)」の実現に向け、
少子化・高齢化という課題を抱えながら、鎌倉は新しい時代の日本を代表する街を目指して歩んでいます。

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