鎌倉の伝説

鎌倉の伝説

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鎌倉には正史以外にも、さまざまな伝説が伝えられています。
このような伝説が生まれた理由や時代的背景はいまとなっては定かではありませんが、伝説の世界に一歩足を踏み入れることで、鎌倉散策に格段に広がりをもたせてくれます。

白鷺が導いた境内地

8代執権北條時宗が、2度にわたる元寇の両軍にわたる死者を慰霊するため、新しい寺を創建しようと寺地を探していました。
なかなか適地が見つからないでいると、鶴岡八幡宮の神霊が白鷺に姿を変えて北鎌倉の地に導いてくれました。
この鷺が舞い降りた場所がいまも円覚寺の門前にある白鷺池だといわれています。

諸国行脚を重ねた北條時頼

鎌倉幕府の5代執権北條時頼の廻国伝説を伝えるのが、謡曲「鉢の木」です。
旅僧姿の北條時頼が、ある日大雪に道を見失ってしまいました。
夕暮れどきであったため、荒れ果てた家に泊めてもらうことにしました。家主は北條時頼とも知らずに粟飯をふるまい、暖をとるため薪の代わりに秘蔵の梅・松・桜の鉢の木を炉にくべてくれました。
素性を尋ねると、もとは佐野荘の領主で、いまは一族に土地を奪われ落ちぶれているのだといいます。
しかし、いざ鎌倉というときに、やせ馬にまたがっても一番に馳せ参じる覚悟だと鎌倉武士の心得を語るのでした。
後年、軍勢を集めた北條時頼は、言葉に違わず一番に馳せ参じたこの武士の忠節ぶりに感激し、鉢の木にちなんで梅田・松枝・桜井の各荘を領地として与えたといいます。
詳しくは鉢木(はちのき)ページ

建長寺三門(山門)再建を勧進した狸

建長寺三門再建に際しては、境内に住む狸が日ごろのお礼にと和尚に化けて勧進したという伝説があります。

勧進僧が武蔵国板橋宿に泊まった夜、宿の主人が通りがかると、障子にぼんやり狸の姿が映っています。
そこで御用伺いをたてるため障子を開けてみると、立派な和尚さんが座っていました。
翌日の練馬宿でも、狸和尚は風呂で湯桶を使って尻尾を洗っている姿を中居さんに見られてしまうが、信心深い宿のおかみさんのおかげでことなきを得ました。
しかし「勧進僧のなかに狸和尚がいるらしい」という噂が広まっていきます。
ある日、狸和尚が青梅街道で籠に揺られていました。
噂を聞いていた籠かきたちは狸和尚ではないかと、犬を連れてきて籠にけしかけてみました。
すると、犬は籠のなかから和尚を引きずり出して噛み殺してしまいました。
しばらくすると和尚の姿が狸に変わり正体を現しました。

夜毎に出歩く龍

建長寺が創建されるまで、宋から来日した蘭渓道隆が滞在していたために常楽寺は元建長寺の異名があります。
常楽寺の仏殿天井には狩野雪信が描いたといわれる「雲龍」があります。
この龍は毎日夜になると水を飲みに出かけるため、お堂がミシミシとなって困っていました。
そこで出歩かないようにその両目を塗りつぶしたところ、音がしなくなったという逸話が残されています。
改めて眺めてみると、なるほど目には瞳が描かれていません。

源実朝暗殺の舞台 大イチョウ

鎌倉の伝説のなかで、倒伏してしまいましが、隠れ大イチョウほど有名な話はありません。
承久元年(1219年)1月27日、3代将軍源実朝の右大臣拝賀の日は雪が積もっていました。
鶴岡八幡宮境内で式を終えた夕刻、源実朝は亡き兄源頼家の子公暁に暗殺されました。
このとき、公暁は大イチョウの陰に隠れていたといわれますが、この話が文献上にはじめて出てくるのは貞享2年(1685年)に徳川光圀の命により編纂された『新編鎌倉志』です。
暗殺は史実ですが「隠れイチョウ」は江戸時代に創作された伝説なのです。
拝賀の式に際し、剣持ち役の2代執権北條義時は、白い犬の姿を見て気分が悪くなり、中原仲章に役を代わってもらい屋敷に戻ったため、暗殺の危機を免れたと『吾妻鏡』には記されています。
この犬は覚園寺の薬師如来を守護する十二神将像のうちの一体、戌神将の化身だといいます。
戌神将が白い犬に姿を変えて北條義時に暗殺の危機を告げたのだと記されています。

どこも苦地蔵

瑞泉寺庭園のすぐ前に、こじんまりした地蔵堂があります。
祀られている地蔵菩薩は、残されている伝説から「どこも苦地蔵」と呼ばれています。
昔、この地蔵は扇谷にあり、地蔵堂を守る堂守が貧しさのあまり逃げだそうとしました。
すると、地蔵菩薩が夢枕に現れ「どこも、どこも」と告げました。
堂守は「たとえ逃れても、苦しいのはどこも同じ」だと悟ったといいます。

衣張山の伝説

源頼朝の居宅大倉の館から南東の方角を望と、衣張山を展望できます。
ジリジリと夏の日差しが照りつけるある日、源頼朝はこの山を白絹で覆わせて雪山に見立て、館から眺めながらうたを詠み、酒宴をひらいて夏の涼をとったというのです。
山の名はこの伝説に由来するのだといいます。

頬に焼き印のある阿弥陀像

光触寺の本尊阿弥陀如来像には次のような伝説が残されています。
源頼朝に仕えていた町の局が、仏師運慶に阿弥陀如来を彫るように依頼しましたが、信心は長くつづきませんでした。
毎日熱心に拝んでいたのは万歳法師という下働きの法師だけでした。
ある日、家のものがなくなると、万歳法師に疑いがかけられました。
局は怒って万歳法師の左の頬に焼き印を捺すよう家人に命じました。
しかし、何度捺しても万歳法師の頬に跡が残りませんでした。
翌日、局の夢枕に阿弥陀如来が現れ、「なぜわたしの頬に焼き印を捺すのか」というので、阿弥陀如来の頬を見ると焼き印がついていました。
「阿弥陀さまが身代わりになられたのだ」と局は悔いたといいます。

青砥藤綱の銭拾い伝説

5代執権北條時頼に仕えて活躍したという青砥藤綱が、ある夜幕府に出向く途中、東勝寺橋の上で、袋に入れておいた10文の銭を滑川に落としてしまいました。
青砥藤綱は家来に50文で松明を買ってこさせ、沢床を照らして探しだしました。
この話を聞いた同僚が「青砥藤綱は勘定知らずだ。10文を探すのに50文を使って損をしている」と笑いました。
すると「常人の勘定はそうだろう。しかし銭が川に沈んだままでは、永久に使われることはない。50文で松明を買えば、それを造っている町民や、商っている商家も利益を得られる」と、笑った人々を諭したといいます。

美談を伝えるやぐら

釈迦堂切通の上、初代執権北條時政の屋敷跡近くに「唐糸やぐら」があります。
木曽義仲の家臣手塚光盛(手塚太郎)の娘唐糸は琴の名手として源頼朝の館に仕えていましたが、木曽義仲追討計画を知ると源頼朝の命を狙っていました。
ある夜、北條政子の供で湯治に出かけた唐糸は、不運にも脱衣場に置いた脇差を発見されてしまいます。
伝家の名刀であったためにことのしだいがばれて捕らえられてしまいました。
それを聞いた信濃国の留守宅にいた唐糸の娘万寿姫は鎌倉へやってきます。
身分を隠して源頼朝の館に奉公しているうちに、源頼朝の前で舞う機会に恵まれます。
美しい万寿の舞を源頼朝が賞玩して褒美をとらせるというと、万寿は「金銀にかえて私を母の身代わりとして牢に入れてください」と申し出ました。
やがて許しを得た母娘は、そろって信濃国に帰っていったといいます。

日蓮を導いた白猿

日蓮は、真言宗や禅宗・律宗・浄土宗などの邪教を廃し、法華経に帰依しなければ「飢饉・兵革・疫病の3災と、疾病・他国侵害・謀反・星宿変怪・日月薄触・暴風雨・旱魃の7難におかされる」と説いて、『立正安国論』を前執権北條時頼に上書しました。
するとある夜、何1,000人という念仏門徒が、松葉ヶ谷の草庵を焼き討ちにしました。
このとき、どこからともかく白猿が現れて、夜道を裏山の洞窟へと導いてくれました。
おかげで日蓮は九死に一生を得たというのです。
安國論寺には、この伝説の洞窟「南面窟」が今も残されています。

源翁禅師の殺生石伝説

鳥羽天皇の時代、宮中で宴を開いていると急に屋敷が鳴動し、帝に侍っていた玉藻前が金色の光を発しました。
鳥羽天皇は気絶し、以来重い病にかかってしまいました。
玉藻前は実は狐の化身で、これがばれると逃げ去りました。
追っ手が那須野原で射殺すると、鳥羽天皇の病も全快しました。
ところが、那須野でこの狐の霊が石と化し、その石に触れると人や鳥獣がみな死んでしまうので、殺生石として恐れられるようになりました。
そこで海蔵寺の開山心昭空外(源翁禅師)が経を読みながら鉄の杖で一撃を加えると、法力で殺生石は砕け散り、災いも止まったのだといいます。

龍神に祈った新田義貞

『太平記』によれば、新田義貞は大軍を率いて鎌倉に迫りました。
ところが稲村ヶ崎から鎌倉につづく道は狭く、波打際には逆茂木が並べられ、沖合には北條軍の大船数100隻が、横矢を射かけて侵入を防ぐために並んでいたといいます。
とても突破できるような状況ではありませんでしたが、新田義貞は腰に差していた黄金造りの太刀を抜いて海中に投げ込み、海に向かって「わが軍のために道を開きたまえ」と龍神に祈りました。
するとその日の夜、20町余りも潮が引き、横矢を射かけようとしていた船も遥か遠くへ行ってしまいました。
軍勢はなだれをうったように干潟を渡り、鎌倉へ攻め込んだと伝えられています。

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