鎌倉もののふ風土記-鎌倉の海(海の旧跡)

鎌倉もののふ風土記-鎌倉の海(海の旧跡)

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鎌倉には海の旧跡が多く残っています。南が海に向かってひらかれている鎌倉の地形は、各地の港を結ぶ海上交易ルートの拠点としても利便性が高かったといわれています。
現存する築港遺跡としては、わが国で最も古い和賀江嶋があります。また新田義貞の鎌倉攻めの舞台となった古戦場稲村ヶ崎などをめぐっては、鎌倉時代から数々の歴史上の物語が生まれました。
鎌倉時代には、材木座(和賀)上河原付近まで海が入り込んでいたようです。
当時はいまの一の鳥居から西側を前浜、東側を西浜(和賀)と呼んでいました。
入江については歴史・旧跡-鎌倉の入江ページを参照ください。


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七里ヶ浜

稲村ヶ崎から腰越・小動岬までのおよそ2.9kmの海岸です。
名の由来は諸説あります。『新編鎌倉志』によると、古制の関東道の六町一里制では七里になることからきているとされ、別名、七里灘・七里浜・七里浦ともいわれています。
また、「七里」という言葉には、本来は長い道のりという意味があり、稲村ヶ崎と小動岬の間の距離があることからきているともいわれています。
江戸時代には富士山を望む景勝地として多くの浮世絵に描かれました。
また鎌倉で刀や包丁などの鍛冶が盛んになったのは、砂鉄を多く含んだこの浜の砂を利用できたからだともいわれています。
明治43年(1910年)に逗子開成中学の生徒ら12人が七里ヶ浜で遭難死した海難事故があり、慰霊・追悼のために生まれたうた「七里ヶ浜の哀歌」によっても世に知られるようになりました。
尋常小学校の唱歌「鎌倉」ぶも、「七里ヶ浜の磯伝い稲村ヶ崎名将の剣投ぜし古戦場」とうたわれています。
海岸はすぐに水深が深くなり海水浴には向かないが、近年は季節を問わず若者たちサーフィンを楽しんでいます。
「日本の渚百選」にも選ばれています。
山側の傾斜地は、昭和40年(1965年)ごろから高級住宅地として開発され、人口が急激に増え現在にいたっています。


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稲村ヶ崎

極楽寺からつづく山並みが海岸までのびて海中に突出する岬で、東側は断崖となっています。
かつては、この岬の東側を「霊山ヶ崎」、西側を「稲村ヶ崎」と呼んだともいわれています。鎌倉の海を分けている岬でもあります。
名前の由来は、岬のかたちが稲の束を積み上げた稲村に似ているところから名づけられたといわれています。
元弘3年(1333年)の鎌倉攻めに際し、新田義貞が海中に黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈念すると、一気に潮が引いて鎌倉に攻め入ることができたというエピソード(『太平記』)でも知られ、国の史跡に指定されています。
現在、海浜公園として整備され、新田義貞の石碑のほか、明治41年(1908年)に弟子の北里柴三郎と鎌倉を訪れた近代細菌学の祖といわれるドイツ人細菌学者ロベルト・コッホの記念碑(昭和58年(1983年)霊山山から移転)や、
明治43年(1910年)に七里ヶ浜沖で起きた逗子開成中学生のボート転覆海難事故の慰霊碑があります。
平成14年(2002年)まで海水浴場としてもにぎわっていました。
近年の調査により、霊山に建つ極楽寺の支院・仏法寺をめぐる鎌倉方と新田軍との争奪戦が、戦いの帰趨を決したとされています。
七里ヶ浜から江の島につづく海岸線と、その先の富士山・箱根の山々・沖には伊豆半島が望める景勝地としても名高いです。


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由比ヶ浜

稲村ヶ崎・霊山ヶ崎から材木座の飯島までの全長3.2kmの海岸の総称ですが、一般的には、滑川の河口を境にして西側の稲瀬川までを由比ヶ浜と呼んでいます。
名前の由来は、その昔由比郷といったからとか、互いに助けあう共同組合の「結」にちなむともいわれています。由比には、由井・湯井などの字もあてられていました。
鎌倉時代には、「前浜」と呼ばれ、小笠懸・流鏑馬・犬追物など武芸の修練場とされていました 。将軍源頼朝が走湯山(伊豆山神社)・箱根山・三島山へ参詣する二所詣に出発するときには、この由比ヶ浜の海で身を清めたともいわれています。
建久4年(1193年)には、源頼朝が放生会を行ったといい、浜は神聖な宗教儀式の場ともなっていました。
一方、建保元年(1213年)の和田合戦では、幕府を攻撃した和田義盛が一族とともに由比ヶ浜で滅亡し、首実検が行われたのもこの浜とされています。
近年の発掘調査により、前浜はいわゆる職能民の生活・生産の場であったことが分かりました。また同時に、鎌倉時代から江戸時代にかけて埋葬された多くの人骨が発見されたことから、浜が鎌倉時代以後、大規模な埋葬地だった側面が明らかになりました。
明治初期には一時的に火葬場にもなっていたようです。
明治22年(1889年)に横須賀線が開通してから、保養地・別荘地として人気が高まり、のちに「海の銀座」といわれるほど海水浴客でにぎわい、リゾート地として発展していきました。
昭和31年(1956年)に湘南有料道路(国道134号線)の開通により、美しい松林と砂丘の姿は失われ、現在の姿になりました。


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和賀江嶋

和賀江嶋は、現存する日本最古の築港遺跡として国の史跡に指定されています。和賀はもともと材木座の古名ともいわれ、和賀江嶋は材木座の東南の端に位置しています。
飯島岬から海中におよそ200mのびた石積みの防波堤と考えられています。
材木座(西浜)は遠浅の海で、風波は荒く、難破・破損する船が多く、大型船も安全に出入りできるよう港湾整備の必要がありました。
そこで、九州筑前でも港を築いた実績のある往阿弥陀仏という勧進僧が、貞永元年(1232年)、船着場としての築島を幕府に申請しました。
3代執権北條泰時はこれを受け入れ、相模川や酒匂川、伊豆国辺りから運んだ石が積み上げられておよそ1ヶ月ほどで完成したといわれています。
鎌倉時代後期には、日本各地をはじめ中国の交易船でにぎわい、極楽寺の管理下で関料(関税)を徴収するなど海の玄関口としての役割もはたしていたと考えられます。
江戸時代までは港として利用されていましたが、その後、震災や風化により積み石が崩れて平らになりました。現在では「島」とはいっても丸石が河原状になって海面に姿を見せるだけです。
満潮時には海水に浸かり、干潮時には石が現れて島となります。浜辺では、いまでも中国の古い青磁の陶片などが見つかることもあります。


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