源頼朝七騎(杉山六騎)

源頼朝七騎(杉山六騎)

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『吾妻鏡』『太平記』『源氏物語』などでは祭囃子の由来をうかがうことができます。『吾妻鏡』「文治二年四月八日條」には「文治二年乙酉頼朝及妻政子詣鶴ケ岡祠召静命舞垂簾観焉云々(中略)比時工藤祐経槌鼓、畠山重忠撃銅拍子云々」とあり、文治2年(1186年)に源頼朝静御前に舞を命じたときに工藤祐経が鼓を、畠山重忠が銅拍子を担当したと記されています。
『義経記』にも記されており、音曲の役は梶原景時が銅拍子、工藤祐経が鼓、畠山重忠が笛ともされています。
いずれにしても重鎮たちが周りを囲んで奏でていた様子がうかがえます。

また「武士の専ら玩弄(がんろう)する所となり居れり」「此六氏(杉山六騎)は斯道の所謂(いわゆる)達人と謂ふべきものなり」「相求め五人囃子の雑曲を奏し」「而(しこう)して其曲節の美妙にして且勇ましく当時武士の嗜好に適せし故、一時に流伝せり」とあるように、当時は主に武士が嗜みとして囃子を奏でていたと記されています。
さらに「囃子及舞子のある原始はなれり」ともあり、囃子は鎌倉の武士から宮廷(きゅうてい)や農民などへも広がり、農閑期などに楽しむなど一般庶民へと流行していき、相模国寒川神社の祭礼をはじめとた近在の祭礼には欠かせないものとなったといわれています。

上記に登場する「杉山六騎」については、「然るに彼の杉山六騎と称するもの即ち土肥次郎実平、同弥太郎遠平、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、足立藤九郎盛長、及新開荒次郎忠氏」と記されています。これは『源平盛衰記』にみえる「兵衛佐(源頼朝)殿に相従いて山に籠りける者は、土肥次郎実平・同男遠平・新開次郎忠氏・土屋三郎宗遠・岡崎四郎義実・藤九郎盛長なり」と源頼朝の旗揚げに与したメンバーそのものです。
文治2年(1186年)当時の推定年齢は、源頼朝(39)、土肥実平(61)、土肥遠平(36)、土屋宗遠(58)、岡崎義実(74)、足立盛長(51)、新開忠氏(57)、(田代信綱(41))です。

かなりいい歳したおじさんたちですね。
そんな彼らは、武士といってもどのような武士だったのでしょうか。

鎌倉氏の一族である中村党中村宗平の次男土肥実平、そしてその土肥実平の嫡男土肥遠平ら親子は、源頼朝が治承4年(1180年)に挙兵したときから主力として参陣し、石橋山合戦で敗北後に土肥遠平源頼朝の無事を北條政子に知らせる使者をつとめたほどの重臣です。土屋宗遠中村宗平の三男で、土肥実平の弟です。
足立盛長源頼朝が流人だったころからの側近で、小野田藤原氏小野田兼盛の子です。源頼朝が最も信頼していた人物といっていいでしょう。
岡崎義実三浦義継の四男で、三浦義明の弟です。源頼朝が鎌倉幕府を築いていく上で最大の後ろだてとなった坂東八平氏(三浦氏・千葉氏・上総氏など)の一族です。
新開忠氏は秦氏の一族で、土肥実平の次男土肥実重を養子に迎えるなど土肥氏の一族として行動をともにしていました。『源平盛衰記』の旗上げメンバーでもあるように、彼らは重臣中の重臣でした。

何故「杉山」なのか?気になるところです。

源頼朝土肥実平ら縁の相模国土肥郷杉山に、市杵島姫命(弁財天)を祀る七杉山神社という社があり、鎌倉の鬼門鎮護を目的に7つの祠を建立したといわれています。関東には杉山神社が多くみられますが、そのルーツとして考える見方もあります。
治承4(1180)年8月17日、北條時政土肥実平らの助力を得てついに挙兵した源頼朝は、伊豆国目代山木兼隆を破って初戦を勝利で飾ったものの、石橋山合戦で大庭景親軍に大敗を喫し、主従わずか7名で土肥郷杉山の山中に逃れ、領地とする土肥実平土肥遠平父子の案内で洞窟や大木の洞に隠れ、敵の追手をかわしました(謡曲『七騎落』の伝説)。
この時、洞窟に隠れていた源頼朝主従は平家方の梶原景時に発見されますが、梶原景時は見逃し、源頼朝を助けたという逸話が残っています。
石橋山合戦に敗れた源頼朝含め主従7人(土肥実平土屋宗遠岡崎義実田代信綱安達盛長新開忠氏の武者像が安置されている堂(源頼朝七騎堂)が現在でも杉山(土肥城周辺の城願寺付近)にあります。

杉山六騎に含まれなかった田代信綱については、藤原為綱の子で、功績により狩野荘田代郷の地頭を補されたことで田代氏を称したとされています。
下船させられた土肥遠平は、和田義盛の船に救われ、源頼朝の無事を北條政子に伝えたといわれています。
本来、「源頼朝七騎(源頼朝以外で6人)」=「杉山六騎」であるはずが、『源平盛衰記』などにより後々田代信綱土肥遠平が入れ代わったものと思われます。


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