鎌倉五平氏

鎌倉五平氏

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鎌倉にかつて源義家に仕えは後三年の役で功名をはせた鎌倉景政をはじめとした平氏の一族が勢力をもっていました。なかでも鎌倉五平氏といわれる鎌倉氏・村岡氏・大庭氏・長尾氏・梶原氏らが大きな力をほこっていました。

源頼義が相模守となって鎌倉郡亀谷(扇谷)に住居し、康平6年(1063年)に京都の石清水八幡宮を鎌倉由比郷に勧請し、由比若宮(由比八幡宮)を建立しました。源頼義鎌倉直方(平直方)の娘婿となり鎌倉郡亀谷(扇谷)の住居を鎌倉直方(平直方)から譲られました。源頼義の子源義家は鎌倉で生まれたとされています。
源義家が鎮守府将軍として鎌倉に下向したときに鎌倉景政は大蔵の屋敷を進呈したとされていますが、天養2年(1145年)に源義朝は先祖代々の土地である亀谷(扇谷)に住んでいます。

源氏の一族が鎌倉に居を構えながらも、鎌倉全土に勢力をもっていたのはあくまで平氏の一族で、源頼朝が鎌倉幕府を大蔵の地にひらき御所として以降も、鎌倉の土地や鎌倉幕府体制は平氏によって護られてきました。その代表が、北條氏・三浦氏・千葉氏・和田氏といった平氏の一族です。
 
 
 

坂東八平氏

平安時代中期に坂東(関東地方)に土着した桓武平氏の流れを汲む一族がおり、大きく8つの氏族に大別されていることから坂東八平氏と称されるようになりました。秩父氏・上総氏・千葉氏らが主だった氏族ですが、数え方はその時代や勢力により様様です。
坂東八平氏には秩父氏・上総氏・千葉氏のほか、中村氏・三浦氏・鎌倉氏・土肥氏・梶原氏・大庭氏・長尾氏・大掾氏・伊佐氏・鹿島氏・城氏・関氏・伊勢氏・篠田氏・相馬氏・長田氏らの氏族の名があがります。

秩父氏をはじめとした秩父平氏、上総氏・千葉氏をはじめとした房総平氏、そして鎌倉氏・長尾氏・梶原氏・大庭氏らをはじめとした鎌倉平氏が八平氏のうちの3氏となります。秩父平氏は秩父氏からわかれた小山田氏・葛西氏・河越氏・豊島氏・畠山氏などを分出しています。
また、大庭氏・梶原氏・長尾氏・三浦氏・中村氏・秩父氏・上総氏・千葉氏の8氏が数えられるときもあります。大庭氏・梶原氏・長尾氏はともに鎌倉平氏で、中村氏も鎌倉平氏の村岡氏からわかれ余綾郡中村荘に勢力をもった氏族で、のちに土肥氏・土屋氏・二宮氏らを分出しています。
 
 
 

鎌倉党

鎌倉平氏を鎌倉党と称することがあり、鎌倉氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏をはじめ、長柄氏・小坂氏・香河氏・柳下氏・金井氏・豊田氏・俣野氏・深沢氏らの氏族のことをいいます。
さらに相模国には平氏の氏族が広がり、三浦氏をはじめとする杉本氏・和田氏・高井氏・由井氏・荏柄氏・矢部氏・山口氏・林氏・大津氏・三戸氏・大多和氏・多々良氏・長井氏・森戸氏・佐原氏・蘆名氏・佐野氏・岡崎氏・野比氏・横須賀氏・走水氏・宮田氏・津久井氏・桑原氏・二宮氏・平塚氏・秋庭氏・石田氏・木曽氏・平佐古氏・真田氏・土屋氏・舞岡氏ら三浦党。
さらに糟屋氏・渋谷氏、中村氏をはじめとする土肥氏・土屋氏・土宮氏・堺氏・小早川氏・飯泉氏・小松氏・新開氏など中村党も相模国に勢力をもっていました。薩摩国入来院に移った渋谷氏の一族「入来文書」、安芸国竹原・沼田庄に入部した小早川氏の『大日本古文書(小早川文書)』なども重要な資料となっています。

平氏ではありませんが、波多野氏・海老名氏なども相模武士として勢力をもち、鎌倉時代以来の古文書が残されています。備後国地毗庄に拠った山内首藤氏の「山内首藤文書」、越後国奥山庄地頭の和田三浦氏の「中條文書」、波多野氏からわかれた大友氏(相模国大友郷)は鎌倉時代に豊後国守護となり九州の戦国大名として知られ多くの中世文書が伝来し、大江広元の大江氏からわかれた毛利氏(相模国毛利庄)も安芸国高田庄に移り中国地方の覇者毛利元就を出すなど、多くの中世文書が伝来しています。

鎌倉五平氏の歴史

鎌倉五平氏の略年表を紹介します。

鎌倉略年表
和暦(元号)
西暦
できごと
和銅3年 710年 染屋時忠が甘縄神明神社を創建。
延長元年 923年 平良文醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受け東国に下向。武蔵国熊谷郷村岡に住み村岡良文(村岡五郎)を称す。相模国鎌倉郡に移る。相模国鎌倉郡村岡は村岡良文が移り住んだことにより地名となる。
天慶2年 939年 陸奥守村岡良文平将門の乱(承平天慶の乱)で平将門に与して渋谷川合戦などで連戦。村岡良文の三男村岡忠頼平将門の娘婿。村岡忠頼村岡忠光兄弟は平将門の乱を鎮圧した平繁盛(大掾繁盛)を「仇敵」とした。
村岡良文源宛(箕田宛)が「兵(つわもの)の道」を争い一騎打ち(『今昔物語集』)。
村岡良文は鎮守府将軍に任じられ陸奥国胆沢城に赴任。
長元元年 1028年 平忠常は国司に服さず納税の義務も果たさずに安房守平維忠を焼き殺したことを発端に、平忠常の乱(長元の乱)が上総国・下総国・安房国の房総三国で起こり、朝廷が鎮圧のため源頼信平正輔鎌倉直方(平直方)中原成通らを追討使に任命。鎌倉直方(平直方)中原成通が向かうが一向に鎮圧できずにいた。
永祚2年 990年 村岡忠通が生まれる。村岡忠通源頼光の配下として、渡辺綱坂田公時らとともに四天王に数えられた。
長元2年 1029年 中原成通は解任される。
長元3年 1030年 中原成通の後任に平正輔を任じるが伊勢国内での同族争いで向かうことはなかった。
業を煮やした朝廷は鎌倉直方(平直方)を召還し、甲斐守源頼信を追討使に任じる。
長元4年 1031年 平忠常源頼信源頼義父子に降伏。平忠常は病死したのち首をはねられたが、平忠常の子平常将平常近らは罪を許される。
源頼義鎌倉直方(平直方)の娘婿となり相模国鎌倉郡亀谷(扇谷)の住居(現在の寿福寺付近)を鎌倉直方(平直方)から譲られる(『陸奥話記』)。鎌倉直方の館は現在の御成小学校付近にもあったとされる(『鎌倉絵図「直方上総介の館」』)。
「坂東(会坂以東)の弓馬の士」の多くが源頼信源頼義父子の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となる。
長暦3年 1039年 源義家が相模国鎌倉郡亀谷(扇谷)の住居で生まれる。以後鎌倉は源氏相伝の地となる(『詞林菜葉抄』)。
永承3年 1048年 三浦為継が生まれる。
永承6年 1051年 朝廷への貢租を怠った奥羽地方の豪族安倍氏を陸奥守の藤原登任が懲罰のため攻め玉造郡鬼切部で合戦となる(鬼切部合戦)。出羽国国司で秋田城の平繁成も朝廷側に与したが、安倍氏の圧勝となる。奥州十二年合戦がはじまる。
源頼義源義家父子が安倍頼良(安倍頼時)を攻める(前九年合戦)。源頼義の軍勢は佐伯経範(波多野氏祖)ら「坂東(会坂以東)の弓馬の士」で構成される。平真平(中村氏祖)・源親季(海老名氏祖)・佐伯元方(糟屋氏祖)ら活躍。
天喜元年 1053年 源頼義が鎮守府将軍となる。
天喜4年 1056年 阿久利川事件で再び朝廷側の源頼義安倍頼時との戦いがはじまる。
源頼義に従っていた藤原経清安倍頼時の娘婿であったため裏切りの疑いを恐れて安倍氏に帰属。藤原経清の寝返りが前九年合戦を長引かせる一因となる。
天喜5年 1057年 源頼義に与していた気仙郡司金為時の調略により安倍氏方の安倍富忠が寝返り、思いとどまらせようとした安倍頼時が伏兵に攻撃をうけ鳥海柵にて死去。安倍貞任が跡を嗣ぐ。
黄海合戦で源頼義は大敗を喫し、わずか七騎で戦線離脱。佐伯経範藤原景季和気致輔紀為清ら有力武士が戦死。
康平5年 1062年 陸奥守の任期が切れた源頼義の後任として高階経重が着任したが郡司らが従わず、再び源頼義が陸奥守に任ぜられる。
出羽国仙北の清原光頼が弟清原武則を総大将に援軍を送り、劣勢だった源頼義源義家父子が一気に形勢を逆転させ、奥州安倍氏を討伐。安倍貞任は討死。安倍貞任の弟安倍宗任は伊予国に流される。
安倍頼時の娘婿藤原経清の遺児藤原清衡(清原清衡)清原武則の子清原武貞の養子として引きとられ、清原武貞藤原経清の妻(安倍頼時の娘)を妻として娶る。
清衡武貞安倍頼時の娘との間に清原家衡が生まれ、清原真衡清原家衡清原清衡ら3人は義兄弟となる。
康平6年 1063年 源頼義が京都の石清水八幡宮を鎌倉由比郷に勧請し、由比若宮(由比八幡宮)を建立。
永保3年 1083年 清原武貞の子清原真衡は桓武平氏海道成衡(清原成衡)を養子として迎える。
清原真衡吉彦秀武との間で争いとなり、清原真衡清原清衡清原家衡吉彦秀武の連合と戦いとなる。後三年合戦がはじまる。
陸奥守兼鎮守府将軍となった源義家清原真衡方についたこともあって清原清衡清原家衡は大敗を喫して源義家に降伏。源義家は「天下第一武勇之士」と評される(『中右記』)。
鎮守府将軍となって奥州に赴任する際に鎌倉に下向した源義家は住居の裏山(源氏山)に白旗を立て軍士を募る。鎌倉景成鎌倉景政父子は鎌倉郡大蔵郷の屋敷(大倉ガ谷四町四方の屋敷)を進呈。源義家が大蔵谷の屋敷を修復造営(『新編相模風土記稿』)。
鎌倉景成鎌倉景政父子は甘縄に新たに館を立てている(『御霊神社来由』)。
清原真衡が病で急死。
応徳3年 1086年 清原清衡清原家衡の間で所領争いが起こり、清原清衡源義家連合と清原家衡が沼柵で戦い、清原清衡源義家ら連合は敗走。
寛治元年 1087年 源義家清原清衡吉彦秀武軍は金沢柵に籠る清原家衡清原武衡軍を攻め、兵糧攻めで落城させる。清原武衡清原家衡は戦死。
清原清衡が領地をすべて手に入れ、父藤原経清の藤原姓に復し奥州藤原氏の祖となる。
源義家は朝廷から観賞を受けられず、関東から出征してきた武士たちに私財から恩賞を与える。
源義家方の先鋒軍にいた16歳の鎌倉景政(鎌倉権五郎)は清原軍鳥海弥三郎の放った矢が右目に刺さりながらも鳥海弥三郎を逆に射殺。三浦為次に矢を抜かせる。鎌倉景政三浦為継秩父武綱ら相模武士は「先祖より聞え高きつはもの」と評される(『奥州後三年記』)。「将軍(源義家)のことに身親き郎等」と評された山内首藤氏の祖藤原資通も従軍。
長治2年 1105年 鎌倉景政が大庭御厨を開発。
長承4年 1134年 鎌倉景政の子鎌倉景継が大庭御厨の下司として記されている。
天養2年 1145年 源義朝が「鎌倉の盾は先祖から伝得した」と主張し、先祖代々の土地である亀谷(扇谷)に住む。
久安3年 1147年 源頼朝誕生。
久寿2年 1155年 源義朝の長男源義平は異母弟源義賢追討のため比企郡に侵攻。源義平軍に畠山重能軍勢が加わり、源義賢秩父重隆を討つ。
保元元年 1156年 保元の乱が起こり、源義朝が父源為義・弟源為朝らを撃破。源義朝に相模武士「大庭景義大庭景親山内俊通滝口俊綱海老名季貞波多野義通」が従軍(『保元物語』)。
平治元年 1159年 平治の乱が起こり、藤原信頼源義朝らが御所を焼く。源義朝に相模武士「三浦義澄山内俊通滝口俊綱波多野義通」が従軍(『平治物語』)。源頼朝も参陣。
藤原忠通の子慈円は『愚管抄』のなかで「鳥羽院うせさせ給ひて後、日本国の乱逆と云ことはをこりて後むさの世になりにけるなり」と、「むさ(武者)の世」の到来を告げる。「東人の初京上り」「東国の荒夷」「文よりも武を尊ぶこの国の気風」と坂東武士の荒々しい様子がうかがえる。
永暦元年 1160年 源義朝平清盛に敗れ、捕らえられた源頼朝は伊豆国の蛭ヶ小島に流される(流罪)。大庭景親は「東国八箇国一の馬望月」を平清盛に贈り、「東国の御後見」となる(『源平盛衰記』)。大庭景親の兄大庭景義は伊豆国に流された源頼朝のもとへ参じる。
仁安2年 1167年 平清盛が太政大臣になる。
治承3年 1179年 平清盛後白河法皇を幽閉(治承三年のクーデーター)。
治承4年 1180年 4月、以仁王の平家追討令が発せられる。
7月、在京していた畠山重能小山田有重宇都宮朝綱らが木曽義仲軍の今井兼平と合戦。武蔵国は江戸重長が平家方として守備。
8月、源頼朝が伊豆国で挙兵し伊豆国目代山木兼隆を襲撃。源頼朝に相模武士土肥実平土肥遠平土屋宗遠土屋義清土屋忠光岡崎義実岡崎義忠大庭景義豊田景俊中村景平中村盛平らが従軍。
相模国へ攻め入るが石橋山合戦で敗れ安房国へ逃れる。源頼朝軍を迎撃したのは、大庭景親俣野景久(俣野景尚)河村義秀糟屋盛久海老名季貞曽我助信滝口経俊毛利景行長尾為宗長尾定景柳下五郎香川家政ら相模武士。
相模国御浦郡から石橋山に馳せつけようとした三浦一族は三浦義澄三浦義連大多和義久大多和義成和田義盛和田義茂和田義実多々良重春多々良明宗筑井義行ら、さらに鎌倉一族長江義景が加わる。
畠山重忠和田義盛との戦いは和議が調ったものの、和田義茂の奇襲により畠山軍が壊滅。河越重頼の援軍と合流した畠山重忠は三浦氏の衣笠城を攻め祖父三浦義明を討つ。
飯田家義源頼朝に意を通じ、梶原景時は土肥郷杉山に隠れていた源頼朝を見逃す。
10月4日、畠山重忠河越重頼江戸重長源頼朝に帰参。
10月5日、源頼朝は武蔵国から相模国に入り世野郷(瀬谷郷)の相辺沢(相沢)の鎮守諏訪明神に一泊。
10月6日、畠山重忠を先陣に、千葉常胤を殿にした軍勢は武蔵国から相模国へ進軍し、相辺沢義氏(相辺沢六郎)相辺沢義村(相辺沢七郎)の先導で、飯田家義とともに俣野郷の俣野景久(俣野五郎)大庭景親らを撃破し鎌倉入り。
源頼朝が鎌倉に入り本拠地とし、由比郷の由比若宮(由比八幡宮)を小林郷松岡に移し鶴岡八幡宮と改める。源頼朝上総広常の館に住む。
12月12日、大蔵の新邸が完成。
治承5年 1181年 源頼朝は鶴岡八幡宮を参詣。三浦義澄畠山重忠大庭景義らが警護。
寿永元年 1182年 源頼朝が妻北條政子の安産を祈願して鶴岡八幡宮参道(若宮大路)・段葛を造営し、源平池を造る。
8月、北條政子源頼家を生む。宇都宮朝綱畠山重忠土屋義清和田義盛梶原景時梶原景季横山時兼らが刀を献上。

文覚源頼朝の願いにより江島に弁財天をまつる。
寿永2年 1183年 梶原景時上総広常を討ち、「梶原太刀洗水」伝説が生まれる。
元暦元年 1184年 源範頼源義経兄弟が木曽義仲を討ち、一ノ谷合戦で平氏を撃破する。
大手軍:大将源範頼小山朝政武田信義加賀美遠光加賀美長清武田有義板垣兼信下河辺行平長沼宗政結城朝光佐貫広綱小野寺通綱稲毛重成榛谷重朝森行重江戸重春梶原景時梶原景季梶原景高千葉常胤相馬師常国分胤通東胤頼中條家長海老名季貞曽我祐信中村時経安保実光河原高直河原盛直久下重光藤田行泰秩父行綱大河戸広行庄司忠家庄高家庄司広方塩谷惟広庄家長
搦手軍:大将源義経安田義定大内惟義村上康国山名義範中原親能田代信綱土肥実平三浦義澄三浦義村三浦義連畠山重忠長野重清和田義盛和田義茂和田宗実佐々木高綱佐々木義清天野直経多々良義春多々良光義別府清重金子家忠金子近範金子広綱岡部忠澄渡柳清忠糟屋有季平山季重平佐古為重熊谷直実熊谷直家小河祐義山田重澄原清益猪俣則綱片岡常春伊勢義盛佐藤忠信佐藤継信で構成。
源頼朝が公文所・問注所を開設。
文治元年 1185年 3月、屋島・壇ノ浦合戦で源範頼源義経兄弟が平氏を滅ぼす。
5月、源義経が鎌倉入りを拒否され、源頼朝に腰越状を書き送るが鎌倉入りを許されることはなかった。
源頼朝が勝長寿院を建立。
11月、源頼朝が諸国に守護・地頭を設置。河越重頼源義経の縁者であったことで謀殺され、畠山重忠が秩父氏の惣領を継承。
文治2年 1186年 静御前が鶴岡八幡宮で舞う。
西行源頼朝と面会。
文治3年 1187年 源頼朝が鶴岡八幡宮で流鏑馬を行う。
文治4年 1188年 2月、源頼朝源義経の追討令を発す。
文治5年 1189年 4月、源義経が衣川で藤原泰衡に襲われ、平泉で自害。
9月、源頼朝が奥州藤原氏を討ち奥州平定(奥州藤原氏滅亡)。
畠山重忠結城朝光小山朝政加藤景廉工藤行光工藤祐光三浦義村葛西清重狩野親光藤沢晴近河村季清らが平泉に進攻。
建久2年 1191年 源頼朝が鶴岡八幡宮の若宮を大臣山中腹に移し本宮とする。
源頼朝が政所を設置。
栄西が二度目の入宋から帰国し、臨済禅を広める。
建久3年 1192年 源頼朝源義経藤原泰衡の冥福を祈願し、永福寺(二階堂)を創建。
7月、源頼朝が征夷大将軍に任命される。
8月、源頼朝が弟源範頼を追放。
北條政子千幡(源実朝)を生む。
建久4年 1193年 源頼朝が弟源範頼を伊豆国で殺害。
建久6年 1195年 源頼朝が京都に上って東大寺再建供養祭に臨む。
正治元年 1199年 1月、源頼朝が53歳で逝去。源頼家が家督を継ぐ。
4月、北條政子源頼家の訴訟独裁権を排し、13人の御家人合議制とする。
正治2年 1200年 梶原景時が暗殺される。
北條政子
建仁2年 1202年 源頼家が征夷大将軍(2代将軍)となる。
建仁3年 1203年 8月、源頼家病気のため総守護職を弟源実朝に譲る。
9月、北條時政北條政子比企能員一族を滅ぼす。
源頼家が流され、源実朝が征夷大将軍となる。北条時政が執権となる。
元久元年 1204年 源頼家が伊豆国の修禅寺で殺される。
元久2年 1205年 6月、北條時政畠山重忠ら一族を討つ。
7月、北條時政が失脚し、次男北條義時が執権となる。
建保元年 1213年 北條義時殺害の陰謀があるとして駿河国御家人渋河兼守が捕らえられたが、和歌十首を「荏柄聖庿」を奉納したことで、工藤祐高源実朝に手渡し放免される。
首謀者として和田胤長が荏柄社門前の屋敷を没収され、叔父和田義盛が挙兵。北條義時和田義盛の軍を下馬から由比ヶ浜あたりの激戦で破る(和田合戦)。和田一族が滅亡し、北條義時が侍所別当となる。
建保2年 1214年 栄西が『喫茶養生記』を著し、良薬としてお茶を源実朝に勧める(献上)。
建保5年 1217年 源実朝が渡宋を企てて巨船を造るが失敗に終わる。
承久元年 1219年 1月、源実朝源頼家の遺児公暁に暗殺される。
九條頼経が鎌倉に下向し将軍となる。
承久3年 1221年 承久の乱が起こり、幕府方が後鳥羽上皇軍を撃破。後鳥羽上皇は隠岐国に流される。
     
     

古代から鎌倉にいた豪族

染屋時忠は鎌倉に住み東八箇国惣追捕使として東夷を平定しました。
住居は、甘縄明神社の南にある長者久保にあり、染屋時忠は「由比長者」といわれました。
染屋時忠は伊勢原市比々多神社の社伝に伝わり、尊像が安置されています。
比々多神社は天平年中(729~749年)に創建され、付近の大山寺の「雨降山大山寺縁起」に開山良弁は鎌倉由比郷の出身で、染屋時忠の子と記されています。さらに、漆部氏の一族であるとも記されています。
『国造本紀』には相模国域には相武国造と磯長国造のほかに大和朝廷の皇族が派遣されており、鎌倉別という古代の族長がいたと記されています。
漆部氏である染屋時忠の一族のあとは、桓武平氏の一族が鎌倉を占拠していきます。


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