鎌倉武士・鎌倉御家人・坂東武士

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このページでは、鎌倉武士をはじめ、鎌倉幕府御家人、そして坂東武士(武蔵武士・相模武士)などを紹介いたします。

鎌倉武士

村岡 忠通 (*990~*1050年)
村岡忠通(むらおかのただみち)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ坂東平氏の一族。鎌倉氏・三浦氏などの祖。平忠光の長男。平忠通とも書く。
清和源氏の棟梁源頼光に仕えた。『今昔物語』によれば村岡忠通は弓の名手として剛勇を鳴らし、源頼光の実弟源頼信にも仕えたとされる。
wikipedia「村岡忠通」
鎌倉 章名 (1015~*1070年)
鎌倉章名(かまくらのあきもり)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の祖。村岡忠通(平忠通)の三男。鎌倉景名・平章名とも書くことがある。兄弟に村岡忠輔(村岡孝輔)・三浦為通がいるのほか、源為満秩父将恒に嫁いだ妹がいる。
相模大領丸子公景娘婿となり、子孫は相模武士・鎌倉党として栄えた。丸子氏から通字「景」の字を継承し、子孫(鎌倉党)に多く見られる。
wikipedia「鎌倉章名」
鎌倉 景通 (1035~*1100年)
鎌倉景通(かまくらのかげみち)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉章名の長男。鎌倉権大夫・鎌倉四郎太夫とも書く。三浦為通の娘婿。
前九年の役(1051~1062年)で源頼義の配下として従軍。勇猛七騎の1人として名を残している。
wikipedia「鎌倉景通」
梶原 景久 (*1060~*1120年)
梶原 景久(かじわらのかげひさ)は平安時代の武士。
桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景通の長男。鎌倉景久・平景久とも書く。
従弟の鎌倉景政とともに源義家に与し、後三年の役(1083~1087年)に従軍し奮戦した。
鎌倉 景成 (*1045~*1100年)
鎌倉景成(かまくらのかげなり)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉章名の五男。鎌倉景通の弟。通称は鎌倉五郎・鎌倉権守。平景成とも書く。
鎌倉郡一帯の領主として、鎌倉郡のみならず相模国南部に勢威を張っていた。
wikipedia「鎌倉景成」
鎌倉 景政 (1069~*1120年)
鎌倉景政(かまくらのかげまさ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。平景成の嫡男。通称は鎌倉権五郎。平景政・鎌倉景正とも書くことがある。
源義家に与し、16歳のときに後三年の役(1083~1087年)に従軍。右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に記されている。
wikipedia「鎌倉景政」
鎌倉 景明 (*1095~*1160年)
鎌倉 景明(かまくらのかげあき)は平安時代の武士。
桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景政の長男。兄弟に大庭景継鎌倉景門らがいる。
鎌倉景明の子長江義景は鎌倉郡端山郷に居を構え長江氏(長柄氏)を名のった。
長江 義景 (*1130~*1200年)
長江義景(ながえのよしかげ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景明の長男。長柄義景とも書く。
三浦義明の娘婿。鎌倉郡端山郷に居を構え長江氏(長柄氏)を名のった。弓の名手として高名であり、源平合戦では縁戚の三浦氏と協力して源頼朝に与したが、衣笠城合戦(1180年)で敗れ敗走した。源頼朝の信任も厚く、伊勢大廟神宝奉行となった。
wikipedia「長江義景」
長江 明義 (*1150~*1220年)
長江明義(ながえのあきよし)は平安時代の武士。
桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。長江義景の長男。弟に長江師景桑良景行らがいる。
長江義景とともに源頼朝に仕えた。長江明義の系統は宝治合戦(1247年)に滅亡し、長江氏の家名は弟長江師景の系統が後世に伝えている。
長江 師景 (*1155~*1220年)
長江師景(ながえのもろかげ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。長江義景の次男。長柄師景とも書く。
長江義景や兄長江明義らとともに源頼朝に仕えた。兄長江明義の系統は宝治合戦(1247年)に滅亡し、長江氏の家名は長江師景の系統が後世に伝えている。
桑良 景行 (*1160~*1220年)
桑良景行(そうらのかげゆき)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。長江義景の三男。
長江義景や兄長江明義長江師景らとともに源頼朝に仕えた。
大庭 景継 (*1100~*1170年)
大庭景継(おおばのかげつぐ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景政の次男。兄弟は兄鎌倉景明と弟鎌倉景経鎌倉景門らがいる。大庭景忠とも書くことがある。
長承4年(1134年)に大庭御厨下司として記録に残っている。大庭御厨を領したことで大庭氏を称した。
大庭 景宗 (*1120~*1180年)
大庭景宗(おおばのかげむね)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景経の長男。叔父大庭景継を嗣いで大庭氏を名のる。横山隆兼の娘婿。
平治の乱(1160年)後に平家の忠実な家人となる。治承4年(1180年)には家督を次男大庭景親に継承していたが、平家方に与して石橋山合戦で源頼朝軍を撃破。源頼朝が鎌倉に入り富士川合戦で平家方に大勝すると降伏し、長男大庭景親とともに処刑された。
懐島 景義 (*1138~1210年)
大庭景義(おおばのかげよし)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景宗の長男。母は横山隆兼の娘。大庭平太・懐島太郎・大庭景能とも書く。
保元の乱(1156年)で若くして源義朝に忠誠を誓い従軍。源為朝の矢を受け負傷したことで相模国大庭御厨のなかの懐島郷に隠棲し、家督は弟大庭景親に任せた。
治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると弟大庭景親と袂を分かち源頼朝に麾下。鎌倉幕府の長老格として重きをなした。
大庭 景親 (*1140~1180年)
大庭景親(おおばのかげちか)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景宗の次男。
保元の乱(1156年)で兄懐島景義が負傷したことで家督を継承。治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると平家方の大将として兵を率いて石橋山合戦で源頼朝を撃破した。しかし安房国へ逃れて再挙した源頼朝が多くの東国武士の支援を受けて鎌倉に入り、大庭景親は富士川合戦で源頼朝に敗れ降伏。処刑された。
豊田 景俊 (*1145~*1210年)
豊田景俊(とよだのかげとし)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景宗の三男。兄弟は兄懐島景義大庭景親、弟俣野景久波多野義常に嫁いだ妹がいる。
俣野 景久 (*1150~1183年)
俣野景久(またののかげひさ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景宗の四男。俣野五郎・俣野景尚とも書くことがある。鎌倉郡俣野郷を領して俣野氏を称した。
大庭景親に与して石橋山合戦では平氏方につき源頼朝軍の佐奈田義忠と死闘をくり広げ、長尾定景の援けで一命をとりとめた。兄大庭景義が敗れ処刑されても戦いつづけ、倶利伽羅峠合戦で木曽義仲軍と戦い、加賀国篠原で討死した。
三浦 為通 (1010~1083年)
三浦為通(みうらのためみち)は平安時代の武士。
桓武平氏の流れをくむ坂東平氏の一族。村岡忠通(平忠通)の次男。通称は三浦平大夫。三浦為名とも書くことがある。鎌倉章名の兄。
源頼義から相模国三浦郡三浦郷を与えられ、叔父三浦忠光(平忠光)の養子となり三浦氏を嗣ぐ(『系図纂要』)。
wikipedia「三浦為通」
三浦 義明 (1092~1180年)
三浦義明(みうらのよしあき)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦郡(三浦荘)の豪族。三浦義継の長男。母は笠間常宗の娘。
兄弟に津久井義行蘆名為清岡崎義実大友経家に嫁いだ妹がいる。
三浦介(官位)を世襲し天治年間(1124~1126年)には三浦半島一帯を支配。久寿2年(1155年)に源義朝の子源義平源義賢と戦った大蔵合戦では、孫源義平を支援した。
衣笠城合戦(1180年)で平家方に与していた畠山重忠に攻められ戦死。
wikipedia「三浦義明」
杉本 義宗 (1125~1164年)
杉本義宗(すぎもとのよしむね)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。三浦義明の長男。母は秩父重綱の娘。
兄弟は弟三浦義澄佐原義連多々良義春長井義季杜重行大多和義久源義朝畠山重能金田頼次長江義景大河戸広行らに嫁いだ妹がいる。長寛2年(1164年)に死去し、家督は弟三浦義澄が嗣いだ。
和田 義盛 (1147~1213年)
和田義盛(わだのよしもり)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。杉本義宗の長男。源頼朝の挙兵に参加し、初代侍所別当に任じられる。
治承・寿永の乱には源範頼の軍奉行として従軍、奥州合戦にも従軍して武功を立てた。源頼朝の死後、梶原景時の変での梶原景時弾劾追放の中心的役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北條氏に与した。しかし、北條義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、鎌倉幕府軍を相手に戦い建保元年(1213年)5月3日に戦死した(和田義盛の乱・和田合戦)。
wikipedia「和田義盛」
三浦 義澄 (1127~1200年)
三浦義澄(みうらのよしずみ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。三浦義明の次男。伊東祐親の娘婿。
治承4年(1180年)に衣笠城合戦で父三浦義明を討死させてしまい房総半島へ敗走。千葉常胤上総広常土肥実平らとともに源頼朝の宿老となり幕府を支えた。
源頼家を補佐する十三人の合議制の1人。
wikipedia「三浦義澄」
佐原 義連 (1130~1203年)
佐原義連(さはらのよしつら)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。三浦義明の三男。母は秩父重綱の娘。三浦郡佐原に居を構え佐原氏を称した。
治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵に兄三浦義澄とともに参じ御家人となる。源頼朝の寝所を警護する11人の1人に選ばれるなど重臣として活躍している。
佐原氏の多くが三浦氏とともに宝治合戦(1247年)で滅びているが、北條方についた佐原盛時が再興。
岡崎 義実 (1112~1200年)
岡崎義実(おかざきのよしざね)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。三浦義継の四男。三浦義明の弟。三浦悪四郎・岡崎平四郎・岡崎四郎とも書く。中村宗平の娘婿。相模国大住郡岡崎を領し岡崎氏を称した。
源頼朝挙兵に参じ石橋山合戦で嫡男佐奈田義忠を失う。義弟土肥実平とともに源頼朝を援け御家人に列し、89歳の長寿を全うした。
wikipedia「岡崎義実」
佐奈田 義忠 (1155~1180年)
佐奈田義忠(さなだのよしただ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。岡崎義実の嫡男。相模国大住郡真田を領し佐奈田氏を称した。佐奈田義貞・真田義忠・岡崎義忠・真田与一・真田余一とも書く。弟に土屋義清がいる。
源頼朝挙兵に参じ、山木兼隆の館襲撃に加わり、石橋山合戦で大庭景親軍と奮戦。俣野景久と組みあい、大庭軍の援軍長尾新五郎長尾新六郎らに討たれた。
wikipedia「佐奈田義忠」
土屋 義清 (1160~1213年)
土屋義清(つちやのよしきよ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。岡崎義実の次男。叔父土屋宗遠の養子となり土屋氏を称した。
岡崎義実や一族とともに源頼朝に仕え治承・寿永の乱や奥州合戦などに従軍し、鎌倉幕府の成立に尽力し御家人となる。建保元年(1213年)5月3日の和田義盛の乱において、一族の和田側として戦い鶴岡八幡宮の赤橋(太鼓橋)付近で流れ矢にあたって戦死した。

鎌倉幕府御家人

安達 盛長 (1135~1200年)
安達盛長(あだちのもりなが)は、平安時代末期の武士。鎌倉時代に繁栄する安達氏の祖。安達藤九郎ともいう。
源頼朝の乳母比企尼の長女丹後内侍を妻としており、源頼朝が伊豆国で流人だったころからの側近。妻がかつて宮中で女房を務めていたことから藤原邦通源頼朝に推挙するなど京都に知人が多く、京都の情勢を源頼朝に伝えていた。鎌倉御家人として甘縄に館をかまえ、源頼朝の信頼が厚く、源頼朝が私用で安達盛長の屋敷をしばしば訪れている(『吾妻鏡』)。
『尊卑分脈』では小田野兼広(藤原氏)の子としているが、出自ははっきりしていない。兄に足立遠兼がおり、年上ながら足立遠元は甥にあたる。
wikipedia「安達盛長」
伏見 広綱 (*1140~*1190年)
伏見広綱(ふしみのひろつな)は、平安時代末期の人物。源頼朝の右筆。伏見冠者藤原広綱ともいわれます。遠江国佐野郡を本拠とする伏見藤原氏。伏見広綱は佐野郡掛河の出身。
文筆に秀で、鎌倉に幕府を構えた源頼朝が朝廷のことに通じている者を探していたところを安田義定の推挙を受け、寿永元年(1182年)5月12日、鎌倉に参じて源頼朝の右筆となった。
寿永元年(1182年)11月10日に源頼朝の愛妾亀前を飯島の自邸にかくまっていたことが源頼朝の妻北條政子の怒りを買い、北條政子の命を受けた牧宗親に邸を破壊された。亀前を連れ命からがら大多和義久(三浦義明の子)の鐙摺館に逃れた。
12月16日、伏見広綱北條政子の怒りによって遠江国に流罪となり、仕えたわずか半年で鎌倉を去った。
wikipedia「伏見広綱」
牧 宗親 (*1140~*1190年)
牧宗親(まきのむねちか)は、平安時代末期の駿河国大岡牧の豪族。牧大舎人允・牧三郎ともいう。
北條時政の後妻である牧方の父。子に大岡時親がいるが牧氏事件で出家している。
平頼盛に長年仕え、平頼盛の所領で北條氏の本拠に近い駿河国大岡牧を領有。『愚管抄』は牧氏を「武者にもあらず」と記しており下級ながらも貴族の出身であった。
北條政子の命で源頼朝の愛妾亀前がかくまわれていた伏見広綱邸を破壊したことから源頼朝の怒りを買い、髻を切られる恥辱を受けた。
この事件で源頼朝の岳父であり、牧宗親の娘婿でもある北條時政源頼朝への抗議として一族を率いて伊豆国へ引き上げる騒動になっている。
wikipedia「牧宗親」


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