鎌倉の名数-鎌倉三幕府(鎌倉幕府)

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鎌倉幕府は、源頼朝が鎌倉に創設した武家政権です。



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幕府(御所)所在地の変遷
名称
期間
開設・移設者
大蔵幕府 治承4年(1180年)~嘉禄元年(1225年) 源頼朝
宇都宮辻子幕府 嘉禄元年(1225年)~嘉禎2年(1236年) 執権北條泰時
連署北條時房
若宮大路幕府 嘉禎2年(1236年)~元弘3年・正慶2年(1333年) 執権北條泰時

鎌倉幕府

かつての通説によると、鎌倉幕府は建久3年(1192年)に源頼朝が征夷大将軍に任官してはじまったとされていましたが、源頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、
現在では実質的な成立は建久3年(1192年)より前すなわち文治元年(1185年)であるとする説が支配的です。
また、「日本で初の武家政権」とされたこともありましたが、今では平氏政権に次ぐ武家政権と位置づけられています。
源頼朝は武家政権の成立を明確に宣言したわけではないこともあり、後世の研究家の間に鎌倉幕府の成立時期について論議を生みました。
幕府の成立時期については諸説あり、その理由としては、鎌倉幕府がその武家政権としての体制を整えるまでにはいくつかの段階を経ていることがあげられます。
まず治承4年(1180年)に鎌倉の大倉郷に源頼朝の邸となる大倉御所が置かれ、また幕府の統治機構の原型ともいうべき侍所が設置されて武家政権の実態が形成されました。
朝廷は寿永2年(1183年)10月宣旨で源頼朝に対し、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、源頼朝による東国支配権を公認しました。
文治元年(1185年)の文治の勅許では源頼朝へ、与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可しました。
そして建久元年(1190年)に源頼朝が権大納言兼右近衛大将に叙任され、公卿に列し荘園領主の家政機関たる政所開設の権を得たことで、
いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、さらに征夷大将軍の宣下(建久3年(1192年))がなされました。
特に、文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼしたことは決定的でした。
こうして鎌倉幕府は鎌倉時代を通じて名実ともに武家政権として成立することとなりました。
守護の設置で諸国の治安維持を幕府は担当したものの、その支配は限定的でしたが次第に範囲を拡大し、承久の乱や元寇などで全国的な支配権を確立するに至りました。
鎌倉幕府は元弘3年(1333年)に鎌倉の北條氏が新田義貞らの軍に滅ぼされて幕を閉じました。
この間の約150年間を鎌倉時代と呼びます。
幕府という武家政権による政治形態は、室町幕府・江戸幕府へと継承されました。

『吾妻鏡』に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られますが、当時、武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではありません。
朝廷・公家は「関東」と呼び、武士からは「鎌倉殿」と、一般からは「武家」と称されることが多かったといいます。
幕府とは、そもそも将軍の「陣所」を指す概念であり、源頼朝が右近衛大将に任官したことで、その居館「大倉御所」を幕府と称されたことがありますが、それは私邸を指す言葉であり源頼朝の開いた武家政権としての鎌倉幕府を指す概念ではありませんでした。
つまり、当時の源頼朝の武家政権は鎌倉幕府の称を用いていません。
武家政権を幕府と称したのは江戸時代になってからのことです。
さらに、鎌倉幕府という概念が登場したのは、明治20年以降とされています。
以上の理由から、鎌倉幕府の統治機構としての性格、あるいは成立時期というのもあくまで後世の、特に近代歴史学上のとらえ方の問題であり、今日一応の通説があるとはいえ、鎌倉幕府とは何か、その成立時期などについても必ずしも統一された見解がないのが現状です。

成立時期をめぐる諸説
年号
できごと
治承4年(1180年) 源頼朝が平氏追討のため配流先の伊豆国で挙兵。
源頼朝が侍所を設置(武士支配機構の成立)。
寿永2年(1183年) 朝廷から源頼朝に東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証。朝廷から間接的に土地支配権が認定(寿永二年十月宣旨)。
寿永3年(1184年) 源頼朝が公文所(後に政所と改称)・問注所を設置(行政・裁判機構の成立)。
文治元年(1185年) 平氏が滅亡(敵対武家勢力の消滅)。
源頼朝が朝廷から守護・地頭の設置を認められる。軍事・警察・土地支配権の確立(文治の勅許)。
文治5年(1189年) 源頼朝源義経とこれをかくまった奥州藤原氏を滅ぼす(全国の武士を動員し、対抗しうる武家勢力を排除)。
建久元年(1190年) 源頼朝が右近衛大将(律令制における武官の最高位)に任じられ治安維持に関する17ヶ條におよぶ命を受ける(大犯三ヶ條)。
建久3年(1192年) 源頼朝が征夷大将軍に任じられる。全国の武士に対する軍事指揮権を公認される(兵馬の権)。
承久3年(1221年) 北條氏を中心とする軍勢が承久の乱で後鳥羽上皇方を破る(全国特に西国掌握の完了・朝廷の掌握)。

 

大蔵幕府跡

鎌倉幕府はまず鶴岡八幡宮の東側、大蔵の地に置かれたので、のちに大蔵幕府と呼ばれました。
源頼朝は、はじめ亀ヶ谷の父源義朝の旧跡に邸宅を構えるつもりでしたが、土地が狭いことなどから大蔵の地を選んだとも伝えられています。
東西南北に門が設けられていたようで、現在でも西御門・東御門などの地名が残っています。
大蔵幕府は治承4年(1180年)から、3代執権北條泰時が若宮大路の宇都宮辻子に新たな御所を落成し、移転する嘉禄元年(1225年)までの45年間この地にありました。
源頼朝源頼家源実朝の源氏3代、そして尼将軍とも呼ばれた源頼朝の妻北條政子の時代にあたります。


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宇都宮辻子幕府跡

宇都宮辻幕府・宇津宮辻幕府とも記されます。二の鳥居から鶴岡八幡宮に向かって100mほど行った右側、雪ノ下カトリック教会の付近一帯と推定され、現在は宇都宮稲荷が祀られています。
辺りには、当時、町屋のほかに有力御家人が屋敷を構えていたと考えられています。
「宇都宮辻子」は、かつては若宮大路と東側の小町大路を結ぶ小路のことと考えられてきましたが、近年は、若宮大路の東側に南北通る小路とみなされています。
北條泰時は大蔵からこの地に幕府を移し、4代将軍藤原頼経を擁して、嘉禄元年(1225年)から嘉禎2年(1236年)までのおよそ11年間、執権として政務にあたりました。


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若宮大路幕府跡

嘉禎2年(1236年)から元弘3年(1333年)の幕府滅亡まで、97年間の将軍御所です。
若宮大路幕府は、宇都宮辻子幕府の北側に位置しました。


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wikipedia「鎌倉幕府」

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