武士列伝-大庭景親

武士列伝-大庭景親

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大庭景親(おおばのかげちか)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景宗の次男です。

保元の乱(1156年)で兄懐島景義が負傷したことで家督を継承しました。兄懐島景義とともに若くして出陣。源義朝の軍勢に属していました。兄懐島景義とともに白河北殿の西門を守る源為朝に挑みかかり、後三年の役で源義家のもとで戦った鎌倉景政の末裔であると名のりを上げて戦いました。強弓の勇者源為朝は鏑矢を放ち、懐島景義の左膝を砕きました。大庭景親は落馬した兄懐島景義を助けだして退散しました。兄弟の年齢から推定してこのとき17歳と考えられます。

平治元年(1160年)12月9日に行われた平治の乱では大庭氏の棟梁として出陣しており、平治の乱後には平家の忠実な家人となりました。保元の乱は源義朝の属する後白河天皇方の勝利に終わりましたが、平治の乱で源義朝は敗死して源氏は没落し、相模国の国衙在庁系豪族の三浦氏や中村氏は源義朝に近い立場であったため相模国内においては劣勢に立たされ、逆に源義朝とは疎遠であった大庭景親は平家への接近に成功し、それによって相模国内の大庭氏の立場が強化されました。

治承4年(1180年)5月に以仁王源頼政が平氏打倒の兵を挙げると(以仁王の挙兵)、足利忠綱らとともに追討の任にあたり、以仁王軍を撃破しました。
在京していた大庭景親は平家の家人伊藤忠清長田入道から、北條時政や比企氏が伊豆国の流人源頼朝を擁立して謀反を企てている密書のことを報らされています。このとき源頼朝に同心していた者のなかには兄懐島景義もいました。

8月2日に相模国へ帰国した大庭景親は、8月9日に佐々木秀義を自邸へ招いて源頼朝に謀反の疑いがあることを相談しました。ところが佐々木秀義の子佐々木定綱佐々木経高佐々木盛綱・佐々木高綱らはすでに源頼朝と意を通じており、驚愕した佐々木秀義は直ちに源頼朝に使者を送り告げました。
この報告を受けて、源頼朝は挙兵を急ぐことを決め、8月17日に源頼朝は挙兵し、伊豆国目代山木兼隆の館を襲撃して殺害しました。源頼朝は300余騎をもって土肥実平の所領のある相模国土肥郷(現在の神奈川県湯河原町)まで進出しました。

源頼朝が挙兵すると大庭景親は平家方の大将として、弟俣野景久をはじめ渋谷重国糟屋盛久熊谷直実ら平家方3,000余騎を集めて石橋山(神奈川県小田原市)で源頼朝の軍と対峙しました。
8月23日、三浦一族の軍勢が源頼朝と合流すべく迫っているのを知った大庭景親は大雨の上にすでに日が暮れているにもかかわらず攻撃をしかけ、数に勝る大庭勢は圧勝し、寡兵の源頼朝軍は壊滅して山中へ逃げ込みました(石橋山合戦)。大庭景親が41歳のときです。

大庭景親は山中をくまなく捜索させましたが、梶原景時源頼朝の所在を知りながら大庭景親らを別の山峯へ導いたためにとり逃がしてしまいました。源頼朝土肥実平の手引きで船で安房国へ逃れていきました。

9月2日に源頼朝挙兵を知らせる大庭景親の早馬が平清盛のいる福原に到着し、追討軍の派遣が決められますが、編成は遅々として進みませんでした。
その間に、源頼朝は安房国で再挙して房総半島を進軍し、千葉常胤上総広常がこれに加わり、武蔵国と下総国との国境の隅田川に達した9月末には2万騎以上になっていました。

10月には豊島清元葛西清重足立遠元河越重頼江戸重長畠山重忠ら東国武士が続々と源頼朝に参陣して数万騎に膨れ上がり、大庭景親には抵抗する術がなくなってしまいました。

10月6日、源頼朝は抵抗を受けることなく鎌倉に入りました。

平維盛を総大将とする追討軍の進発は遅れに遅れ、諸国の駆武者をかき集めながら進軍しますが、西国の飢饉のために士気は低下していきました。10月13日にようやく駿河国へ入りましたが、その直後に現地の平氏方の駿河国目代橘遠茂が甲斐源氏に撃破されてしまいました(鉢田合戦)。

10月18日、大庭景親は平氏軍と合流するために1,000騎を率いて出発しますが、西方はすでに敵方に固められていたため、やむなく兵を解いて河村山へ逃げ去りました。10月20日、富士川で源氏の大軍と対峙していた平維盛の平氏軍は戦わずして敗走してしまいました(富士川合戦)。

10月23日、大庭景親はついに源頼朝に降伏し、上総広常に預けられました。
10月26日に方瀬川(現在の神奈川県藤沢市片瀬の境川)で処刑され梟首にされました。享年は41歳。

源頼朝の挙兵に早くから参じていた兄懐島景義は御家人に列し、鎌倉幕府に仕えて長寿を全うしています。

Wikipedia『大庭景親』


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