鎌倉もののふ風土記-鎌倉郡と郷村
鎌倉郡にはいくつかの「郷」が存在していました。「郷」とは奈良時代に定められた地方の行政区で最下位の単位(年貢の徴収に適用される単位)となります。それまでは「里(り)」となっていました。そののちに「郷」のもとに「邑」が定められたといいます。
意味あいとしては、「郷」は地域をさし、「邑」は集落をさします。なのでいくつかの邑を集めて郷となっています(郷里制)。
鎌倉郡は、現在の市域でいうと鎌倉市全域と藤沢市東部の一部、逗子市全域、横浜市南部・西部の一部(戸塚区・泉区・栄区の全域と瀬谷区・港南区・南区・金沢区の一部)にあたります。
柏尾川流域を中心にしていることもあって縦長の郡で、承平年間(931~938年)に編集された『倭名類聚抄』には鎌倉郷・沼濱郷・埼立郷・荏草郷・梶原郷・尺度郷・大島郷の七郷がみられます。
鎌倉郡衙は御成(現在の鎌倉市役所・御成小学校一帯)で、かつては郡衙が今小路西という遺跡として存在していたといいます。
「鎌倉といえば源氏」と思われますが、意外にも五平氏と称された鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏ら平氏が勢力を誇っていた地域だということが郷村の名(地名)から分かります。
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鎌倉郡
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奈良に都が移された和銅3年(710年)に唐の都長安京にならって平城京がつくられ、天平10年(738年)には国家鎮護の祈願所として国ごとに国分寺と国分尼寺が建てられました。
相模国の国府(相模国府中)は海老名におかれ、相模国の国分寺も国府のおかれた海老名に創建されています。
相模国には鎌倉郡以外にも、足上郡・足下郡・余綾郡・大住郡・高座郡・愛甲郡・御浦郡などがあり、国府の海老名に国司が在庁し、鎌倉郡も統治下におかれました。
平安時代には荘園があり、鎌倉郡には山内荘(山内首藤氏)、吉田荘(渋谷氏)、俣野荘(俣野氏)、梶原荘(梶原氏)などが荘園としての性格をもっていたといいます。
源義家の家人で山内首藤氏を称していた藤原俊通が山内にて山内荘を立てたといいます。
藤原俊通の先祖は藤原秀郷の流れをくむ藤原助清が主馬首であったことから首藤氏を称してきました。
山内荘は、山内邑を含む小坂郷・山内本郷といわれた小菅ヶ谷邑や鍛冶ヶ谷邑などが中心地であり、さらに秋庭郷信濃邑(秋葉)・前岡郷(舞岡)・吉田郷・岩瀬郷・倉田郷など柏尾川流域も山内荘に属していたことが『円覚寺文書』『静岡大右寺文書』『島津文書』『証菩提寺文書』などから分かります。
山内荘にもみえた吉田郷ですが、『相模風土記』『戸塚郷戸誌』『荘園史料』などによると、吉田郷は吉田荘として渋谷氏が荘司として管理していました。
吉田下荘という表現をすることからも吉田郷の一部を吉田荘としていたのかもしれません。
『入来文書』『吾妻鏡』などによれば、源頼朝が建久3年(1192年)12月に渋谷氏を吉田荘の請所にしたといいます。
吉田荘は渋谷荘という別名がありました。
渋谷氏の本拠地は藤沢長後といわれ、河崎重家(河崎平三太夫)の子渋谷重国が長後渋谷城を居館としました。
渋谷重国の子には渋谷光重(渋谷太郎)・早川高重(早川次郎)・吉岡重保(吉岡三郎)・大谷重諸(大谷四郎)・曾司定心(曾司五郎)・落合重貞(落合六郎)らがいます。
渋谷一族が高座郡の中部に占拠していたことがうかがえます。
『法華堂文書』に「相模国渋谷荘西飯田郷内」と記されていることから、渋谷荘の中心地は高座郷であり、飯田郷や吉田郷にまで広がっていたことが分かります。
梶原荘は鎌倉景正(鎌倉権五郎)を祖とする梶原氏が荘司として管理してきました。
村岡に祭祀された鎌倉景正の御霊社には分社があり、川名・玉縄・長尾・田谷・原宿・深谷(三島社)・茱萸沢(汲沢)・葛之(葛野)などに鎮座されています。
中田の御霊社は葛野から移されたものといいます。
川名から北へいたり葛野への帯状の地域が梶原荘であり、西に俣野氏が管理している俣野荘があります。
俣野荘から俣野川(境川)を隔てて西に大庭御厨があり、大庭氏の領土です。
鎌倉景正の子大庭景経、大庭景経の子大庭景宗、大庭景宗には長男大庭景義・次男俣野景久がいます。
このように、鎌倉郡は山内首藤氏(藤原氏)を除いて、すべて平氏の一門が所領としていたことが分かります。
保元元年(1156年)に起きた保元の乱では相模国から大庭景義・大庭景親兄弟、山内首藤俊通・首藤俊綱・海老名季定・波多野延景・荻野志義らが参戦しました。
3年後の平治の乱でも彼らは源氏方として参戦しています。
平治の乱で勝利した平清盛を中心とする平氏の一族は藤原氏にかわって政治の実権を握り全盛時代を迎えますが、全国の源氏が一斉に立ち上がり、治承4年(1180年)8月に源頼朝が兵をあげ、伊豆国へ進軍し山木兼隆を討ち、勢いそのままに相模国へ進むと石橋山で合戦となりました。
俣野景久(俣野五郎)・梶原景時・山内首藤氏らは平氏方につき、源頼朝軍を撃破しました。
梶原景時は源頼朝を見逃し、源頼朝は安房国へ逃れ、千葉氏の後ろ盾を得ると鎌倉へ再度進軍を開始しました。
俣野景久や山内首藤経俊らは所領を召し上げられ、源頼朝方についていた大庭景義に俣野郷が与えられ、山内荘は土肥実平に与えられました。
源頼朝は建久元年(1190年)に権大納言右近衛大将に、建久3年(1192年)7月に征夷大将軍となり、公文所を政所として大江広元を京都から招き別当としたことで鎌倉幕府は成立しました。
相模国の初代守護に三浦氏がなったといいます。
鎌倉時代の鎌倉郡は、文永7年(1270年)に岡津郷の地頭として甲斐為成(甲斐三郎左衛門尉)の名が『相承院文書』に、延応元年(1239年)に飯田郷を幕府から返還された飯田能信(飯田三郎)の名が『我覚院文書』に、正安3年(1301年)に長尾郷の地頭として加世長親(加世孫太郎)の名が『相承院文書』に残っています。
治承4年(1180年)に大庭景親に従い源頼朝方について戦った飯田家能(飯田五郎家義)や建久元年(1190年)に源頼朝が上洛するときに従兵した加世次郎らの名がみえることから、戦後に功として所領を安堵されたものと思われます。
また、和泉郷の地頭として泉親平(泉小次郎)、柏尾郷の地頭として樫尾景方(樫尾三郎)、長沼郷の地頭として長沼宗政(長沼五郎)、谷部郷(矢部郷)に矢部為行(谷部太郎)、秋庭郷に矢部為行の弟矢部義光、前岡郷(舞岡郷)に舞岡兵衛が所領としていました。
山内荘は山内首藤氏が領土を没収された後に土肥実平に与えられていましたが、和田義盛の手に移っていたといいます。
貞永元年(1232年)に御成敗式目がつくられた頃、嘉禎元年(1235年)に北條泰時の娘小菅谷殿が山内荘(山内本郷)小菅ヶ谷邑で新阿弥陀堂を設えています。
仁治元年(1240年)3月に倉田郷が供米用として新阿弥陀堂に寄進されたにも関わらず、供米が滞り納入されないとして岩瀬郷が替地として寄進されました。
ところが『証菩提寺文書』によれば、正和2年(1313年)に岩瀬郷の給主矢田盛忠が供米を納めないと証菩提寺から幕府に訴えがあり、同じような問題が再発していることが分かります。
矢田盛忠は抗弁しましたが、幕府は認めず納入を再び命じています。
この頃、三浦義村の子三浦泰村が謀反を企てているという流言が流れましたが、執権北條時頼は三浦氏を信じ、当初はとりあいませんでした。
ところが安達景盛の意を受けて孫の安達泰盛が三浦泰村を攻めて、宝治元年(1247年)5月に宝治合戦が起こりました。
結局、北條時頼は、一族北條時定らに三浦泰村を攻めさせ、三浦泰村・三浦光村兄弟は討死しました。
三浦泰村に与した矢部郷の地頭で矢部堀之内城主の矢部義行(矢部太郎)は上矢部邑篠塚の九日谷で戦死しました。
矢部郷は鶴岡八幡宮に寄進されています。
弘安7年(1284年)に「山内荘秋庭郷内信濃邑」と鎌倉名越の長福寺領となり、『法華堂文書』によれば弘安8年(1285年)に幕府が「渋谷荘西飯田郷内田壱」を鎌倉法華堂に寄進しています。
嘉元4年(1306年)に北條貞時は「山内荘吉田郷内田壱」を円覚寺に寄進しています。
『静岡大石寺文書』によれば、延慶2年(1309年)2月に南條時光は嫡男南條時忠に山内荘舞岡郷を与えています。
正安元年(1299年)に長尾郷田屋(田谷)を領していた加世長親(加世孫太郎)が年貢を納めず、奉行をつとめる三浦政連と土屋宗実が使者として要求したが従わなかったため、加世氏は供田をとりあげられたとされます。
ただ加世氏は地頭としてそのまま在地しており、正和3年(1314年)にも田屋(田谷)・金井の年貢をめぐって地頭である加世氏と供僧の争いが起こっています。
田谷の隣長尾郷小雀邑でも年貢米のことで地頭佐々木千手丸が納めないとして鶴岡八幡宮供僧良尋が永仁3年(1295年)に訴えたことで問題となっています。
時代は室町時代に入り、観応2年(1351年)に足利尊氏が吉田郷を鶴岡八幡宮に寄進したことが記録に残っています。
観応の騒乱が起こり、足利尊氏が弟足利直義を倒した時期になります。
また応永元年(1393年)には上杉能俊(上杉道高)が秋庭郷内の那瀬邑を寄進し、父上杉重兼や母、上杉重能(上杉道宏)らを追善しています。
足利尊氏から岩瀬郷を与えられた島津忠兼は池田右衛門尉を代官として岩瀬郷を支配させていましたが、文和3年(1354年)に飯田郷の飯田七郎左衛門尉が岩瀬郷に乱入し池田右衛門尉を殺害しました。
島津忠兼の訴えから足利尊氏は次男で関東管領をつとめる足利基氏と江戸直重に処置を命じました。
しだいに関東管領が鎌倉郡で勢威をふるうようになりました。
その関東管領足利氏を支えていた執事職をつとめていたのが上杉氏で、上杉氏は扇谷上杉氏・詫間上杉氏・犬懸上杉氏・山内上杉氏の四家に分かれていました。
山内上杉氏の権力が高まる一方で、対抗意識をもって対立していたのが犬懸上杉朝宗と子の上杉氏憲でした。
応永18年(1411年)2月に山内上杉憲定にかわって犬懸上杉氏憲(上杉禅秀)が執事職につくとますます対立は激しくなり、応永22年(1415年)に関東管領足利持氏によって執事職の犬懸上杉氏憲は辞任し、山内上杉憲基が新たに任命されました。
足利持氏と上杉氏憲の対立となり、応永23年(1416年)に室町幕府は駿河国守護今川範政や越後国守護山内房方に出兵を命じ、越後国に逃れていた上杉氏憲と戦いとなりました。
当初犬懸上杉氏憲についていた武蔵国の豊島氏や江戸氏が裏切り幕府側につき、上杉氏憲は世谷ヶ原合戦(瀬谷)で敗れ鎌倉へ敗走しました。
上杉氏憲に与していた足利満隆・足利持仲らとともに自刃し、足利持氏の勝利で上杉禅秀の乱は終わりました。
永享10年(1438年)6月に足利持氏が長男足利賢王丸を元服させ足利義久と命名しようとしていたときに、執事職の山内上杉憲実との関係がこじれ、足利持氏は上杉憲実を攻め、上野国へ追いました。
関東管領足利持氏の勢威に危険を感じた室町幕府は足利持氏討伐にふみきり、犬懸上杉氏憲の子上杉持房を先鋒とする大軍を鎌倉へ送りました。
上野国から山内上杉憲実も武蔵国の分陪河原に出陣し、関東諸氏の多くが上杉憲実方に与しました。
足利持氏についていた三浦時高も裏切り、足利持氏は長尾郷の長尾氏に捕えられました。
この一連の争いを永享の乱といいます。
以後、山内上杉氏と犬懸上杉氏が威勢をはりました。
幕府とのつながりを強くもつこととなった上杉氏が関東管領となり、実権を握っていたのは山内上杉氏の家宰長尾景仲、扇谷上杉氏の太田資清です。
長尾景仲の孫長尾景春の代には武蔵国・相模国の土豪たちから支持を受け、越後国守護代の長尾為景や古河公方足利氏も長尾景春を支持したことで長尾氏の勢力は拡大していきました。
嘉吉3年(1443年)にわずか9歳で将軍となった足利義政をとりまく人たちは身の保全と出世に終始し、三魔と呼ばれた足利義政の愛妾今参局、足利義政の母の従姉弟にあたる大納言烏丸資任、有馬持家のほか、正妻の日野富子、黒幕として幕府を動かしていた管領細川勝元、四職山名持豊(山名宗全)らが政界で勢力をのばそうとしていました。
応仁元年(1467年)に、足利義視と足利義尚の家督争いでは細川氏と山名氏のほかに畠山氏や斯波氏がからみ、細川勝元・斯波義敏・畠山政長らの東軍と、山名持豊・斯波義廉・畠山義就らの西軍が京都で激突しました。
応仁元年(1467年)の頃に富塚郷では円覚寺雲頂庵の所領があったといいます。
円覚寺雲頂庵は長尾忠景と芳隠省菊によって再興されています。
沢辺森忠(沢辺孫太郎)・沢辺善阿弥(沢辺小太郎入道)らが年貢を納めるとの記録が『雲頂庵文書』に残っています。
戦国時代になると、伊勢盛時が駿河国富士郡の興国寺城から関東へ侵攻しています。
伊勢氏は備中国を本拠にしていた有力豪族です。
伊勢盛時が妹婿の今川義忠に招かれるかたちで駿河国を警護するようになったのですが、今川義忠が文明8年(1476年)に戦死した後に起こった家督相続争いにおいて、相続争いをまとめた功によって、伊勢盛時は駿河国の興国寺城主に迎えられ、今川氏の幼い君主今川氏親をよく援けていきました。
駿河国から相模国へと勢力を広げていくにしたがって、はじめは今川氏に従属していた伊勢氏も次第に独立性を高めていきました。
伊豆堀越御所で公方足利政知が亡くなると、子の足利政綱(足利茶々丸)は継母(円満院)と弟(足利潤童子)を殺害し、老臣も殺すという堀越公方の内紛は目にあまるものがありました。
この内紛を利用し、延徳3年(1491年)に伊勢盛時は駿河国今川氏を後ろ盾に伊豆国へ進軍し、足利政綱を討ち、韮山城に入城し相模国への足がかりとしました。
明応3年(1494年)8月には小田原城主大森氏頼が亡くなり、子の大森藤頼が跡を継ぎ、9月には三浦義同(三浦導寸)が義父三浦時高を殺し自立しました。
三浦義同は三浦時高の養子ですが、三浦時高に実子ができてからは疎まれ、母の実家小田原城主大森氏の援助を得て新井城を攻め三浦時高を殺し、新井城に子の三浦義意を配置し、三浦義同自身は岡崎城に入りました。
このように内乱が勃発してた相模国に伊勢盛時が攻め込んみ小田原城を制圧したのは明応4年(1495年)でした。
相模国で力を有していたのは小田原の大森氏と三浦氏だけではありません。
扇谷上杉氏が隠然たる勢力を誇っていました。
扇谷上杉氏と山内上杉氏の争いが起こっていたため、伊勢盛時は当初は扇谷上杉定正を援け、山内上杉顕定との戦いを支援していました。
ところがそのままでは当然伊勢盛時の相模国侵攻を許すだけだと、扇谷上杉氏と山内上杉氏が手を結んだのは永正2年(1505年)でした。
伊勢盛時にとって上杉氏の和睦は、東国平定の大きな壁となります。
しかも古河公方にまで手を握られてはさらに困難となります。
そこで伊勢盛時は反上杉派の足利高基を誘い内乱を起こさせました。
伊勢盛時の謀略は効を奏し、古河公方足利政氏と子の足利高基の内乱では、足利政氏方に山内上杉顕実がつき、足利高基方に山内上杉憲房や扇谷上杉朝定らがつくなど関東諸豪族が二分する戦いとなり、公方足利氏と執権上杉氏の分裂が促進され、伊勢盛時の相模国侵攻が進む結果となりました。
鎌倉郡では、長尾郷の長尾顕忠と婿養子長尾顕方が伊勢盛時への対応を迫られていました。
長尾顕忠の弟長尾景致の子長尾顕方が長尾顕忠の娘婿です。
長尾顕方の子には長尾景秀がいます。
長尾顕方の妻華渓幸春尼らは永正6年(1509年)11月に伯貞を龍隠軒の再興のために迎え所領を寄進するなど、所領の安堵のためにあらゆる手を尽くしていることが分かります(『長尾顕忠後家幸春寺領寄進状』)。
永正9年(1512年)10月には伊勢盛時は三浦義同と一戦を交える覚悟をし、三浦半島の頸部ともいうべき地点となる玉縄城を築きました。
永正16年(1519年)8月に伊勢盛時が亡くなり、大永元年(1521年)2月に伊勢氏綱は娘を古河公方足利高基の子足利晴氏に嫁がせ、武蔵国に進出するきっかけをつくりました。
大永3年(1523年)6月、伊勢盛時の長男伊勢氏綱の代で北條氏を称しています。
伊勢氏から北條氏への改姓は、鎌倉幕府を支配した執権北條氏の影響力を利用しようとしたためで、北條氏綱が称した官途である名左京大夫や、北條氏康から称した受領名の相模守も、鎌倉北條氏で歴代の執権が称してきたものを踏襲したものでした。
鎌倉北條氏では当主が左京大夫を、隠居した際に相模守を称するのが通例でした。
北條氏綱は京都との接触を最低限にとどめ、関東管領職の継承と関東公方を君主とした関東独立国家を最大の目的としていたのです。
大永4年(1524年)に北條氏綱は上杉朝興と高輪原合戦で一戦を交えて江戸城を獲得しました。
大永5年(1525年)には岩槻城を攻め落としています。
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