鎌倉もののふ風土記-鎌倉の地名

鎌倉もののふ風土記-鎌倉の地名

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「鎌倉」は奈良時代から平安時代に見える郷の名で、相模国鎌倉郡鎌倉郷でした。
「鎌倉」の名が文書に登場するのは、古く和銅5年(712年)に完成した『古事記』の景行天皇のなかで、日本武尊の子足鏡別王を「鎌倉之別の祖…」と記しているのが最初です。
神奈川県綾瀬市の宮久保遺跡からは、「鎌倉郡鎌倉里」と墨書された「天平5年(733年)」銘の木簡が出土し、天平7年(735年)に作成された『正倉院文書』のなかの『相模国封戸祖交易帳』には、鎌倉郡鎌倉郷30戸、田35町109歩という文字が記されていること、また正倉院御物の古裂に、鎌倉郡片瀬郷という文字が書かれていることなどから、奈良時代ごろには「鎌倉」という名前が使われていたことが推定されます。
鎌倉の地名は歌にも詠まれ、『万葉集』には「可麻久良」と記されます。
鎌倉という名前の由来には、地形的なもの、伝説的なものなど諸説あるようです。
地形的な由来としては、鎌倉の「かま」は、もともと「かまど」を意味し、「くら」は「谷」のことだという説があります。
鎌倉の地形は、東・西・北の三方を山で囲まれ、南側が海に面して開けており、ちょうど竈のようなかたちで、「倉」のように一方が開いているので、「鎌倉」となったといいます。
伝説的なものには次のような言い伝えがあります。
藤原鎌足が鹿島神宮に参拝の途中、由井里(由比郷)に泊まった夜に不思議な夢を見たので、護身用に持参していた鎌槍を、大倉の松ヶ岡に埋めました。
その鎌の名をとって「かまくら」になったともいわれています。
そのほか、鎌倉の海岸近くには蘆や蒲がたくさん生えていたから「かまくら」になったという説もあります。
また、比叡山にも鎌倉という地名があり、それは「神庫」がなまったものといわれており、同様に鎌倉にも「神庫」があったのでそれが同様に「かまくら」になり鎌倉の字をあてたという説もあります。
いずれにしても由来を明らかにした資料はなく、詳しいことは分かりません。

稲村ヶ崎

鎌倉の海岸線を由比ヶ浜と七里ヶ浜に分ける岬の地形が、まるで稲束を積み上げたように見えることから、地名の由来になったといわれます。

今泉

伝説では、昔、今泉の奥を金仙山といい、仙人が住んでいたといわれています。
諸国を遍歴していた空海(弘法大師)は紫雲に導かれてこの地にたどりつきました。
すると仙人が現れ「村人が水に困っている。水が出るように不動明王の像にお願いしなさい」というので、村人とともにお祈りをすると、空海(弘法大師)が岩肌に掘った2つの穴から水が湧き出したので、金仙山を今泉山と記すようになり、「いまいずみ」が土地の名前になったとされます。

扇谷

「扇ノ井」があるから、または谷戸が扇のように広がっていることに由来するといわれます。
鎌倉駅の北西一帯は、かつては「亀谷」と呼ばれており、「扇谷」は英勝寺の裏の狭い地域の名であったといいます。
室町時代に、この辺りに住んだ関東管領の一族上杉定正が「扇谷殿」と呼ばれるようになり、「亀谷」の名よりも「扇谷」が地名として一般的に使われるようになったともいわれます。

大船

古くは「粟船」「青船」と記されています。
大船の地名は、辺りが入江であったころ、粟を積んだ船がつながれていたことによると伝えられています。

大町

鎌倉時代以降、下馬橋辺りから名越までの広い地域を大町と呼んでいます。
大町大路と小町大路が交差する辺りが鎌倉時代の商業地と考えられています。
「大町」は小町に比べて町の規模が大きかったためといわれています。

御成

現在の御成小学校から鎌倉市役所のある場所に、明治時代に御用邸が建てられ、皇族方が御成りになったことから町の名前になりました。
ただし、もとは小町と大町の一部で、昭和40年(1965年)に住居表記の実施で生まれた新しい町名です。

下馬

若宮大路には上ノ下馬橋・中ノ下馬橋・下ノ下馬橋と各下馬橋に馬を留める場所があったといいます。
鎌倉時代に鶴岡八幡宮に参拝するときは、貴人が神仏に敬意をはらってここで馬を下りることになっていたことから、「下馬」が地名になったと伝えられています。
一般的に「下馬」は下乗・下馬渡しともいわれ、寺社や高貴な人の館の前を通るときには、敬意をあらわして馬を下りることをいいます。
滑川に架かる橋に下馬橋の名が残ります。

極楽寺

正元元年(1259年)、2代執権北條義時の子北條重時が創建しました。
さらに北條重時の子北條長時北條業時の兄弟が当時多宝寺に入山していた忍性を招いて開山しました。
多宝寺は最盛期には七堂伽藍のほか49の支院があったといい、広大な境内と寺領を有していたとされます。
現在では寺の名が地名になっています。

腰越

鎌倉市の最南端です。北の山に住んでいた人が南の海際の肥えた土地を求めて、山の腰を越えるように移り住んできたことから、この地名がついたといわれています。
また一説には、深沢という湖に5つの頭をもつ龍が住んでいて、里村に来ては子どもを食べるので、人々はこの土地を離れました。
それで「子死越」というようになり、いつか「腰越」になったともいいます。

小町

小町大路の夷堂橋以北を小町、夷堂橋以南を大町と称したので、大町に対する地名になったといいます。
『吾妻鏡』にも記された商業地域で、若宮大路に並行して宝戒寺前から材木座にいたる小町大路は、物資輸送の道としても重要で多くの人が往来しました。

材木座

現在、逗子市小坪と境を接する滑川の河口左岸地域を示します。
鎌倉時代、この地域に集住した材木を扱う商工業者によって組合(座)が結成され、それが地名の由来となったと伝わります。
貞永元年(1232年)に現在では日本最古の築港遺跡として知られる和賀江嶋が造られました。

坂ノ下

鎌倉七口の1つである極楽寺坂切通の下にある地域なので、坂ノ下と呼ばれるようになったとされます。

佐助

銭洗弁財天宇賀福神社や佐助稲荷神社などのある谷戸で鎌倉時代からの地名です。
北條政子の父で初代執権北條時政の孫であり、佐介氏の祖となった北條時盛が邸を構えたことに由来する説や、伊豆国配流中に病に伏した源頼朝(佐殿)を現在の佐助稲荷神社の位置に立つ祠から現れた神霊が助け、挙兵をすすめたという伝説から「佐殿を助けた」が「佐助」になったともいわれます。

七里ヶ浜

稲村ヶ崎から小動岬までのおよそ2.9kmの海岸です。
「七里」には、長い道のりという意味があり、長くつづく海辺であったため名づけられたのであろうといわれています。

十二所

光触寺境内にあった熊野十二所権現社(現十二所神社)に由来するともいわれます。
十二郷ヶ谷ともいわれ、十二戸の村であったからともいわれています。

浄明寺

鎌倉五山の1つ浄妙寺があることから、寺の名前にちなんで名づけられ、寺の名前と同じく浄妙寺村としていましたが、格式の高い寺院の名前を地名に使うことをはばかってか、浄明寺となったといいます。

玉縄

由来の詳細は不明ですが、辺りから古代の人々がつくった綺麗な飾り玉が出土したことに由来するともいわれ、玉輪とも記しました。
昭和44年(1969年)の住居表記の変更で、玉縄の名をうけ継いで新しい地区が誕生しました。

手広

地形が人の手を広げたようなかたちで広がっていることから名づけられたといわれます。
また、昔、戦場となったときにある大将が敵に片手を切り落とされ、それを見た家臣が「大将の手を敵方に拾われたら恥になる」と、その手を拾いこの土地の寺に納めたことから、「手拾い」が転じて手広になったとも伝わります。

二階堂

文治5年(1189年)に奥州合戦に勝利した源頼朝が、平泉・中尊寺の二階大堂(大長寿院)を模して建立した永福寺の本堂を二階堂といったことから、地名となったといわれます。

西御門

源頼朝は、最初、先祖ゆかりの地であった大蔵に御所を構えました。
四方にそれぞれ門をつくりましたが、西側の門を西御門といい、その名が地名として残りました。

長谷

大和国(奈良県)の長谷寺にならって、十一面観音を祀った長谷寺がこの地にあることから、長谷が地名となったといいます。

由比ヶ浜

稲村ヶ崎から飯島岬までの海岸の総称で、古くは「由井」「湯井」などとも書かれ、鎌倉時代には「前浜」とも呼ばれました。
名前の由来は、由比郷内にあったからとも、「結」という相互に助けあう組合のような組織の名からきているともいわれます。

雪ノ下

源頼朝が夏の炎暑をしのぐため、雪を貯蔵しておく雪屋(氷室)を鶴岡八幡宮の北側に設けさせたからとも、「ユキノシタ」という植物が多く生えていた場所だからともいわれます。

地名は、いわば「夢の跡」を物語り、「亡びの美」の象徴ともいえよう。地名の由来から、中世都市鎌倉の歴史と文化を探る。400余の地名について、由来のほか、範囲・史料上の初見・歴史事項・現状を解説。

【本の情報】
出版社:東京堂出版(三浦勝男)
初版発行:2005年9月
ページ数:205ページ
定価:2,310円

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