鎌倉もののふ風土記-鎌倉の道

鎌倉もののふ風土記-鎌倉の道

HOME > 歴史・旧跡-鎌倉の道ページ

鎌倉には、京の朱雀大路を模してつくられた基幹道路である若宮大路を中心に、大小様々な通りがあります。
幅の広い大通りを大路、幅の狭い道を小路、さらに大路や小路を結ぶ小道を辻子と呼び、その道が交差する角を辻といいました。

道名 備考
六浦道
朝比奈切通 朝夷奈切通・峠坂・金沢切通ともいいます。大小2つの切通からなり、鎌倉と武蔵とを結ぶ軍事・経済上の要路でした。和田義盛の三男朝比奈義秀が一夜で切り開いたという伝承があります。
稲荷小路 十二所の「大江稲荷社」への参道。「番場ヶ谷字稲荷山にあり」と『風土記稿』に記されています。
稲荷小路 浄明寺の「鎌足稲荷社」への参道。
宇佐小路 十二所の「光触寺」のある谷の小字です。「うさの宮下」「うさ宮」「うさ小路」など記録があり、宇佐八幡社への参道。
犬懸坂 『源平盛衰記』に「犬懸坂」と記されています。坂東礼所第一番の杉本寺から衣張山を越えて二番岩殿寺へ向かう巡礼路のこととされています。
綾小路 寿福寺と巽荒神社のなかほどから今小路と分かれて若宮大路へと通じる道で、今小路から段葛までの重要な近道でした。貞享年間(1684~1687年)作図「寿福寺領地図(国宝館図録17)」にある小路名です。
巌小路 馬場小路付近から巌堂までの路です。岩井小路・岩谷小路とも書きます。

 

若宮大路

鶴岡八幡宮からまっすぐに由比ヶ浜までおよそ1.8kmにわたって延びる参道です。
鶴岡八幡宮を内裏に見立て、京都の朱雀大路を模してつくられたと考えられています。
中央の段葛(置石)も一緒につくられたと推定され、鎌倉幕府による中世都市鎌倉の町づくりの中心線としての役割をはたしました。
遠近法が用いられ、鶴岡八幡宮に向かうにつれて道幅が狭くなっています。
もっとも近年、このように若宮大路を京都の朱雀大路になぞらえた都市計画が行われたとする見方に疑問も出されています。
なお発掘調査によれば、若宮大路の道幅はおよそ33mで、東側には御家人の家や庶民の家が建てられていたといいます。
また若宮大路には由比ヶ浜から八幡宮へ向かって、一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居と3つの鳥居があり、かつては両側に松並木がありましたが、いまはその面影をほとんど失っています。
「日本の道百選」にも選ばれています。国指定史跡です。


より大きな地図で 若宮大路 を表示

 

段葛

若宮大路の中央につくられた参詣道です。
段葛と呼ばれるようになったのは江戸時代以降のことです。
『吾妻鏡』などによれば、寿永元年(1182年)3月、妻北條政子の安産を祈願して、源頼朝北條時政ら武将に命じて、若宮大路とともに造営したと推定されます。
当初の様子は定かではありませんが、のちになって「かつら石」を置いて若宮大路の通りよりも高いところに造ったことから、置路・置石・作道と呼ばれ、いまでも置石の地名が残っています。
江戸時代末には現在の下馬四ツ角までとなり、さらに明治時代になって横須賀線の開通で姿を変え、現在は二の鳥居から鶴岡八幡宮前の三の鳥居までのおよそ500mほどです。
大正時代に両側に桜を植えて、現在のような参道に整えられました。
このような置路が残っているのは全国でも鎌倉だけで、貴重な遺構です。神奈川県指定史跡です。

 

横大路

鎌倉時代の初期は大蔵幕府の前面の通りと考えられ、六浦津と鎌倉を結ぶ六浦道(金沢道)の一部の名称と推定されます。
また、近世では、鶴岡八幡宮の三の鳥居の前から宝戒寺の前までの道といわれています。


より大きな地図で 横大路 を表示

 

小町大路

鶴岡八幡宮の東側の「筋違橋」から宝戒寺・本覚寺前を通り、材木座までの道筋が鎌倉時代の小町大路と考えられ「町小路」とも称されました。
いつのころからか、本覚寺門前にある鎌倉十橋の1つ夷堂橋が大町と小町の境とされたため、北の部分を小町大路と呼ぶようになったとも考えられます。
現在も小町大路と呼ばれていますが、明治時代には小町小路・小町公路・小町広路の記述もみられます。


より大きな地図で 小町大路 を表示

 

大町大路

下馬四ツ角から大町、名越切通までの道です。
鎌倉の東西を結ぶ重要な道でした。
下馬四ツ角から小町大路と交わる辺りは鎌倉時代の繁華街と考えられています。


より大きな地図で 大町大路 を表示

 

二階堂大路

六浦道の岐れ路の先、左手の関取場跡付近から、鎌倉宮参道と並行する二階堂川沿いの道をたどり、永福寺跡から瑞泉寺方面へ通じる道のことといわれています。


より大きな地図で 二階堂大路 を表示

 

西大路

現在の横浜国大附属小学校・中学校の東側、西御門の谷戸に向かう道で、大蔵幕府の西門に面した通りであったと推定されます。


より大きな地図で 西大路 を表示

 

長谷小路

長谷寺前から六地蔵辺りまでをいいます。また、下馬橋付近まで含むとする説などもあります。
長谷の地名は、鎌倉後期以降、長谷寺が創建されてからですから、小路名もそれ以後についたと思われます。


より大きな地図で 長谷小路(由比ヶ浜大通り) を表示

 

今小路

寿福寺前の勝ノ橋から巽神社前までとされますが、『吾妻鏡』などの古い記録には見られません。
現在では一般に六地蔵に至る道を今小路と呼んでいます。


より大きな地図で 今小路 を表示

 

馬場小路

鶴岡八幡宮の西側を南北に通じる道で、小袋坂下から鉄ノ井の前までをいいます。
「ばばこうじ」もしくは「ばんばこうじ」と読みます。


より大きな地図で 馬場小路 を表示

 

塔ノ辻

由比ヶ浜通りの笹目バス停近くの十字路です。
江戸時代の古絵図から推定すると、鎌倉に7ヶ所あったといわれる塔ノ辻の遺跡の1つで、建長寺前・円覚寺前・浄智寺前・鉄ノ井付近・下馬・小町・宝戒寺の南辺りにも塔ノ辻があったといいます。
地名としては本来、2本以上の道が交わった場所(辻)に石塔が置かれたことを意味し、現在では、笹目の塔ノ辻だけに残っています。
いまでも花が供えられ保存されています。

 

田楽辻子

報国寺前の宅間谷と犬懸谷を結ぶ小道のことです。
田楽とは、平安時代からあった民間芸能で、この辺りに田楽法師の家があったことからこの名がついたといわれています。
田楽辻子の名は『吾妻鏡』にも見えます。


より大きな地図で 田楽辻子 を表示

 

鎌倉往還(鎌倉街道)

鎌倉往還とは、鎌倉を起点として放射状に延びる中世の幹線道路のことです。
特に「いざ鎌倉」に代表されるように、「鎌倉へ向かう」道として整備されたといわれています。
『吾妻鏡』には「鎌倉往還」とあり、「鎌倉街道」と称されるようになったのは江戸時代になってからといわれています。
源頼朝は、鎌倉と京都の間に、新しい駅制「駅路の法」を制定したといいます。
宿駅に馬を常駐させ、宿から宿へ騎馬飛脚や飛脚を走らせる制度であり、東海道の宿駅を整備しました。
宿駅とは旅宿業者を中心とした交通集落で、人馬により宿駅間の物資輸送を行うための要所であり、2~3里の間隔で置かれていました。
地方から半年に1度あるいは1年に1度、鎌倉大番役(御所など幕府の警護)を勤める東国の御家人や、領地争いの訴訟を抱えた地方武士などが盛んに往来したかもしれません。
『新編相模国風土記稿』には、鎌倉郡には小往還が7つあり、そのうち5つを鎌倉街道と呼び、鶴岡八幡宮へ参詣する道であったと記されています。
一般には、南北朝時代の『太平記』『梅松論』にある上の道、中の道、下の道の3つが、後世、鎌倉街道と呼ばれる主要路となりました。
それぞれの道の経路については諸説ありますが、一般的には「上の道」とは、鎌倉・化粧坂→洲崎→渡内(藤沢)→柄沢→飯田→瀬谷→鶴間→多摩川→分陪→府中→国分寺→狭山→小川→碓井峠で、信濃路・上州路・武蔵路に分かれる道のことをいいます。
建久4年(1193年)に源頼朝が行った入間野・那須野の狩りはこのルートを使った可能性もあります。
また、元弘3年(1333年)の新田義貞の鎌倉攻めはこのルートが主に使用されたといいます。
「中の道」は、鎌倉→大船→二子→板橋→宇都宮のルートとされています。
「下の道」は鎌倉→帷子→浅草のルートとされ、房総半島の木更津方面や茨城の石岡方面に通じていたといわれています。
鎌倉往還は、鎌倉幕府が滅びた後も、室町幕府が鎌倉に鎌倉府をおいて政治的拠点と位置づけていたため、重要なルートでした。
その後、鎌倉公方が鎌倉から離れ、後北條氏が興って政治・経済の中心が小田原に移るなど、鎌倉の地位はしだいに衰退しました。
江戸時代になって江戸を中心とした街道が整備されるようになると、鎌倉街道の3つの道も衰退に向かっていったようです。
詳しくは鎌倉街道ページ

 

鎌倉七口

鎌倉への出入り口は「鎌倉七口」と呼ばれて7つあり、出入り口として整備されました。
室町時代中期の記録にみえる「京都七口」を模した鎌倉名数の1つとされ、鎌倉七切通ともいいます。
三方を山で囲まれ要害の地だった鎌倉は、外の地域との行き来には、険しい峠を越えなければなりませんでした。
「切通」とは文字通り、山や丘陵を切り開いて通した道のことです。
交通の要路であると同時に、外敵の侵攻から鎌倉を守るための防御拠点ともなりました。
防御拠点としての切通には「切岸」「平場」など様々な人工的な仕掛けが施され、馬がやっと通れるほどに道幅を狭め、わざと見通しのきかない道にしました。往来する旅人には通りにくい道です。
「切岸」は山の斜面を垂直に削り取って人工的に崖にしたものです。
「平場」は山頂や山腹につくられた平な場所のことです。
非常時にはここから眼下を通る人馬を監視して、必要とあれば上から矢を射ったり、投石して攻撃したと考えられます。
詳しくは鎌倉七口ページ

▲ページトップに戻る