鎌倉の名数-鎌倉十刹(関東十刹)
「十刹」は五山に次ぐ禅宗寺院の格式を表すもので、鎌倉時代には天下十刹といって全国に10寺のみでしたが、室町時代には京都と鎌倉(関東)にそれぞれ10寺ずつ定められました。京都と鎌倉(関東)に限定したために資格を剥奪された寺院が強く反発したために枠外で「十刹」に追加される寺院が現れ、明応元年(1460年)には46寺、さらに後には60寺まで増加しました。
「五山」「十刹」に次ぐ格式を表す「諸山」も230寺ほどあったといいます。
鎌倉時代末に定められた天下十刹は、一位:浄妙寺、二位:禅興寺、三位:聖福寺、四位:万寿寺(京都)、五位:東勝寺、六位:万寿寺(鎌倉)、七位:長楽寺、八位:真如寺、九位:安国寺、十位:万寿寺(豊後)です。
のちに清見寺、臨川寺、等持寺が追加となりました。諸山としては崇寿寺があげられます。
至徳3年(1386年)に足利義満が制定した京都十刹は、一位:等持寺、二位:臨川寺、三位:真如寺、四位:安国寺、五位:宝幢寺、六位:普門寺、七位:広覚寺、八位:妙光寺、九位:大徳寺、十位:龍翔寺です。
関東十刹(鎌倉十刹)は、一位:禅興寺、二位:瑞泉寺、三位:東勝寺、四位:万寿寺(鎌倉)、五位:大慶寺、六位:興聖寺、七位:東漸寺、八位:善福寺、九位:法泉寺、十位:長楽寺です。
のちに東光寺、長勝寺などが追加されました。
第一位 | 禅興寺 | 鎌倉郡巨福呂郷 | 現在は廃寺。 |
第二位 | 瑞泉寺 | 鎌倉郡二階堂郷 | |
第三位 | 東勝寺 | 鎌倉郡鎌倉郷 | 現在は廃寺。 |
第四位 | 万寿寺 | 鎌倉郡甘縄郷 | 現在は廃寺。 |
第五位 | 大慶寺 | 鎌倉郡洲崎郷 | 現在は廃寺。 |
第六位 | 興聖寺 | 不明 | 現在は廃寺。 |
第七位 | 東漸寺 | 不明 | |
第八位 | 善福寺 | 鎌倉郡由比郷 | 現在は廃寺。 |
第九位 | 法泉寺 | 鎌倉郡鎌倉郷 | 現在は廃寺。 |
第十位 | 長楽寺 | 鎌倉郡笹目郷 | 現在は廃寺。 |
禅興寺
正式には福源山禅興久昌禅寺。開基は北條時宗。開山は蘭渓道隆。関東十刹の1つに数えられます。廃寺となった最明寺を再興したものです。仏殿・法堂・僧堂・経蔵・山門・稜厳塔・昭堂・妙高池・直指堂・久昌窟・大弁財天・羅漢塔などのほか、明月院・宗猷庵・黄龍庵・江雲庵・宗徳庵などの塔頭をもつ大きな規模の寺院だったといわれています。現在は廃寺となり、禅興寺塔頭の明月院が残っています。
東勝寺
鎌倉郡小町の葛西ヶ谷にあった禅寺です。山号は『空華集』によれば青龍山です。『扶桑五山記(日本諸寺住次)』に「東勝寺 相州 青龍山 開山西勇禅師」とみえ、『本朝高僧伝』には開基は北條泰時、開山は退耕行勇と記されています。退耕行勇は仁治2年(1241年)に東勝寺で示寂しています。十刹の順位には変遷があるものの、はじめは暦応5年(1342年)に第五位、文和2年(1353年)に第三位、のちに至徳3年(1386年)に関東十刹の第三位となりました。
万寿寺
『鹿山略志』によれば長谷郷(甘縄郷)にあったといわれ、現在の吉屋信子記念館周辺とされています。同書によれば弘安9年(1286年)に北條貞時が亡き父北條時宗のために創建したと伝えています。『東海一區集』『空華集』『幽貞集』などにも名が散見しています。
勧請開山は無学祖元、開基は北條貞時。元享3年(1323年)の北條貞時十三年忌法要には喝岩聡一以下僧衆75人が参加しています。
暦応4年(1341年)に天下十刹の第六位に選ばれ、至徳3年(1386年)関東十刹(鎌倉十刹)が決まって第四位(または第三位)となりました。
万寿寺に住した人々は東明恵日・高峯顕日・中巌円月・太古世源らがいます。
京都五山の第一位の京都万寿寺、天下十刹第十位の豊後万寿寺とあり、混同されがちです。円覚寺文書『関東管領上杉憲方の奉書』至徳2年(1385年)條・『中原師貞の打渡状』永享6年(1434年)條などから安房国や伊豆国伊東荘に領地をもっていたことが分かっています。
『金沢文庫研究紀要(鎌倉鷲峰法流伝来記222頁)』に「甘縄無量寿院今ノ万寿寺是ナリ」とみえます。
大慶寺
開山は大休正念。開基は長井光録。大慶寺は廃寺となりましたが、大慶寺塔頭の方外庵を興して大慶寺の名を復しました。
興聖寺
『五山記考異』によれば山号は功臣山、開山は夢窓疎石とされています。
所在地が未詳です。山号は報国寺と同じですが、開山が異なるので同一寺とはみることができません。
永正17年(1520年)に叔悦禅懌が円覚寺の住持となったときに諸山疎に「興聖」の名があります。永禄元年(1558年)に奇文禅才が円覚寺の住持となったときにも諸山疎に名がみられます。
関東十刹は『和漢禅刹次第』『鎌倉五山記』『五山記考異』など諸書にその名がみえますが、それぞれ伝が異なって出入があります。興聖寺の名は『鎌倉五山記』の別伝および『五山記考異』に関東十刹の1つとしてみえています。
東漸寺
現在調査中です。
善福寺
由比郷にあった禅寺です。
『鹿山略志』によれば山号を海雲山と号し、由比郷にあったと記しています。おそらく由比ヶ浜辺りと推察されています。
開山は大川道通。塔所に瑞厳とあります。
元享3年(1323年)の北條貞時の十三年忌供養に善福寺から僧衆66人を参加させていることからかなりの大寺であったことがうかがえます。『和漢禅刹次第』『鎌倉五山記』『五山記考異』など諸書によれば、のちに関東十刹の1つとなりました。
法泉寺
法泉寺ヶ谷にあった禅寺です。山号は竹園山。開山は素安了堂。開基は『延宝伝灯録』によると畠山国清。
畠山国清は文和2年(1353年)から康安元年(1361年)まで関東執事の職にあった人で、入道して道誓と号しました。
一方、素安了堂は延文5年(1360年)に69歳で寂していることから、法泉寺の創始は文和2年以降延文5年(1360年)までの8年間のうちになります。
鎌倉時代元享3年(1323年)の北條貞時十三年忌供養には法泉寺は僧衆15人を参加させていますが、この場合には開基が畠山国清では年代があわないとされて、素安了堂と畠山国清は中興した人物と推測されます。
『宴曲玉林苑上』所収に「巨山龍峯賛」「鶴岡霊異」「永福寺勝景」「鹿山景」などの次に配され「竹園山誉讃」「同砌如法写経讃」があり、歌詞に「竹園山動なく…寺号は又賢き法の泉 流久しく」云々とあり、法泉寺が桑田道海・葦航道然らにはじまることを記しています。
桑田道海は延慶2年(1309年)寂で、葦航道然は正安3年(1301年)寂です。
『吉良貞家寄進状』に観応2年(1351年)11月20日に法泉寺に対し武蔵国男衾郡崛戸郷の地頭職が安堵されたことが記されています。『相州文書』には文和元年(1352年)に畠山国清が法泉寺領の伊豆国狩野荘を交付せしめたことが記され、法泉寺の長老が伊豆国修禅寺の殿堂を新築し、天下の泰平を祈った功を足利尊氏から褒せられて静学坊を塔頭としています。康安元年(1361年)の秀堂徳盛の「遺誡案」によれば陸奥国如法寺が法泉寺の末寺となっています。南北朝時代に関東十刹の1つであったこともうなずけます。
いつ廃滅したのかは明らかではありませんが、天文16年(1547年)に北條氏鎌倉代官大道寺盛昌が法泉寺再興のために敷地として土地を寄進し、北條氏康の寄進地とあわせて300疋の地を宝珠庵に渡しています。
法泉寺にあった鐘が現在は東京都港区麻布の阿弥陀寺にあり、銘は清拙正澄で鋳工は物部道光です(『考古編』により)。この銘によれば当時の住持は素安了堂です。貞享年間(1684~1687年)には光明寺にあり、のちに阿弥陀寺に移されました。
長楽寺
笹目郷の長楽寺ヶ谷にあった寺です。現在は乱橋材木座1404~1409番地や長谷211~225番地・坂ノ下240~242番地の字に長楽寺の地名があります。『鎌倉志』に「此谷ニ昔シ寺有、長楽寺ト号ス 法然ノ弟子隆寛住セシトナリ」とあり、北條経時の墓のことを記されています。『風土記稿』は祇園山長楽寺安養院の伝としてかつては笹目谷周辺にあったといい、現在も長楽寺谷の名を遺していると記しています。祇園山安養院については『律苑僧宝伝』でも伝えられています。『日蓮聖人御遺文』『日蓮上人註画讃』に長楽寺のことが記されており、日蓮が目の仇にするようなかなりの高僧がいたことがうかがえます。
『吾妻鏡』文応元年(1260年)4月29日條に、大火事があって長楽寺前から亀谷の人家にいたるまで焼亡したと記されています。
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