鎌倉もののふ風土記-鎌倉のまち(町の旧跡)

鎌倉もののふ風土記-鎌倉のまち(町の旧跡)

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鎌倉幕府が開かれ、中世武家社会の中心地として繁栄した鎌倉は、古くからの歴史を物語る遺物や遺構の上に市民が暮らし、生活している町です。
いわば町そのものが貴重な遺跡であるといえます。幕府跡などをご紹介します。

 

大江広元の墓

大江広元(久安4年(1148年)~嘉禄元年(1225年))は、源頼朝の招きで鎌倉に下向し、公文所や政所の別当となり、守護・地頭の設置を献策するなど源頼朝の右腕となりました。
源頼朝の死後も幕府政治を支えました。大江広元の墓は西御門にある源頼朝の墓の東側、山の中腹と伝えられています。
3つあるやぐらの中央がその墓で、左は大江広元の子毛利季光、右は源頼朝の子といわれる島津忠久の墓だとされています。
十二所の明王院裏山にも、大江広元の墓と伝えられる層塔があります。


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梶原景時の墓

深沢小学校裏手のやぐらに、梶原景時と、その一族の墓とされる4基の五輪塔が並んでいます。
供養塔であるともいわれています。
梶原景時は平氏に属していましたが、石橋山の合戦で源頼朝を見逃して救ったのち、源頼朝に仕え信頼を得ました。
しかし、源頼朝の死後、御家人の反感を買い、正治2年(1200年)に京都に落ち延びる途中、駿河国で一族もろとも滅ぼされました。


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木曽義高の墓

木曽義高(承安3年(1173年)~元暦元年(1184年))は木曽義仲の嫡男です。
寿永2年(1183年)、人質として鎌倉に送られ源頼朝の娘大姫との許嫁となりました。
木曽義仲が討たれると、木曽義高は密かに鎌倉から逃げ出しましたが、武蔵国(埼玉県)の入間川で斬首されました。
首はのちに常楽寺の裏山の塚に葬られ、土地の人は、この塚を木曽塚、辺りを木曽免と呼んでいます。
これが現在の木曽義高の墓で、墓石と碑が建っています。


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上杉憲方の墓

上杉憲方(建武2年(1335年)~応永元年(1394年))は山内上杉氏の祖です。
室町時代に鎌倉公方足利氏満のもとで関東管領となりました。
極楽寺坂にある石塔群のうち、七層塔が上杉憲方の墓で、五輪塔は妻の墓とされています。
墓の向かいの西方寺跡には、妻が建てたとされる上杉憲方の逆修塔(生前に建てる供養塔)があります。
上杉憲方は晩年、出家し道合と呼ばれ、山内の明月院を開いたので、明月院やぐらにある墓も上杉憲方のものといわれています。国指定史跡です。


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日野俊基の墓

後醍醐天皇の命令で鎌倉幕府打倒を企てた公家の日野俊基は、京都で捕えられ許されました。
しかし、再び倒幕を企て、葛原ヶ岡で斬首されました。葛原岡神社境内の宝篋印塔は日野俊基の墓といわれ、国指定史跡です。
「秋をまたで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらん」と辞世を詠んだといわれています。


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護良親王の墓

護良親王(延慶元年(1308年)~建武2年(1335年))は後醍醐天皇の皇子で、鎌倉幕府倒幕の中心人物として元弘3年(1333年)に征夷大将軍になりました。
しかし、足利尊氏と対立し、鎌倉二階堂の東光寺に幽閉されたといわれ、のちに足利尊氏の弟足利直義に殺害されました。
首は藪のなかに捨てられましたが、理智光寺の住職によって埋葬されたといいます。
東光寺は明治時代に廃寺となり、その跡には墓塔が建っています。


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十一人塚

元弘3年(1333年)の鎌倉攻めの際、新田義貞軍の浜手の大将大舘宗氏は極楽寺坂の切通へ攻め入りました。
しかし、鎌倉側に反撃され、稲瀬川で討死したといわれています。
そして、大舘宗氏以下の11人も自刃しました。葬られた場所に十一面観音像が建てられ、霊を弔ったので十一人塚と呼ばれるようになり、石碑や塔婆が建てられました。鎌倉市指定史跡です。


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泣塔

元弘3年(1333年)の鎌倉攻めの際、新田義貞軍と赤橋守時率いる北條勢との間で激戦が繰り広げられた洲崎古戦場の碑の近くに建つ宝篋印塔です。
付近のやぐらの被葬者に対する供養塔といいます。
昔、一時的に手広の青蓮寺に移されましたが、毎晩元の場所を恋しがるようにすすり泣く声がするため戻されたといわれています。
その後、泣き声は止まったといいます。
塔の銘には「文和5年(1356年)」とあります。保存状態がよく、年代が明らかで形が美しいことから、昭和8年(1933年)に国の重要美術品に、また昭和46年(1971年)には鎌倉市指定有形文化財に指定されました。


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貝吹地蔵

瑞泉寺裏山にある地蔵です。元弘3年(1333年)に新田義貞の鎌倉攻めの際、自害した北條高時の首を新田勢に渡すまいと北條高時の家来がもって逃げましたが、埋める場所に窮しました。
そのとき、地蔵が貝を吹いて夢窓疎石(国師)の建てた遍界一覧亭から天園に向かう谷間に導いてくれ、ぶじに首を埋めることができたという伝説があります。
また一説には、新田勢が攻めてきたときに、ほら貝で報せた地蔵であるともいわれています。


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月影地蔵

稲村ヶ崎小学校から西ヶ谷方面へ向かう山道にあるお堂に安置された地蔵。
かつては江ノ電極楽寺駅の先の月影ヶ谷にあったことから月影地蔵と呼ばれています。
現在の本尊は江戸時代の木造地蔵菩薩立像であるが、子どもたちの健やかな成長を願う地蔵として、近隣の人々に守り継がれてきました。


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六地蔵

由比ヶ浜通りと今小路の交差地点に並ぶ六体の地蔵です。
鎌倉時代に、この北側には刑場があったといい、そのため「飢渇畠」と呼ばれる荒地だったといわれています。
罪人の供養のために、生死を繰り返す6つの迷いの世界(六道)から救うといわれる六体の地蔵が祀られました。
江戸時代、俳人の松尾百遊松尾芭蕉をしのんで句碑を建てました。


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日蓮袈裟掛松

鎌倉十橋の針磨橋から稲村ヶ崎に向かう途中にある松です。
文永8年(1271年)、『立正安国論』を著して幕府に捕えられた日蓮は、龍ノ口刑場へ連れていく途中、袈裟を血を汚すのはおそれ多いと松の下枝にかけたといいます。
当時の松は枯れ、何度も植え替えられました。「南無妙法蓮華経」と記された石碑が建っています。


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日蓮上人辻説法跡

日蓮が辻説法を行ったとされる場所です。
小町大路にあり、日蓮はここで法華経の教えを熱心に説いたといいます。
震災・干ばつ・疾病などの原因は他宗にあるとして、激しく批判しました。
跡地には石碑と腰掛石が立ち並んでいます。
明治時代の日蓮宗学者の田中智学が、腰掛石を道の反対側から移し周囲を整備しました。
辻説法跡は本興寺などにもあります。


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鎌倉十井

鎌倉は古来より水に恵まれない土地であったため、質のよい水が湧き出す井戸は貴重な水源でした。
十井(じっせい)とは、水質もよく美味で、伝説やいわれが残る代表的な十の井戸のことです。
江戸時代に鎌倉遊覧が盛んになり、名所旧跡を名数を使って紹介したのがはじまりといわれています。
「泉ノ井」「扇ノ井」「甘露ノ井」「鉄ノ井」「底脱ノ井」「銚子ノ井(石ノ井)」「瓶ノ井(甕ノ井)」「星ノ井(星月ノ井)」「棟立ノ井」「六角ノ井(矢ノ根ノ井)」の10井戸をいいます。
詳しくは鎌倉十井ページ

 

鎌倉五名水

水に恵まれていない鎌倉ですが、なかでも質のよい清水が湧き出る泉を五名水とし、観光名所としました。
『新編鎌倉志』には、「鎌倉に五名水あり」として、以下の5つの記載がありますが、金龍水のように、すでに埋められてしまったものもあります。
「梶原太刀洗水」「金龍水」「銭洗水」「日蓮乞水」「不老水」の5つをいいます。
詳しくは鎌倉五名水ページ

 

鎌倉十橋

鎌倉を流れる滑川・逆川・山ノ内川などにかかる橋のなかで、古くから伝説が残る十の橋のことをいいます。
十井などと同じく、江戸時代になって鎌倉名数の1つとして観光用にいわれるようになりました。
詳しくは鎌倉十橋ページ

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