武士列伝-鎌倉武士・鎌倉御家人・坂東武士
このページでは、鎌倉武士をはじめ、鎌倉幕府御家人、そして坂東武士(武蔵武士・相模武士)などを紹介いたします。
鎌倉武士
平 良文 (886~952年) | |
平良文(たいらのよしふみ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ坂東平氏の一族。鎌倉氏・三浦氏などの祖。仁和2年(886年)に高望王の五男として生まれる(『二伝寺村岡五郎平良文公 墓前碑』)。母は藤原範世(藤原師世)の娘。 延長元年(923年)1月、醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」という勅令を受け東国に下向(転住)。武蔵国熊谷郷村岡に住み村岡良文(村岡五郎)を 称す(『二伝寺村岡五郎平良文公墓前碑』)。 天慶元年(938年)に相模国鎌倉郡に移り住み、村岡に御霊神社を勧請。高谷にも館を構え、日枝山王宮を勧請。 wikipedia「平良文」 |
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桜山 忠輔 (923~*980年) | |
桜山忠輔(さくらやまのただすけ)は平安時代の武士。延長3年(925年)に平良文の長男として生まれ、鎌倉郡沼浜郷桜山を領し桜山を称す。 | |
村岡 忠頼 (930~1019年) | |
村岡忠頼(むらおかのただより)は平安時代の武士。延長8年(930年)6月18日に平良文の次男として生まれる。村岡次郎と称す。官位は武蔵介・武蔵国押領使・陸奥守。 寛仁2年(1019年)に90歳で死去。 |
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村岡 忠光 (932~*990年) | |
村岡忠光(むらおかのただみつ)は平安時代の武士。承平2年(932年)に平良文の三男として生まれる。村岡小五郎と称す。母は大野茂吉の娘。官位は駿河守。後に三浦郡長井を領し長井氏(長井忠光)を称したともいわれる。 | |
村岡 貞光 (954~1021年) | |
村岡貞光(むらおかのさだみつ)は平安時代の武士。天暦8年(954年)に村岡忠光の長男として生まれる。平貞光・平貞通とも書く。村岡権五郎を称していたという。 清和源氏の棟梁源頼光に仕えた。『今昔物語』によれば村岡忠通は弓の名手として剛勇を鳴らし、源頼光の実弟源頼信にも仕えたとされる。『諸家系図纂』『平群系図抜萃』『続群書類従』などに 「鎌倉 梶原 長尾 長江 小坂 香河 柳下 金井等 一族の先祖なり」と記されている。 治安元年(1021年)に68歳で死去。 |
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村岡 忠通 (980~*1040年) | |
村岡忠通(むらおかのただみち)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ坂東平氏の一族。鎌倉氏・三浦氏などの祖。平貞光の長男。平忠通とも書く。村岡小五郎・村岡次郎太夫などとも称した。 『源平闘諍録(桓武天皇より平家の一胤の事)』 巻第1上には「平忠通(村岡忠通)は村岡平大夫といい、村岡を屋敷となし、鎌倉・大庭・田村等を領知す 鎌倉の先祖これなり」とあり、すでに相模川を越えて大住郡田村(現在の平塚市)をも所領としていた。 wikipedia「村岡忠通」 |
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鎌倉 章名 (1015~*1070年) | |
鎌倉章名(かまくらのあきもり)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の祖。村岡忠通(平忠通)の三男。鎌倉甲斐権守を称す。鎌倉景名・平章名とも書くことがある。兄弟に村岡忠輔(村岡孝輔)・三浦為通がいるのほか、源為満や秩父将恒に嫁いだ妹がいる。 相模大領丸子公景娘婿となり、子孫は相模武士・鎌倉党として栄えた。丸子氏から通字「景」の字を継承し、子孫(鎌倉党)に多く見られる。 wikipedia「鎌倉章名」 |
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鎌倉 景通 (1035~*1100年) | |
鎌倉景通(かまくらのかげみち)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉章名の次男。鎌倉権大夫・鎌倉四郎太夫とも書く。三浦為通の娘婿。兄に鎌倉良名がいる。 前九年の役(1051~1062年)で源頼義の配下として従軍。勇猛七騎の1人として名を残している(『陸奥話記』)。 wikipedia「鎌倉景通」 |
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鎌倉 為季 (1055~1079年) | |
鎌倉為季(かまくらのためすえ)は平安時代の武士。 桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景通の長男。鎌倉権大夫を称す。 承暦3年(1079年)に武蔵国の横山党との領地争いで中村景平に討たれ、25歳で死去。 |
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長尾 景村 (1040~*1100年) | |
長尾景村(ながおのかげむら)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉章名の三男。 承暦元年(1077年)に相模国鎌倉郡村岡郷から長尾郷に移り長尾氏を称す(『御影之記』)。 |
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鎌倉 景成 (1045~1088年) | |
鎌倉景成(かまくらのかげなり)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉章名の四男。鎌倉景通の弟。通称は鎌倉権大夫・鎌倉四郎太夫・鎌倉権守。平景成とも書く。 鎌倉郡一帯の領主として、鎌倉郡のみならず相模国南部に勢威を張っていた。 寛治2年(1088年)に死去(『坂下五霊宮縁起』)。 wikipedia「鎌倉景成」 |
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鎌倉 景政 (1069~1130年) | |
鎌倉景政(かまくらのかげまさ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。平景成の次男。通称は鎌倉権五郎。平景政・鎌倉景正とも書くことがある。兄に梶原景久がいる。 源義家に与し、16歳のときに後三年の役(1083~1087年)に従軍。右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に記されている。 大治5年(1130年)に62歳で死去(『坂下五霊宮縁起』)。 wikipedia「鎌倉景政」 |
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鎌倉 景明 (1089~*1160年) | |
鎌倉 景明(かまくらのかげあき)は平安時代の武士。 桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景政の長男。兄弟に鎌倉景継・鎌倉景経・鎌倉景門らがいる。 鎌倉景明の子長江義景は鎌倉郡端山郷に居を構え長江氏(長柄氏)を名のった。 |
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長江 義景 (*1130~*1200年) | |
長江義景(ながえのよしかげ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景明の長男。長柄義景とも書く。 三浦義明の娘婿。鎌倉郡端山郷に居を構え長江氏(長柄氏)を名のった。弓の名手として高名であり、源平合戦では縁戚の三浦氏と協力して源頼朝に与したが、衣笠城合戦(1180年)で敗れ敗走した。源頼朝の信任も厚く、伊勢大廟神宝奉行となった。 wikipedia「長江義景」 |
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鎌倉 景継 (1095~*1160年) | |
鎌倉景継(かまくらのかげつぐ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景政の次男。兄弟は兄鎌倉景明と弟鎌倉景経・鎌倉景門らがいる。大庭景継・大庭景忠とも書くことがある。 長承4年(1134年)に大庭御厨下司として記録に残っている。大庭御厨を領したことで大庭氏を称した。 |
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大庭 景宗 (1115~*1155年) | |
大庭景宗(おおばのかげむね)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景継の長男。大庭氏を名のる。横山隆兼の娘婿。 | |
懐島 景義 (1138~1210年) | |
大庭景義(おおばのかげよし)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景宗の長男。母は横山隆兼の娘。大庭平太・懐島太郎・大庭景能とも書く。 保元の乱(1156年)で源義朝に与して従軍。源為朝の矢を受け負傷したことで相模国大庭御厨のなかの懐島郷に隠棲し、家督は弟大庭景親に任せた。 治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると弟大庭景親と袂を分かち源頼朝に麾下。鎌倉幕府の長老格として重きをなした。 |
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大庭 景親 (1140~1180年) | |
大庭景親(おおばのかげちか)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景宗の次男。 保元の乱(1156年)で兄懐島景義が負傷したことで家督を継承。治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると平家方の大将として兵を率いて石橋山合戦で源頼朝を撃破した。しかし安房国へ逃れて再挙した源頼朝が多くの東国武士の支援を受けて鎌倉に入り、大庭景親は富士川合戦で源頼朝に敗れ降伏。処刑された。 |
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豊田 景俊 (1145~*1210年) | |
豊田景俊(とよだのかげとし)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景宗の三男。兄弟は兄懐島景義・大庭景親、弟俣野景久、波多野義常に嫁いだ妹がいる。 | |
俣野 景久 (1147~1183年) | |
俣野景久(またののかげひさ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景宗の四男。俣野五郎・俣野景尚とも書くことがある。鎌倉郡俣野郷を領して俣野氏を称した。 兄大庭景親に与して石橋山合戦では平氏方につき源頼朝軍の佐奈田義忠と死闘をくり広げ、長尾定景の援けで一命をとりとめた。兄大庭景義が敗れ処刑されても戦いつづけ、倶利伽羅峠合戦で木曽義仲軍と戦い、加賀国篠原で討死した。 |
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香川 高政 (1117~*1180年) | |
香川高政(かがわのたかまさ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ鎌倉平氏の一族。鎌倉景継の次男。香川介大夫を称す。 | |
三浦 為通 (1010~1083年) | |
三浦為通(みうらのためみち)は平安時代の武士。 桓武平氏の流れをくむ坂東平氏の一族。村岡忠通(平忠通)の次男。通称は三浦平大夫。三浦為名とも書くことがある。鎌倉章名の兄。 源頼義から相模国三浦郡三浦郷を与えられ、叔父三浦忠光(平忠光)の養子となり三浦氏を嗣ぐ(『系図纂要』)。 wikipedia「三浦為通」 |
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三浦 為継 (1048~*1110年) | |
三浦為継(みうらのためつぐ)は平安時代の武士。 桓武平氏の流れをくむ坂東平氏の一族。三浦為通の長男。 |
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三浦 義継 (1070~*1130年) | |
三浦義継(みうらのよしつぐ)は平安時代の武士。 桓武平氏の流れをくむ坂東平氏の一族。三浦為継の長男。 |
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三浦 義明 (1092~1180年) | |
三浦義明(みうらのよしあき)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦郡(三浦荘)の豪族。三浦義継の長男。母は笠間常宗の娘。 兄弟に津久井義行・蘆名為清・岡崎義実、大友経家に嫁いだ妹がいる。 三浦介(官位)を世襲し天治年間(1124~1126年)には三浦半島一帯を支配。久寿2年(1155年)に源義朝の子源義平が源義賢と戦った大蔵合戦では、孫源義平を支援した。 衣笠城合戦(1180年)で平家方に与していた畠山重忠に攻められ戦死。 wikipedia「三浦義明」 |
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杉本 義宗 (1125~1164年) | |
杉本義宗(すぎもとのよしむね)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。三浦義明の長男。母は秩父重綱の娘。 兄弟は弟三浦義澄・佐原義連・多々良義春・長井義季・杜重行・大多和義久、源義朝・畠山重能・金田頼次・長江義景・大河戸広行らに嫁いだ妹がいる。長寛2年(1164年)に死去し、家督は弟三浦義澄が嗣いだ。 |
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和田 義盛 (1147~1213年) | |
和田義盛(わだのよしもり)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。杉本義宗の長男。源頼朝の挙兵に参加し、初代侍所別当に任じられる。 治承・寿永の乱には源範頼の軍奉行として従軍、奥州合戦にも従軍して武功を立てた。源頼朝の死後、梶原景時の変での梶原景時弾劾追放の中心的役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北條氏に与した。しかし、北條義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、鎌倉幕府軍を相手に戦い建保元年(1213年)5月3日に戦死した(和田義盛の乱・和田合戦)。 wikipedia「和田義盛」 |
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三浦 義澄 (1127~1200年) | |
三浦義澄(みうらのよしずみ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。三浦義明の次男。伊東祐親の娘婿。 治承4年(1180年)に衣笠城合戦で父三浦義明を討死させてしまい房総半島へ敗走。千葉常胤・上総広常・土肥実平らとともに源頼朝の宿老となり幕府を支えた。 源頼家を補佐する十三人の合議制の1人。 wikipedia「三浦義澄」 |
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佐原 義連 (1130~1203年) | |
佐原義連(さはらのよしつら)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。三浦義明の三男。母は秩父重綱の娘。三浦郡佐原に居を構え佐原氏を称した。 治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵に兄三浦義澄とともに参じ御家人となる。源頼朝の寝所を警護する11人の1人に選ばれるなど重臣として活躍している。 佐原氏の多くが三浦氏とともに宝治合戦(1247年)で滅びているが、北條方についた佐原盛時が再興。 |
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岡崎 義実 (1112~1200年) | |
岡崎義実(おかざきのよしざね)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。三浦義継の四男。三浦義明の弟。三浦悪四郎・岡崎平四郎・岡崎四郎とも書く。中村宗平の娘婿。相模国大住郡岡崎を領し岡崎氏を称した。 源頼朝挙兵に参じ石橋山合戦で嫡男佐奈田義忠を失う。義弟土肥実平とともに源頼朝を援け御家人に列し、89歳の長寿を全うした。 wikipedia「岡崎義実」 |
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佐奈田 義忠 (1155~1180年) | |
佐奈田義忠(さなだのよしただ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。岡崎義実の嫡男。相模国大住郡真田を領し佐奈田氏を称した。佐奈田義貞・真田義忠・岡崎義忠・真田与一・真田余一とも書く。弟に土屋義清がいる。 源頼朝挙兵に参じ、山木兼隆の館襲撃に加わり、石橋山合戦で大庭景親軍と奮戦。俣野景久と組みあい、大庭軍の援軍長尾新五郎・長尾新六郎らに討たれた。 wikipedia「佐奈田義忠」 |
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土屋 義清 (1160~1213年) | |
土屋義清(つちやのよしきよ)は平安時代の武士。桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。岡崎義実の次男。叔父土屋宗遠の養子となり土屋氏を称した。 父岡崎義実や一族とともに源頼朝に仕え治承・寿永の乱や奥州合戦などに従軍し、鎌倉幕府の成立に尽力し御家人となる。建保元年(1213年)5月3日の和田義盛の乱において、一族の和田側として戦い鶴岡八幡宮の赤橋(太鼓橋)付近で流れ矢にあたって戦死した。 |
鎌倉幕府御家人
安達 盛長 (1135~1200年) | |
安達盛長(あだちのもりなが)は、平安時代末期の武士。鎌倉時代に繁栄する安達氏の祖。安達藤九郎ともいう。 源頼朝の乳母比企尼の長女丹後内侍を妻としており、源頼朝が伊豆国で流人だったころからの側近。妻がかつて宮中で女房を務めていたことから藤原邦通を源頼朝に推挙するなど京都に知人が多く、京都の情勢を源頼朝に伝えていた。鎌倉御家人として甘縄に館をかまえ、源頼朝の信頼が厚く、源頼朝が私用で安達盛長の屋敷をしばしば訪れている(『吾妻鏡』)。 『尊卑分脈』では小田野兼広(藤原氏)の子としているが、出自ははっきりしていない。兄に足立遠兼がおり、年上ながら足立遠元は甥にあたる。 wikipedia「安達盛長」 |
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伏見 広綱 (*1140~*1190年) | |
伏見広綱(ふしみのひろつな)は、平安時代末期の人物。源頼朝の右筆。伏見冠者藤原広綱ともいわれます。遠江国佐野郡を本拠とする伏見藤原氏。伏見広綱は佐野郡掛河の出身。 文筆に秀で、鎌倉に幕府を構えた源頼朝が朝廷のことに通じている者を探していたところを安田義定の推挙を受け、寿永元年(1182年)5月12日、鎌倉に参じて源頼朝の右筆となった。 寿永元年(1182年)11月10日に源頼朝の愛妾亀前を飯島の自邸にかくまっていたことが源頼朝の妻北條政子の怒りを買い、北條政子の命を受けた牧宗親に邸を破壊された。亀前を連れ命からがら大多和義久(三浦義明の子)の鐙摺館に逃れた。 12月16日、伏見広綱は北條政子の怒りによって遠江国に流罪となり、仕えたわずか半年で鎌倉を去った。 wikipedia「伏見広綱」 |
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牧 宗親 (*1140~*1190年) | |
牧宗親(まきのむねちか)は、平安時代末期の駿河国大岡牧の豪族。牧大舎人允・牧三郎ともいう。 北條時政の後妻である牧方の父。子に大岡時親がいるが牧氏事件で出家している。 平頼盛に長年仕え、平頼盛の所領で北條氏の本拠に近い駿河国大岡牧を領有。『愚管抄』は牧氏を「武者にもあらず」と記しており下級ながらも貴族の出身であった。 北條政子の命で源頼朝の愛妾亀前がかくまわれていた伏見広綱邸を破壊したことから源頼朝の怒りを買い、髻を切られる恥辱を受けた。 この事件で源頼朝の岳父であり、牧宗親の娘婿でもある北條時政が源頼朝への抗議として一族を率いて伊豆国へ引き上げる騒動になっている。 wikipedia「牧宗親」 |
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