鎌倉もののふ風土記-鎌倉の入江

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相模湾

鎌倉の入江

縄文時代の相模湾は、現在と違って藤沢の大部分が水底しており、藤沢湾と鎌倉湾が深く遠くへと入り込み、大庭入江藤沢入江粟船(大船)入江と呼ばれる入江が並んでいました。
なかでも粟船(大船)入江は幅こそ800mほどにすぎませんが、奥行は10kmを超える大きな入江で、笠間や田立などは島をなしていました。
粟船(大船)入江は現在の柏尾川や阿久和川へとつづいているわけですが、岡津や平戸辺りまで入江がつづいていたといいます。
藤沢入江からつづく境川にしても、高座(高倉)までは入江がつづき海水が入り込んでいたといいます。
これらの入江に流れ込む河川の流域は広い砂泥の沖積地をつくり、入江に沿った縁辺の台地に人々が暮らし、縄文文化は育まれてきました。
古墳や土師器などの出土については、山内本郷の鍛冶ヶ谷や富塚郷、瀬谷本郷に集中的に分布しており、山内本郷には本郷・公田・田所などの古名が残され、水田地帯でもあり、鎌倉郡のなかでも中心地であったことがうかがえます。
辻堂や鵠沼辺りを唐ヶ原(もろこしが原)と呼んでいたことが『更級日記』に残っており、唐沢という地名が残っていたり、大磯の高麗山、高座(高倉)が高句麗の訛といったように、高句麗や唐の帰化人が移住し、農耕生活や桑をつくって養蚕をするなど定住生活していたという説もあります。

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