いざ鎌倉プロジェクト-鎌倉もののふ略年表

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鎌倉のもののふ略年表を紹介します。

鎌倉略年表
和暦(元号)
西暦
できごと
旧石器時代 粟船山・小袋谷から旧石器時代の打製石器が出土。1万年以上前に人が生活していたことが判明。
欽明天皇13年 552年 江島神社の本宮が建立される。
和銅3年 710年 染屋時忠が甘縄神明神社を創建。
和銅5年 712年 『古事記』に「足鏡別王は鎌倉之別の祖」とあり、「鎌倉」の初見。
天平5年 733年 今小路西遺跡(御成小学校敷地内)より「天平五年七月十四日」と記された木簡が出土。
天平6年 734年 光明皇后の命により行基が杉本寺を創建。
天平7年 735年 『相模国封戸租交易帳』に鎌倉郷・荏草郷・尺度郷と記されている。
天平8年 736年 徳道が長谷寺を建立。
天平13年 741年 相模国の国府が海老名にでき、国分寺が建立される。国分寺礎石は現在、瀬谷の神明社に建てられている。
天平勝宝元年 749年 正倉院御物の古裂に「鎌倉郡」の記載が見られる。
延暦13年 794年 京都に都が移される。
延暦20年 801年 坂上田村麻呂が鎌倉で荒神をまつる。
弘仁10年 819年 空海(弘法大師)が青蓮寺・浄泉寺などを開く。
永承6年 1051年 源頼義源義家父子が奥羽地方の豪族安倍氏を攻める(前九年合戦)。
康平5年 1062年 源頼義源義家父子が奥州の安倍氏を討伐。
康平6年 1063年 源頼義が京都の石清水八幡宮を鎌倉由比郷に勧請し、由比若宮(由比八幡宮)を建立。
承暦3年 1079年 武蔵国の横山党と相模国の鎌倉党が領地争いによって衝突。
押領使中村景平鎌倉為季(鎌倉権大夫)に討たれる。仇討ちと中村党が鎌倉為季を討った(水左記)。
永保3年 1083年 後三年合戦がはじまる。
寛治4年 1090年 山内郷笠間の中村党笠間常宗鎌倉景政に討たれる(『桓武平氏諸流系図』)。
長治元年 1104年 荏柄天神社が創建される。
長治2年 1105年 鎌倉景政(鎌倉権五郎)が大庭御厨を開発。
天養2年 1145年 源義朝が先祖代々の土地である亀谷(扇谷)に住む。
久安3年 1147年 源義朝の三男として尾張国熱田神宮西の神宮大宮司藤原季範の別邸(現在の誓願寺)で源頼朝が生まれる。
保元元年 1156年 保元の乱が起こり、源義朝が父源為義・弟源為朝らを撃破。
平治元年 1159年 平治の乱が起こり、藤原信頼源義朝らが御所を焼く。源頼朝も参陣。
永暦元年 1160年 源義朝平清盛に敗れ、捕らえられた源頼朝は伊豆国の蛭ヶ小島に流される(流罪)。
源義経は鞍馬寺に預けられる。
仁安2年 1167年 平清盛が太政大臣になる。
仁安3年 1168年 栄西が中国の宋に入る。
治承元年 1177年 平清盛後白河法皇の近臣らクーデターを画策した者たちを処罰(鹿ケ谷事件)。
源頼朝(31)と北條政子(22)が伊豆国で婚姻。
治承3年 1179年 平清盛後白河法皇を幽閉(治承三年のクーデーター)。
治承4年 1180年 4月、以仁王の平家追討令が発せられる。
源頼政(77)が挙兵し宇治川で戦死。以仁王(30)討死。
8月、源頼朝(34)が伊豆国で挙兵し相模国へ攻め入るが石橋山合戦で敗れ、真鶴岬から安房国へ逃れる。
9月7日、木曽義仲(27)が北信濃国で市原合戦ののち、上野国多胡郡に入る。
10月5日、源頼朝は武蔵国から相模国に入り世野郷(瀬谷郷)の相辺沢(相沢)の鎮守諏訪明神に一泊。
10月6日に相辺沢義氏(相辺沢六郎)相辺沢義村(相辺沢七郎)の先導で、飯田家義とともに俣野郷の俣野景久(俣野五郎)大庭景親らを撃破し4万の軍勢を率いて鎌倉入り。
源頼朝が鎌倉に入り本拠地とし、由比郷の由比若宮(由比八幡宮)を小林郷松岡に移し鶴岡八幡宮と改める。大蔵に新たに御所を造成。
源頼朝は平氏追討のため西国に向けて出陣。黄瀬川で甲斐源氏の武田氏と合流し、富士川で平氏軍と対陣(富士川合戦)し平氏軍を敗走させる。黄瀬川で源義経と対面。
源頼朝が侍所を設置し別当に和田義盛を任命。
治承5年 1181年 高倉天皇(21)が没する。
後白河法皇(55)院生を再開。
平清盛(64)が没する。
寿永元年 1182年 源頼朝が妻北條政子の安産を祈願して鶴岡八幡宮参道(若宮大路)・段葛を造営し、源平池を造る。
北條政子源頼家を生む。
文覚源頼朝の願いにより江島に弁財天をまつる。
寿永2年 1183年 木曽義仲が人質として嫡男木曽義高を鎌倉へ送る。
木曽義仲軍が砺波山で平氏を撃破(倶利伽羅峠合戦)。平氏は安徳天皇を連れて都落ちし、屋島に拠点を置く。
木曽義仲が延暦寺と手を結び入京。後白河法皇木曽義仲には平氏追討の宣旨を発し、源頼朝には木曽義仲追討の宣旨を発す。
木曽義仲がクーデターを決行し、後白河法皇を幽閉。源頼朝木曽義仲追討のため源義経源範頼らを西国へ派遣。
梶原景時上総広常を討ち、「梶原太刀洗水」伝説が生まれる。
元暦元年 1184年 木曽義仲が征夷大将軍(朝日将軍)となる。
後白河法皇源頼朝に平氏追討の院宣を発す。
源範頼は近江国瀬田で、源義経は宇治で木曽義仲軍を撃破し、粟津で木曽義仲を討ち、源範頼源義経兄弟は一ノ谷合戦で平氏を撃破する。源頼朝が人質の木曽義高を殺害。
源義経後白河法皇から検非違使を任じられ、源頼朝と対立する。
源頼朝が公文所・問注所を開設。
文治元年 1185年 3月、屋島・壇ノ浦合戦で源範頼源義経兄弟が平氏を滅ぼす。源義経が京都へ凱旋。
5月、源義経が鎌倉入りを拒否され、源頼朝に腰越状を書き送るが鎌倉入りを許されることはなかった。源頼朝源義経暗殺のため土佐坊昌俊を送るが発覚し、土佐坊昌俊は殺害される。
後白河法皇源義経源頼朝追討の宣旨を発するが、圧力により逆に源頼朝源義経追討の宣旨を発する。
源頼朝が父源義朝の菩提を弔うため勝長寿院を建立。
11月、源頼朝が諸国に守護・地頭を設置。
文治2年 1186年 静御前が鶴岡八幡宮で舞う。
西行源頼朝と面会。
文治3年 1187年 源頼朝が鶴岡八幡宮で流鏑馬を行う。
文治4年 1188年 2月、源頼朝源義経の追討令を発す。
文治5年 1189年 4月、源義経が衣川で藤原泰衡に襲われ、平泉で自害。
9月、源頼朝が奥州藤原氏を討ち奥州平定(奥州藤原氏滅亡)。
建久2年 1191年 源頼朝が鶴岡八幡宮の若宮を大臣山中腹に移し本宮とする。
源頼朝が政所を設置。
栄西が二度目の入宋から帰国し、臨済禅を広める。
建久3年 1192年 源頼朝源義経藤原泰衡の冥福を祈願し、永福寺(二階堂)を創建。
7月、源頼朝が征夷大将軍に任命される。
8月、源頼朝が弟源範頼を追放。
北條政子千幡(源実朝)を生む。
建久4年 1193年 源頼朝が弟源範頼を伊豆国で殺害。
建久6年 1195年 源頼朝が京都に上って東大寺再建供養祭に臨む。
正治元年 1199年 1月、源頼朝が53歳で逝去。源頼家が家督を継ぐ。
4月、北條政子源頼家の訴訟独裁権を排し、13人の御家人合議制とする。
正治2年 1200年 梶原景時が暗殺される。
北條政子
建仁2年 1202年 源頼家が征夷大将軍(2代将軍)となる。
建仁3年 1203年 8月、源頼家病気のため総守護職を弟源実朝に譲る。
9月、北條時政北條政子比企能員一族を滅ぼす。
源頼家が流され、源実朝が征夷大将軍となる。北条時政が執権となる。
元久元年 1204年 源頼家が伊豆国の修禅寺で殺される。
元久2年 1205年 6月、北條時政畠山重忠ら一族を討つ。
7月、北條時政が失脚し、次男北條義時が執権となる。
建暦元年 1211年 鴨長明が鎌倉へ下向し源実朝に謁見。
建保元年 1213年 和田義盛が挙兵。北條義時和田義盛の軍を下馬から由比ヶ浜あたりの激戦で破る。和田一族が滅亡し、北條義時が侍所別当となる。
建保2年 1214年 栄西が『喫茶養生記』を著し、良薬としてお茶を源実朝に勧める(献上)。
建保5年 1217年 源実朝が渡宋を企てて巨船を造るが失敗に終わる。
承久元年 1219年 1月、源実朝源頼家の遺児公暁に暗殺される。
九條頼経が鎌倉に下向し将軍となる。
承久3年 1221年 承久の乱が起こり、幕府方が後鳥羽上皇軍を撃破。後鳥羽上皇は隠岐国に流される。
貞応2年 1223年 道元が宋に入る。
弘安8年 1285年 「石上郷(土甘郷)、鎌倉の法華堂領となる」と『吾妻鏡』に記されている。
     
     

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