鎌倉もののふ風土記-鎌倉と湘南

鎌倉もののふ風土記-鎌倉と湘南

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日本国内の文献における「湘南」の初出は『倭名類聚抄』で、かつて中国に存在した長沙国湘南県(湖南省を流れる湘江の南部)のことです。
中世、中国の湘南では禅宗が発展し、禅宗の聖地のような存在でした。当時の中国では「禅宗」=「湘南」といっても過言ではないかもしれません。
現在の日本では「湘南」とは主に神奈川県相模湾沿岸をさしますが、禅宗を保護した鎌倉幕府の拠点「鎌倉」は、現在も禅宗臨済宗建長寺派および臨済宗円覚寺派の大本山「建長寺」「円覚寺」の所在地であり、鎌倉時代には禅宗と非常に密接な関係を有する土地でした。
当時中国との交易は、鎌倉では和賀江嶋と金沢湊が主な港でした。交易のなかで、中国の長沙国湘南県と土地がよく似ているということから日本の沿岸も「湘南」と名づけられたといわれています。あるいは禅宗を保護し密接な関係をもっていたことにちなんで名づけられたともいわれています。
残念ながら現在の「湘南」の定義は曖昧ですが、実は「鎌倉」こそが「湘南」の中心だったということもいえるかもしれません。

渡来人ゆかりの地

中国・朝鮮半島からの渡来人は、遠く氷河時代から縄文・弥生時代まで連綿とつづき、歴史時代になっても、戦乱時の亡命者のみならず、古代日本国の基礎づくりに貢献した文化人や技術者集団らが渡来してきました。
滋賀県日野町から東近江市にかけて百済人が配されたことで、旧愛東町には名高い「百済寺」があったり、新羅人を移して美濃国席田郡を設置した名残で岐阜県本巣市席田が地名として残っていたり、高句麗人1779人を東国七国に置き武蔵国高麗郡(埼玉県日高市から飯能市南高麗あたりが「武蔵国高麗郡」)を設置したことで、日高市には「高麗山聖天院」と「高麗神社」、JR「高麗川駅」、西武線「高麗駅」があったり、東京都狛江市に高句麗系とみられる「亀塚古墳」があったり、神奈川県大磯町高麗が花水川の右岸にあり、付近に「高来神社」があったり、高句麗系にゆかりの地名として山梨県巨摩郡や東京都狛江市(多摩川左岸の駒井も「こまえ」からの派生)なども地名として残っていたり、全国でみられます。

鎌倉でも、辻堂や鵠沼辺りを唐ヶ原(もろこしが原)と呼んでいたことが『更級日記』に残っており、柄沢(唐沢)という地名が残っていたり、大磯の高麗山、高句麗系渡来人によって開拓された高座(高倉)郡が高句麗の訛といったように、高句麗や唐の帰化人が移住し、農耕生活や桑をつくって養蚕をするなど定住生活していたといいます。
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